終節2:羊の皮を被った狼
夏美を引かせ、自室の椅子に腰掛けた冬子は電気もつけずに窓の外を眺めていた。
体を冷やさないように、と帰るなり風呂に入れられ、今は暖かい部屋で揺り椅子に腰掛けながら毛布に包まっている。
この歳で身ごもる等、一年前は想像すらしていなかった。
誰かにかしづかれる生活もまた、同様だ。
窓の外は豪雨が降り注ぎ、雷鳴が響き渡っている。
まだ昼の三時だというのに、まるで夜の様に暗い。
しかし外の激しさは厚い壁と窓ガラスに遮られて遠く、部屋の中は静かだった。
雨の音以外、何も聞こえない。
まるで自分自身が胎内にいるような錯覚。
あの日と同じだ、と冬子は思った。
久しぶりに順次と会った事で、冬子は自分がこの部屋の主になった時の事を思い出していた。
※※※
「おはようございます、『王』。気分はいかがですか?」
そう、夏美の顔で問い掛けて来る死霊に、冬子は自分でも驚くほど冷静にうなずきを返していた。
———何か、書く物を。
その時は、体が上手く動かなかった。
後で聞いた話によると、一週間以上眠り続けた後だったようなので、それも当然だ。
意図が通じたのか、死霊はタブレットを持って来た。
死霊が支えるタブレットに表示されたアルファベットを、震える指で押して行く。
『あなたはどなたでしょう?』
冬子の問いかけに、死霊は不審そうな様子を見せた。
「まといでございます。お忘れですか? 王よ」
『私は『王』ではありません』
冬子の言葉に、少し驚いたように夏美の顔をしたまといの瞳が揺れた。
「ではあなたは、梅咲冬子?」
冬子がうなずくと、まといは少し考えるような素振りをした。
「さて、困りましたね。『王』の器を得るのは、やはりただ取り憑くのとは違うという事でしょうか」
まといは言い、膝を折って冬子の顔をのぞき込んだ。
「それで、あなたはそれを私に伝えて、どうなされるおつもりですか? 逃げる事も、あるいは死ぬ事も難しくなるかと思いますが」
『逃げる気も、死ぬ気もありません』
冬子は、迷い無く文字を打った。
『私は『王』を産みます。それが私に与えられた役割ですから』
冬子の返事に、まといはうなずいた。
「分かりました」
それにうなずき返しながら、冬子は思う。
———私は春樹のものだ。そして、春樹もまた私のものになってくれた。
だから彼女は、自らの心に従った。
一方的に押し付けられたものではない、自らの望んだ生き方。
冬子の耳元で、春樹の幻が囁く。
『Soul bet, yourselfーーーCross your fingers?』
(魂を賭せ。ただ一つの魂を。ーーー取るべき手を間違えるな)
例え敵だった相手の手に落ちたとしても、それが何だというのか。
心にもない嘘をつき、逆境すらも味方につけ、苦難は全て乗り切る。
自身が敵の手に堕ちたなら。
その敵すらも、利用する。
仲間から裏切り者のそしりを受け、人としての尊厳すら失ったと思われても。
ただ、春樹を再びこの手に得る為だけに。
『私は、あなたの判断に従います、まとい。『王』を守る為に必要であるならば、私はこのベッドから一歩も動かず『王』の産まれる日を待ってもいい』
じっと、まといは冬子の顔を見つめた。
冬子は黙って、その目を見返す。
「滅相も無い事です」
どういう判断をしたのか、やがてまといが言った。
「どうやら勘違いなさっておいでですが、本来私にあなたを従わせる権限はありません。私が仕えるのはあくまでも『王』ですが、今は『王』が意識を持っておられない様子。ならば『王』が産まれるその日まではあなたが私の主でございます。ましてあなたに『王』を害す意志がないのならば」
まといは、恭しく腰を折った。
「【聖母】。私こそ、あなたに従います」
その言葉に、冬子はうなずいた。
『ならば『王』を守りなさい。あなたの『王』と、『王』を宿す私を、ありとあらゆる危険から』
欺瞞だ。
自ら口にした言葉に対して、冬子は思う。
お腹の子は、まといにとっての『王』ではない。
だが、同情の必要は無い。
彼女は、死んだ夏美の死体を弄ぶ死霊なのだから。
「仰せのままに」
まといが、慇懃に頭を下げた。
『では、一人にしてください。まだ、目覚めたばかりで気分が優れません』
「でしたら、別室にて待機させていただきます。ご用件があれば枕元のベルでお呼び下さい」
そう言ってまといは部屋を辞し、冬子は目を閉じた。
どうせ室内は監視されているのだろう。
しかし構わない。
冬子が再び眠りに落ちるまで、そう長い時間は掛からなかった。




