第3節:穢れた純潔
デートと言って外に出たが、特に何をするわけでもなかった。
春樹は、冬子の学校までの主要な通学路を、ぶらぶらと歩き回り、それに冬子が付いていく。
正直、ただの散歩だった。
「トーコって、普段どんなことして遊ぶん?」
不意に春樹に問いかけられて、冬子は小首をかしげた。
ゲーセン、ビリヤードなどのインドア。
スポーツ、ドライブなどのアウトドア。
競馬、麻雀などのギャンブル。
春樹の口にする多様な遊びの名前、冬子はそのすべてに首を横に振った。
「なら、読書とか?」
その言葉に、冬子はうなずいた。
春樹が、ようやく正解や! と拳を握った。
可愛い。
「どんなん読むん?」
言われて冬子がカバンの中から取り出したのは、料理本だった。
「……それ、読書っちゅ〜か勉強ちゃうん?」
呆れたような春樹の声音に、冬子は軽く笑みを浮かべる。
―――楽しいですよ。
「そゆの読んで、料理作るのが?」
―――いいえ。眺めているだけで、楽しいのです。
春樹はふ〜ん、と感心したように声をもらした。
「今度作って〜や」
冬子は、春樹が関心を持ってくれたことは嬉しかったが、ふるふると首を横に振る。
――――それは、出来ません。
「え? 何でなん?」
出会ったばかりの少年は、当たり前のように問い返す。
勿論、作れない理由は初対面で不躾な相手だから、という理由ではない。
―――私は料理が出来ないのです。料理本のおいしそうな料理を見て、味を想像するのが楽しいのです。
と、表紙を目にした冬子は思わず涎が垂れそうになり本を仕舞う。
―――お腹が空きました。
「さよか。なら、今度俺が作ったるわなぁ」
おかしそうに言う春樹の言葉に、冬子はまた小首を傾げた。
―――春樹は、料理が出来るのですか?
「簡単なのだけやけどなー。店では割と評判ええで?」
ふふん、と得意そうに鼻を鳴らす春樹に、冬子は心の底から答えを返す。
―――楽しみです、とても。
会ったばかりなのにこんなにも気安い自分が、冬子にはやっぱり不思議だった。
だが、そんななごやかな気分も。
「冬子ちゃん」
後ろから掛けられた声を聞いたとたん、霧散してしまった。
「こんなところにいたんだ」
立っていたのは、一見して、真面目そうな少年だった。
冬子と同じ学校の制服をきちんと着こなしていて。
浮かべた笑みも柔和なもの。
しかし、雰囲気にどこか違和感があった。
「ん? 誰?」
気負わない雰囲気で春樹が冬子に問いかける。
彼女はわずかにアゴを引いたまま、すがるような目を春樹に向けた。
「冬子ちゃんの彼氏です。いなくなってしまったので、探していたんですよ」
にこやかな少年の言葉に、春樹は口笛を吹いた。
「おっと。ほんなら、この状況は誤解させてまうかな? 別に浮気ちゃうで?」
「わかってます、きっとまた迷子になっていたんでしょう?」
おどけた春樹の所作に、少年はうなずいた。
「冬子ちゃんは少しのんびりしてるので、よくあるんですよ」
「みたいやな。ほんで俺が、おせっかいながら道案内しとったわけや」
春樹は、にやりとくちびるを曲げた。
「申し遅れたけど、俺は春樹ってゆ〜ねん」
「僕は駒道と言います。冬子ちゃんを案内してくれて、ありがとうございました」
と、駒道が頭を軽く下げた時に。
春樹の目が、鋭く射るように細まった。
冬子は、背筋がゾクリと震えたが。
その目の光は、駒道が頭を上げる間に消えている。
「さ、行きましょう冬子ちゃん」
言われて手を差し出され、冬子はうろたえた。
春樹を見ると、春樹が何かを伝えるような目でうなずく。
おそるおそる、その手を取り、では、という駒道の言葉とともに春樹から離れた。
「あ、せやせや。コマッチくん」
「はい?」
駒道が振り向くと。
春樹は、どこか本心を読ませない笑みを浮かべながら、言った。
「俺な、小さい子ども探してんねんけど、どっかで見かけへんかった?」
ぎく、と。
駒道の体がこわばるのが、冬子にはわかった。
「……いえ、見た覚えがないですね」
「そ」
春樹は気にしてなさそうにうなずくと、相変わらずの笑顔のまま、手を振った。
「ほんなら、気をつけてな。あぁ、そうそう……浮気は、ほどほどに、な?」
そんな春樹の物言いに。
駒道が、冬子の手をきつく握りしめて、冬子は痛みに顔を歪める。
駒道は、早足で歩きだした。
冬子は手の痛みをこらえながら、もう一度振り向く。
悲しそうな目で見る冬子に、春樹はさきほどとは違う優しい、茶目っ気のある笑みを浮かべながら、口元の動きだけで答えた。
「また、明日」
それだけで、冬子は少し安心した。
春樹の姿が見えなくなると、駒道はあからさまに舌打ちして、冬子をにらみつける。
先ほどまでとは、態度が豹変していた。
固くなる冬子に、駒道は言う。
「ったく、口も利けねぇくせに、ナンパなんかに引っかかってんじゃねぇよ、アホが」
壁に押しつけられ、無理矢理くちびるを奪われた。
その気持ち悪く、なま暖かい感触に。
冬子はとっさに突き飛ばそうとするが、その手を捕まれる。
「優しくしてやってりゃぁ付け上がりやがって。てめぇはもう、俺のもんなんだよ。あんまふざけた真似してっと、ドツくぞ、お?」
冬子は嫌悪感に顔をゆがめた。
―――あなたは、私の彼氏じゃない。
しかしそんな心の声は、春樹以外には届かない。
駒道は。
ある理由で彼に近づいた冬子の態度を、自分に好意を持っていると勘違いし。
ただ、クラスのみんなに、勝手にそう言い触らしているだけなのだ。
冬子が口をきけないのを良いことに、冬子の容姿を目当てに。
ヘドが出そうな男だ。
「おかげで、こんな時間じゃねぇか、クソ。せっかく今日はてめぇを犯ってやろうと思ったのによ。台無しだ」
表向き、優等生を気取っている彼は、あまり不審な行動をとれない。
この後も、駒道に塾があることを冬子は知っていた。
駅までの間さんざんに脅しを口にした駒道は、ぽつりと思い出したように付け加えた。
「それにしても、子どもに浮気だと? あの野郎・・・なんか知ってやがんのか?」
駒道が春樹の言葉を深読みする発言に。
冬子は、握られた手に対する気持ち悪さを一瞬だけ忘れた。
彼の口にした『子ども』は、冬子が感じる例の白い影のことなのだろう。
駒道の反応を見るに、彼も同じような影に付け回されているようだ。
――――サエ。
冬子は心の中でつぶやき、きゅ、とくちびるを結んだ。
考えるうちに駅につき、駒道は冬子の手を離して告げた。
「いいか。明日は逃げんじゃねぇぞ」
冬子は、うなずきもせずに目をそらした。
その態度が気に食わなかったのか、もう一度だけ舌打ちをして。
結局、それ以上は何も言わずに、駒道は帰っていった。
冬子は不愉快な感触の残るくちびるを、何度も何度も拭いながら。
決意を秘めた目で、その場を後にした。