十七 黒幕
2話目です。
長くなってしまいました。
「なんと! 浅右衛門が妖刀に憑かれたと!」
ここは時の老中首座、安部伊勢守正弘の上屋敷。
なんやかんや理由をつけて将軍家慶が訪れているのは、町奉行に再就任が内定した遠山景元と、特に江戸城には呼びつけにくい、御様御用役にして不浄とされる打ち首役を務めている山田浅右衛門吉昌の昔話を聞かんが為であった。
時に弘化二年一月半ばのことである。
暦では春なのだろうが、寒さの厳しい折ゆえ、将軍の意向もあって四人で火鉢を囲むようにしての座談会であった。
話には妖刀が出てきて、正に真冬の怪談と言っていい。
「いや、未熟でした。お恥ずかしい……」
今話の中心になっているのは吉昌である。
若きころの話とはいえ、正気を失って友に刀を向けたなど御様御用としては面目次第もないといったところであろう。
「か、景元は無事であったのか?」
まだ話の途中なのだが、あまりに衝撃的だったのか、家慶は目の前に座っている遠山景元の安否を気遣ってしまった。
「上様。それがし足は付いておりますぞ。昔の話でござる」
「お、おお。そうであった。余としたことが……」
二十年来の付き合いのおかげか、或いは若い時分の無頼生活を思い出したからなのか、景元は将軍に対してかなりざっくばらんな口を聞いた。
家慶も全く気にした様子はなく、素直に時分の頓珍漢さを認め、笑い出す。
場所を提供している阿部正弘は、年齢の割りによくできた人間らしく、いちいち年上の部下の言動に口を挟むような無粋な真似はしなかった。
自分が生まれる前の出来事を興味深く聞かせてもらっているといった風情である。
「し、しかし、妖刀など信じぬと浅右衛門は申したではないか」
「は、今もその気持ちは変わりませぬ」
「では一体、何が起こったのじゃ?」
「それは、阿芙蓉のような薬のせいでございました」
「なに! 阿芙蓉とな!」
話を進める前にネタをバラしてしまった形になったが、家慶に与えた衝撃は計り知れないようである。
阿芙蓉。
アヘンとも呼ばれ、芥子の実から抽出される麻薬の一種であり、日本国内では栽培も製造もほとんどできなかったため、薬用として中国から輸入されている。
だが、抜け荷と呼ばれる密貿易によって、江戸幕府二百年を通じてかなりの薬害が出ていることは周知の事実であった。
加えて、お隣の大国・清では、二年ほど前にアヘンが原因で英国と戦さになり、清国は壊滅的な被害を受けたという。後世に言うアヘン戦争である。
それを知っている家慶が驚いたのは当然であった。
「あ、浅右衛門、阿芙蓉の毒は後々まで続くと聞いたが、そなた、大事無いか?」
「お気遣いかたじけなく存じます。遠山殿と清太郎殿のおかげをもちましてすぐに解毒できました」
「そ、そうであるか。それは重畳」
「恐れながら、もうひとつ。先ほど阿芙蓉のようなものと申し上げましたが、それは例えでございまして、正確には阿芙蓉ではなかったと聞いております」
「なに。そのような毒が他にもあるのか」
家慶は、誤解を招いた吉昌の発言に対しては特に咎めることもなく、薬害に対する心配を顕にしていた。
「は。そのようで……」
「詳しく話すが良い」
「は。それでは……」
遠山景元と山田浅右衛門吉昌の昔語りが再開される。
◇◇◇
話は少し時間を遡り、清太郎たちが浅草の祈祷所に乗り込む前のことであった。
「三輪様。オシラさまがお呼びです」
「うむ。ようやくか……」
祈祷所の裏にある納屋にあやめの兄、良吉がやってきた。
何をすることもなく納屋の前で素振りをしていた源八郎は、刀を鞘に収めると良吉に渡そうとする。
「預けねばならぬのだろう?」
「これは恐れ入ります……確かにお預かりします……」
良吉は大小二本を胸に抱え、クルリと身体の向きを変える。そして源八郎を先導するように母屋に向かうのであった。
その途中、本命である祈祷の真偽を確かめる前にと、源八郎はある質問で良吉の出方を探ろうとする。
「……時に良吉殿。昨日は役人が来ていたようであったが、何か事件でもござったか?」
「いえいえ。大したことでは……何でも、ここで祈祷を受けた方たちが数人姿を消してしまったそうで、その心当たりはないかと聞かれただけにございます」
源八郎の突然の質問にも良吉はよどみなく答える。
これは奉行所の役人も上手くあしらったのだな、と源八郎は当てが外れた思いであった。
