第2節:ダウト
「さて、そんじゃトーコ。色々不思議な事があるやろーけど、それはひとまず置いといて、や」
場所をスタジオからソファ席に移して、春樹は言った。
もう一人の長身の少年は、巡順次、と自分の名前だけを名乗り、黙ってトランプを取り出すと切り始めた。
冬子と同じ学校の制服を身に付けているが、見覚えがない。
しなやかな、黒豹のような印象だった。
精悍な顔立ちに黒の短髪、日に焼けた肌。
目は鋭いが、気怠げに細められたその目に、不思議と威圧感はなかった。
制服から明らかに未成年の順次は堂々とくわえ煙草で、リフルシャッフルからのブリッジ、俗にショットガンシャッフルと呼ばれるそれを繰り返す。
手つきは鮮やかの一言だ。
頭上で回る風車と、トランプが立てる軽快なそれの他に音はない。
静かな店だった。
春樹は改めてとまどう冬子に、ニコニコと持ってきた飲み物をグラスに注いだ。
そのまま、彼も煙草を取り出して火を付ける。
二つの紫煙がけぶる中、冬子は、どーぞ、と差し出されたグラスに波々と注がれたオレンジ色の液体に口を付けた。
甘酸っぱい香りがふんわりと広がり、しっかりとした味わいが舌を刺激する。
オレンジジュースだ。
「順次と同じ高校やろ? 何で走ってたんや? しつこい男にでも追い回されたんか?」
冬子の顔を見てそう問い掛ける春樹に、驚いた。
―――何で。
「ん? 汗掻いてるしなぁ。しかも高校生の女の子が、まだ開店もしてない飲み屋にわざわざ入って来たっちゅーんは、ま、誰かから逃げてたんかなって」
冬子はその問いに、顔をうつむけた。
「ま、どゆっくりしていきや。開店まで、まだ時間あるしや。旨いやろ? オレンジジュース」
問いかける春樹に、冬子は一つこくんとうなずく。
すると春樹は。
さらに無邪気な、嬉しそうな笑みを見せた。
その笑みに、冬子の心が和む。
冬子は、春樹を不思議な少年だと思っていた。
なぜ私は、彼に笑みを向けられるだけでこんなに安心するのだろう。
順次が、冬子を含めてカードを配り始める。
「何するん?」
「ダウト」
春樹の問いかけに、短く答える順次。
「知っとるか?」
春樹が今度は冬子に問いかけ、冬子はうなずいた。
やり方は知っている。
でも、と冬子が思うのと同時に、春樹は手をひらひらと否定するように振った。
「ああ、分かっとるよ。トーコ、喋られへんのやろ?」
彼は何度、冬子を驚かせれば気が済むのだろう。
「ダウト宣言する時は、札をめくってくれたらえーよ」
ゲームは、静かに始まった。
順次が初手、冬子が最後。
「ほんでも、こんな日のある内から男に追い回されるなんて物騒な世の中やで。『2』」
まぁ、俺の言えた事ちゃうけどなぁ、と笑う春樹に冬子は首を横に振る。
「いやいや、お世辞にも顔面イレズミは善良には見えんやろ?」
―――自覚、あるんですね。
言いながら、冬子は春樹に続いて3の札を伏せた。
テーブルに置かれたグラスを水滴が伝い、じんわりとコースターに染み込む。
「そら勿論。いや、トーコに合意の上以外でなんかしよーって気はないで?」
「信用するな。『4』」
それまで黙っていた順次が、真剣な声でぼそりと言った。
彼の顔を見ると表情は全く変わっていない。
「おま、ちょ、いきなりトーコ不安にさすような冗談やめろや!」
慌てる春樹に、冬子は、冗談? と首を傾げる。
沈黙の後、真顔を保っていた順次が、クッ、と喉を鳴らして微かに猛獣を思わせる笑みを浮かべた。
「良い反応だな」
「……楽しんどるやろ、お前」
腰を浮かせていた春樹が、軽く力を抜いてソファに沈んだ。
本当に冗談らしい。
分かりにくい人だなぁ、と冬子は思った。
ゲームの捨て札が溜まる間、ジト目で順次を睨む春樹に、冬子は、ふ、と口許をほころばせる。
すると。
その瞬間に冬子に目を向けた春樹が、目を細めた。
「ええ顔や」
言われて、笑みが引っ込みそうになるが、特に深い意味はなかったようで。
すぐに目を逸らしてあくびした春樹の様子が猫っぽくて可愛らしく、また口許を緩める。
だが。
冬子の、耳元で。
この場の誰のものでもない、楽し気な笑い声が聞こえて。
冬子は顔を強ばらせた。
気づけば。
春樹と順次も、顔を上げている。
幾度も。幾度も。
耳元を掠める遠い笑い声を耳にする内に。
はしゃぐように跳ねる、白い影が視界の端を過った。
「……子ども?」
白い影を目に止め、順次がつぶやく。
冬子は、震えるくちびるを引き結んだままうつむく。
無意識に手を硬く握り締めると、くしゃ、と手札が歪んだ。
ちらちらと目耳にちらつくそれらに耐えきれずに。
冬子は、深く顔を伏せた。
しばらくすると、気配が消え。
重い沈黙の中、春樹はふむ、と一つうなずいた。
「なるほどなぁ……なぁ、トーコ」
優しい響きの声に、冬子が顔を上げる。
すると、春樹は悪戯っ子のような表情で、冬子を見ていた。
「とりあえず、今から俺とデートしよーや」
そんな、脈絡のないことを言った。
「世話焼きが」
呆れたような順次の言葉。
「まぁ、えーやん。順次も行く?」
春樹の誘いに、順次は手札を放り、ふー、と深く煙草の煙を吐き出してから、言った。
「パス」
そして、順次は人が悪そうな色を目に浮かべて春樹に言う。
「お前の都合で終わるんだ。俺の勝ちだな?」
残りの手札は、春樹が3枚、順次が2枚。
「はん」
春樹は、黙って一番上の札をめくった。
順次の最後の捨て札は、ジョーカーだった。
つまりババだ。
「ダウトや」
春樹の言葉に、順次はかすかに眉根を寄せて舌打ちした