第7節:狂鳴する魂
放課後、学校に戻って。
春樹と冬子は、旧校舎の東階段に向かった。
校舎は古い木造で、電気の消えたこの時間は薄暗い。
旧校舎は三階建てで、駒道の指定した場所は屋上へ向かう階段だった。
「オンナといちゃついたり、イジメの現場だったり。そういうので有名なとこらしいわ。知ってた?」
関係のない人間は誰も来ない場所だから、そういう目的で使われるのだと、春樹は言った。
「そういうとこにはな、情念が渦巻くんや。一個一個は小さいそういうモンが溜まっていって、明るい情念なら恋愛成就とか、願いが叶うとか、ありがたい場所として……暗い情念なら、呪いの場所とか、怪奇現象が起きるとか、七不思議みたいな心霊スポットになるねん」
説明する春樹と並んで歩いていた冬子は、唐突に立ち止まった。
「どないした?」
つられて立ち止まった春樹は、冬子の様子に戸惑ったような顔を見せる。
冬子は、抱いた疑問をぶつけてみる事にした。
―――なぜ春樹は、私を助けてくれるのですか。
昨日、知り合ったばかりで。
冬子自身が、彼に何をしたわけでもないのに。
いや、それ以前に出会ってはいた。
――――あの夢は。夢ではなかったのですか?
喋ることすら出来ない自分の、心情を汲み。
こんなことに、付き合っている春樹と。
それを今、強く不思議に思った。
彼は、何者なのか。
冬子は、探るような目を向けていたのだろう。
春樹が少し寂しそうな顔をした後、ふぅ、と息を吐いた。
「なんで俺が、トーコと一緒にいるのかわからん、て顔やなぁ」
冬子は、少し迷いながらもうなずいた。
寂しそうな顔を見たとたん、疑ったことを後悔したが……冬子は、それでも理由が知りたかった。
自分でもわからない、春樹に感じる安心感は。
本来なら、不気味だと思うはずの場面でこそ、より強く感じるのだ。
「え〜とな……」
春樹は、珍しく迷っているようだった。
理由がないわけではないが、それを口にしようかどうしようか、葛藤している。
そういう雰囲気を感じた。
「まぁ、一つはおせっかいやねん」
ぽつりと、春樹は言った。
緊張しているように左手が耳のチェーンピアスを触り、ピアスが擦れるような音を微かに立てる。
「生霊、って言うんやけどな。あんまり強い想いに囚われてまうと、まれに〝こういうコト〟を引き起こす人がおるんや」
こういう事。
それは、冬子や駒道が付き纏われている白い子どものことを指しているのだろう。
「こういうんは、放っとくと取り返しがつかんくなる。当事者だけやったらまだええんやけど、その周りにまで害になることも、あるんや。今はまだ穏便やけど」
害。
春樹の口調から、それは決して、付き纏う事だけではないのだろうと、冬子は悟る。
やから、と春樹は続けた。
「こういうのんを見つけると、放っとけんくなるねん。手遅れになる前に、どないかしてやりたなる。それが出来てまうから、余計にな」
そういう春樹は、自嘲的に笑った。
もう性分やなぁ、と冗談混じりに。
「とまぁ、これが一個目の理由」
一個目? と冬子は首をかしげた。
春樹は、笑みを苦笑いに変え。
ほんの少しだけ、そこに狂気の色を交えて。
冬子の髪に触れながら、小さな声で言った。
「二つ目の理由は、お前や、トーコ」
冬子は、触れられた髪の先から熱を感じた。
まるで執着するように。
春樹の手が、冬子の耳に触れ、頬をなぞり、唇に触れて。
触れられた場所が熱を帯びていく。
彼の顔が、迫るように冬子の眼前に近づいた。
視界が、春樹でいっぱいになる。
熱っぼく潤んだ春樹の目が。
恍惚とした狂気の色が、隠されることもなく冬子を射抜いた。
香るオレンジの香水の匂いと、煙草の煙たい匂いが入り交じって冬子の嗅覚を満たす。
「なぁ……駒道にちゅーされんのは、気持ち良かったか?」
隠しもしない嫉妬の色を滲ませて、冬子の耳を春樹の声が染める。
いつの間にか、冬子は廊下の壁を背にしていた。
冬子が、首を横に振ると。
春樹はいきなり、唇を寄せた。
ぬる、と口腔にその舌が入り込み。
味わうように、冬子に舌を絡めて、犯す。
歯も、頬の内側も、全て舐め尽くされて。
「――――ッ!」
腰が砕けそうになった冬子を支えながら、春樹は
唇を離した。
お互いの吐く息の間を、唾液の糸が引く。
それを指ですくって舐めとり、春樹は八重歯を覗かせた。
蠱惑的で。
恐ろしくて。
どうしようもなく惹き付けられる、その表情は。
冬子ただ一人を求めるように、紅潮していた。
「お前の魂は、重いんや」
冬子を抱き寄せ、吐息のようにささやかに、春樹は耳元で言葉を紡ぐ。
「重くて、深くて、どうしようもなく俺を惹き付けるんや」
春樹は冬子の首筋を、愛でるように撫でる。
「俺の魂は、お前に囚われた。拒んでも、目を逸らしても、お前のもんになってもーてる。お前と俺の魂は、繋がってもーたんや」
春樹の語る言葉はよく意味が見えない。
それでも。
――――私もきっと、同じ気持ちです。
冬子は、ぼうっとする意識のままに答えた。
そう、冬子も春樹に惹かれていた。
今まで、感じた事がなかったから気付かなかっただけで。
――――私が春樹がいるだけで安心するのは。
駒道にされても、ただ気持ち悪いだけだったキス一つで。
気持ち良く、いっぱいに心が満たされているのは。
――――私も、春樹に惹かれているからです。
時折覗いた狂おしい程の執着も。
同意すら求めない口づけも。
体の芯に塗り込まれるような、濃密な想いも。
全て、安らかな心地良さに感じるのは、きっとそういう事だ。
「そんなん言うなや……後悔するで、きっと」
何故かそんな風に、悲しげに、切なげに言う春樹に。
――――後悔はしません、きっと。
冬子は、迷いなく答えた。
春樹は、多分狂っている。
何度かざらりと感じた春樹の内面は、きっとどす黒く濁っている。
彼はきっと。
冬子が拒絶しても、冬子には何もしない。
でも、その時には。
冬子の周りにあるものは、人の命すらゴミのように全て壊されるだろう。
冬子はそう確信していて。
同時にそれを安堵と共に感じる自分も。
春樹と同じように、狂っているのだろうから。