それでは意味がないと、さらに踏み込んでみる。
「ほう。姿を消したと。それで、心当たりはござるのか?」
「滅相もございません。祈祷を受けている最中の方たちならともかく、既に祈祷が終わり、お悩みも解決なされた方々のことまではわかりかねます。ただ……」
「ただ、何でござるかな?」
「あ、いえ。これはお役人さまにも申し上げましたが、お悩みがなくなったということは、新しい道が見えたということ。おそらく、その人たちは新たな目標に向かって旅立ったのではないかと……」
「……なるほど。新たな道か。拙者も是非肖りたいものだ……」
いけしゃあしゃあというのはこのことだと源八郎は内心腸が煮え繰り返ったが、適当に話を合わせておいた。
源八郎はその思いを顔に出したわけではないつもりなのだが、今度は良吉が源八郎を探るような発言をする。
「昨日といえば、三輪様はお出かけになったようで。どちらへ?」
「うむ。あまりに手持ち無沙汰だったので浅草寺までな」
監視されていたと承知の源八郎は有り体に答えるのであった。
「浅草寺でございますか。それはそれは……」
「うむ。お主の言いたいことはわかる。ここに祈祷を願って来ているのに、寺参りとは言語道断と言いたいのであろう?」
「いえ、決してそのような……」
少し慌てたようで、良吉は振り返りつつ否定する。
「案ずるな。拙者も途中で思い直し、境内までは行っておらぬ」
「それはご奇特なことで。きっとオシラさまも三輪様の真心をお汲みになることでしょう」
「そうか。それは何より」
狐と狸の化かしあい、とでも言うのか、空虚な会話がなされた。
実は、源八郎が浅草寺に赴いたのは清太郎との取り決めである。
上手く祈祷所内部に潜り込めたら、夢屋には近づかずに祈祷の日時を知らせるという任務であった。
これまでの金四郎からの報告から、初日にいきなり祈祷はないと踏んではいたが、二日目に繋ぎがなければその時点で清太郎が祈祷所に殴り込むという、かなり物騒な策が用意されていたのだ。
幸い、源八郎が強制的に監禁されることはなく、監視はあったが出入りは自由であったので、食事と暇潰しの散策という名目で待ち合わせ場所に行くことができた。
浅草寺で待ち構えていたのは、夢屋の主、おつたである。
この仕事は滅多な人間には頼めない。その点始末屋の繋ぎ人という立場にあって、源八郎の顔をよく知っているおつたはうってつけであった。
無論二人とも目も合わせず連絡を取り合う。
指定してあった石段を源八郎が三段目まで昇ったところで立ち止まり、その後踵を返したのであった。
三段目に置かれた足が右足であったことを、いかにも待ち人来たらずといった風情のおつたはハッキリと確認する。それが、作戦初日から数えて三日後の午前という符号であるのだ。
その後源八郎は浅草寺を立ち去り、おつたも夢屋に戻って清太郎に報告がなされたというわけであった。
《間違いなく清さんは来る。その前に祈祷のカラクリがわかればよいのだが……》
源八郎の心配はそこにあるのだ。
証拠もなく暴れるのは避けたいところである。
「さあ、どうぞ中へ……」
源八郎の心配もどうなることやら。
さほど長い道程であるはずもなく、母屋の中に入ってすぐのこと、ついに二度目となる道場への扉が開かれた。
中は相変わらずの極彩色である。
違うのは何か香が盛大に焚かれていることであった。
香道などには無縁の源八郎であったが、よくある抹香の香りだったため、それほど不信感を持たなかったのが運の尽きといえる。
良吉の指示により以前と同じく白装束のお雪と対座する源八郎の前にも香炉が置かれていた。
「それではご祈祷を始めます。三輪様は心をお静めになり、お目をお瞑りになってくださいませ」
「うむ。承知した……」
かなり離れたところに座っている良吉の指示に従う源八郎であったが、無論薄目を開けてはいた。
《今日は良吉のやつ、剣を携えたままであるな。いざというときは奪うのに都合がいい……》
祈祷も呪いも信じていない源八郎が戦いに備えている間、お雪は立ち上がってお神楽のような舞を源八郎の目の前で行っている。
白装束の広い袖が揺れる度に風が起こり、香炉の煙が源八郎に浴びせられた。
源八郎は不意に眠気に襲われた気になる。
《これはいかん!》
そう思ったときにはすでに朦朧としていて動くことすら億劫になっていた。
眠気だと思ったのは強い陶酔感である。
源八郎の表情を見極めたお雪は、既に用意してあった湯飲み茶碗を差し出した。
中には黒々とした液体が入っている。
ここに来る前の清太郎たちとの話し合いで、怪しい薬が使われているかもとの推論が立てられていたので、この道場で出された食事には一切手をつけておらず、また、祈祷中に何か薬が出ても飲むつもりもなかった源八郎であったが、今は朦朧とした状態のため、恐ろしいばかりに従順であった。
お雪から器を受け取ると躊躇わずに飲み干してしまう。
ちょうどそのとき、道場の扉が乱暴に開かれた。
「良吉! 長崎屋に手入れがあったぞ!」
「青木様。それは本当ですか?」
この人物、すべての事件の黒幕と目されている旗本の青木数馬である。
しかし、それにしては慌て振りが良吉と比べても小物臭が漂っていた。もし源八郎にまともな意識があったなら、そう感じたことだろう。
「どうするのだ。長崎屋がワシの名を出したらすべてがお仕舞いだぞ!」
「ご安心ください。もしここまで役人の手が伸びても返り討ちにすれば済むことです」
「何をバカな! 正面切ってご公儀に逆らうつもりか!」
「そのご公儀に恨みがあるとおっしゃったのは青木様ではありませぬか」
「キサマっ……」
うろたえる青木に比べ、良吉は余裕があった。
まるで主従が逆転している。
「ご安心ください」
良吉は再び青木に言った。
「飛び切りの駒を手に入れました」
「なに?」
良吉は祭壇の前で呆けている源八郎を指差し言葉を続ける。
「なんと、あの山田浅右衛門の門弟にございます」
「なに! あの首切りの……」
やはり良吉は源八郎の素性を調べ上げていたようだ。
夢屋、ひいてはあやめを匿っている清太郎との関係は掴めてはいないようだったが、利用方法は決まっていたようである。
「ご公儀の任命した打ち首役の門弟が辻斬り、いいえ、役人殺しとなったら、それはもう世間がうるさいでしょうな」
「お、おお。それは確かにそうだが……」
良吉の言葉に乗せられ、先ほどまでの取り乱しようはどこかに忘れてきたようである。
そこに、またもや誰かが飛び込んできた。
白羽織。青木の家臣で、道場の弟子という名目の用心棒である。
「なに? 夢屋の用心棒があやめを連れて来ただと? 小癪な!」
報告を受けた青木は怒りを顕にする。
「ちょうどいい。この者の腕を見てみましょう」
良吉は青木の憤慨など気にも留めず、祭壇の前の源八郎に近づいた。
そして耳に口を寄せ、何やら呟き続ける。
「さあ、行け! 敵を斬って来い!」
その言葉を聞いた源八郎は猛然と立ち上がり、良吉の手から既に鞘が払われている刀を奪い取るようにすると、先に出て行った白羽織の男を追うようにして道場を飛び出して行くのであった。
「これで大丈夫です。さて、私らも見物と参りましょう」
「う、うむ……」
良吉は青木を促し、ゆっくりと外に出て行く。
中に残された白装束のお雪は、祭壇の前に座り、遠くを見ている面持ちであった。
「先生! 正気になってくれよ!」
「源八郎様!」
外では源八郎と清太郎が対峙している。
白羽織の連中は悉く無力化されていたが、一番厄介なのが残ったと清太郎は苦い顔をしていた。
正気を失っているとはいえ、源八郎の剣は凄まじく、清太郎も受けるのが精一杯の様子である。
だが、と清太郎は考えていた。
剣の威力は凄まじいが、闇雲だと、付け入る隙がないこともないと。
清太郎は勝負に出る。
間合いを一度外し、右手に持った刀をだらりと下げたのだ。
「おい! おっさん、何してんだ!」
清太郎の戦意喪失と見た金四郎が叫ぶ。
その瞬間、源八郎が相手の隙は見逃さぬ、といった勢いで斬りかかって来た。
八相の構えから右の袈裟懸け。
主に打ち首のための修行をしていた源八郎にとって最も馴染んだ剣術技なのだろう。
清太郎はそれに賭けていた。
稀代の剣豪、宮本武蔵も斯くあったかとの如き一寸の見切り。僅かに身体を後退させ源八郎の剛剣を見事にかわしたのである。
一瞬で左に移動した清太郎は、源八郎の右側から近づいた。
これは、初めて大川端で源八郎の剣をかわした時と同じである。
だが、今日は肩に手を置くだけでは済まない。源八郎が刃を返し、逆袈裟懸けを繰り出す前に、既に剣を放り出していた右手で源八郎の腕を押さえ、左手を首に回した。
「金四郎! 刀を取り上げろ!」
「わ、わかった!」
清太郎は源八郎を絞め落とすでもなく、金四郎に声をかけた。
いきなり呼ばれて驚いた金四郎であったが、すぐに了解し、二人が縺れ合っているところに介入する。
さすがに二人掛かりの組み打ちでは源八郎の剣技も役に立たず、ついに刀を金四郎によって奪われてしまった。
「あやめ! 風呂敷の薬だ!」
「はっ、はい!」
源八郎の手に剣がなくなったことで押さえ込みやすくなった清太郎は、なおも源八郎の身体を押さえつつ、今度はあやめを呼びつけた。
あやめが金四郎に、風呂敷の中にあった小さな瓢箪を渡す。
「そいつを源さんに飲ませろ。無理矢理でいい!」
「任せろ!」
金四郎は瓢箪の栓を抜くと、清太郎に抱きすくめられて喚き散らしている源八郎の口に押し当てた。
瓢箪の中は液体であったようで、深い緑色の水薬が源八郎の口に流し込まれる。大半は咳き込むことで吐き出されたが、それでも飲ませることに成功した。
「ゴホッ!」
気付けの効果もあったようで、あれほど暴れていた源八郎が不意に大人しくなる。
清太郎はここでようやく手を離した。
源八郎は地面に崩れ落ちる。
「清さん。気分はどうだい?」
金四郎は、また刀を振り回されたらかなわないと、既に地面から清太郎の分も合わせて回収していた。
だが、清太郎は自ら用意した薬の効果を信じているらしく、落ち着いた表情で源八郎の顔を覗きこんでいる。
「ゴホッ、ゴホッ……せ、清さん……ここは……」
「もう大丈夫のようだな。何か覚えているかい?」
「……そうだ。おかしな香を嗅がされて……」
「やっぱりな。安心しな。解毒薬は飲んだんだ。さ、立てるかい」
「あ、ああ。拙者は何を……」
清太郎の手を借りて立ち上がる源八郎は、庵の門前の様子を見回しながら聞いた。
戦いの跡が見て取れる。
「なに、ちょいと金四郎への稽古が厳しくなっただけだよ。な、金四郎?」
「あ、ああ。そうだぜ。まったく、先生と来たら強えの何の」
源八郎の様子が元通りになったことを確信した金四郎は、清太郎の問い掛けにおどけて答えるのであった。
源八郎への気遣いだったのは言うまでもない。
だが、源八郎は金四郎の肩口に目を留める。
「そ、その傷、まさか拙者が……」
「あ? これか? 大したことねえよ。いつもの稽古と変わらねえぜ」
「す、すまぬ……なんと詫びを申してよいか……」
元気に腕を振り回す金四郎を見て、源八郎は自分が不甲斐なく思えてしょうがなかった。深々と金四郎に頭を下げる。
「じょ、冗談じゃねえ! 俺がもっとしっかりしてりゃ、こんな傷負わなかったんだ! おっさんを見てみろよ。ピンピンしてら! 全く、夢屋の用心棒はバケモンぞろいだぜ」
これで土下座でもされたら堪らないとばかりに金四郎は本音を吐いた。
バケモノ呼ばわりされた清太郎は苦笑し、源八郎の謝罪の言葉が自分に向く前にと、源八郎を労う。
「源さんが身体を張ったおかげでヤツラのカラクリがわかったんだ。もっと胸張っていいんだぜ。予想はしてたんだからよ」
「そ、それはそうなのだが……」
確かに。辻斬りを行った侍たちはオシラさまの祈祷で人格が豹変したとわかっていたことである。それを覚悟の上で乗り込んだのだから、これを失敗と捉える必要はないだろう。
それでも、意識をなくし友人に斬りかかったなど、剣に生きる源八郎の心は己を許すことができないでいた。
「それより、仕事は終わっちゃいねえ。中に良吉がいるんだろ?」
「そうだ! おのれ! 逃がすものか!」
悔やんでいた源八郎は、清太郎の言葉で本来の目的を思い出し、金四郎の手から刀を受け取ると建物目掛けて駆け出した。
やれやれ、といった表情で清太郎が続く。
「清さん! 一体どうなってるのだ!」
短い廊下を走りぬけ、三度道場へ飛び込んだ源八郎は、後から来た清太郎に大声で叫んだ。
初めてこの道場の中を見る清太郎と金四郎は、極彩色の異常な空間に呆気に取られていたが、源八郎の視線の先を見て、そんな些細なことはどうでもよくなる。
祭壇の横に羽織袴の武士が倒れていた。
うつ伏せの状態で、背中には短刀が刺さっており、死んでいるのは一目瞭然である。
「コイツ、青木数馬だぜ!」
死体の顔を覗きこんだ金四郎がそう叫んだのは当然で、一行の中で唯一金四郎だけが青木の顔を知っていたのだ。
「どういうことだ? こやつが黒幕ではなかったのか?」
源八郎が誰にともなく疑問を投げかけたとおり、道場にはあやめの母親、お雪が呆けたように座っているばかりで、良吉の影も形も見当たらない。
清太郎たちは大きな謎の前に立ちすくんでいた。




