第1節:悪魔を宿す聖母
あの人は死んだ。
※※※
冬子は、昼の人がいない時間に、私立競技場のある広い公園の散歩道をゆっくりと歩いていた。
季節は冬。
吐く息は白いが、身重の体は軽く汗ばんでいる。
彼女の背後には、男性が二人、黙々と付き従っていた。
どちらも表情は伺えない。
片方はニット帽を目深に被り、片方はコートを着てサングラスを掛けている。
彼らはついて来るだけで、話しかけたりはしてこない。
影のようなものだ。
冬子はすでに、彼らをそう割り切っていた。
特に意識もせずに、自分のペースで周囲を眺めながら進む。
だが、そうして歩きながら左右にうねる道に差し掛かった時に、背後から短い呻きが上がった。
振り向くと、丁度死角になる位置に隠れていた人物が腕を伸ばしてニット帽の首を締め上げていた。
その人物は躊躇せずにニット帽の首を捻りながら投げ、彼の体を地面に叩き付ける。
鈍い音がして、ニット帽の首が折れた。
そのニット帽の体に阻まれて、コートの方が詰めようとしていた足を止める。
ニット帽の首を折った人物は、自分から、するり、とコート男との距離を詰めた。
コートは焦らず、足を地面に擦るように体勢を入れ替えると、突っ込んで来た人物の顔に掌底を叩き付ける。
だが、男性は掌底を受けても怯まず、姿勢のままさらに体を前に押し込んだ。
コートの胴回りを両腕で抱え込み、力を込める。
抱きしめられたコートの体が、びくん、と震え、すぐに動かなくなった。
締め付けを解かれてうつ伏せに地面に落ちたコートの背中から、アイスピックの柄が生えているのが見えた。
心臓の真上だ。
「どっちも、ただの人間か」
彼は首を折ったニット帽を、足でひっくり返して呟いた。
牙を剥き、角を生やした赤い異貌。
その、鬼の形相をした人物を、冬子はよく知っていた。
―――順次さん。
「迎えに来た」
凄まじい《異界》の熱気を纏いながらも、相変わらず眠た気な目をした順次は、前置きなくそう切り出した。
冬子は、順次のその言葉に首を横に振る。
軽く意外そうな顔をした後、順次は木立に体を預けて煙草に火をつけた。
「何故だ?」
順次の問いかけに、冬子はポケットのスマホに手を伸ばしたが、順次は遮った。
「いや、いい」
大人しく手を下ろした冬子に、順次は淡々と続けた。
「どうやら監禁されているわけでもなさそうだ。何か理由があって抜けれないのか?」
冬子は曖昧に首を傾げた。
「それと、一つ耳に挟んだ事がある。お前が腹に悪魔を宿しているという話だ。本当か?」
問われて、冬子はどう答えたものか迷った。
彼女は確かに子を宿している。
『王』を。
しかし。
「あの日、全てが終わった時に何故かお前が回帰教の『聖母』に収まっていた事と、何か関係があるのか?」
冬子はそれにはうなずいた。
順次の口調は、怒っていたり、攻撃的だったりはしない。
本当に、ただ疑問なのだろう。
そういう口調だった。
「つまり、お前は自分の意志で回帰教に留まっているんだな?」
煙草を捻り消した順次の念押しに、再びうなずく。
「そうか。ならいい」
順次は変わらない。
春樹は相手の意見を尊重する代わりに相手が本心から決断する事を求めるが、順次は違う。
相手がどういう状況であっても、仮に強要されていたとしても、自分の興味が湧かなければ他人の事には干渉しない。
建前すらもそのまま呑む程に、興味のない事には無関心なのだ。
春樹にとっては、そういう彼の空気が心地よかったのかもしれない、とふと思った。
冬子が微笑むと、順次は眉を動かした。
「笑っている場合でもないんだがな。俺が今日ここに来たのは、ようやく準備が終わったからだ。少し手間取ったが、善行寺を壊滅させた」
冬子は、それを知っていた。
善行寺本家は、回帰教という教団に乗っ取られている。
その回帰教の幹部から、冬子は巨大な少年グループが善行寺を潰して回っている、と伝えられていた。
順次が、冬子が『聖母』になって以降、急速にこの辺りの少年グループを纏め上げていた。
副長は、フミだ。
今あっさりと壊滅させた、と言ったが、それは並大抵の労力ではなかっただろう。
善行寺は、東の広域指定暴力団の中でも上位にある組織だ。
春樹がいつか言っていた。
『順次が本気になったら、俺よりエグいで』
その言葉は、本当だった、という事だ。
「俺は回帰教に仕掛ける。死霊どもは殺し尽くす」
言いながら、順次は冬子を睨み付けた。
「来ないなら仕方がない。―――最初は、お前と『王』からだ」
順次は、人外の速度で地面を蹴った。
―――大人しく、殺されはしません。
冬子が手を振りかざすと、彼女の背後から音もなく影のような黒い何かが染み出し、順次に向かって腕を振るった。
吹き飛ばされて、順次が宙を舞う。
顕れたのは、のっぺらぼうの化け物だった。
全身はゴムのような質感の黒い皮膚。
下顎だけが、悪魔のような鋭い牙を生やしてその無貌を覆っている。
体は獣の如く前傾で、曲がった体を支える後足は犬のような形。
背骨の半ばから尾が分かれて長くのたうち、肩甲骨からは蝙蝠のような翼を生やしたそれは。
冬子に親和した、死霊だった。
「〝召喚〟か……お前も&Dとして目覚めていたとはな」
頭上にある、蛍光灯の上に着地して順次が言った。
親和した死霊に活力を与え、実体を持たせる。
&Dの力の、顕現形態の一つだった。
冬子の文字は膨らんだ腹の表層で蠢き、服を薄く輝かせている。
「おやおや、誰かと思えば」
順次が再び冬子に襲いかかる前に、一人の人物がさらに姿を見せる。
パンツスーツ姿の、若い美少女に見える人物。
軽く垂れ目で、目の下に一つ泣きぼくろがある。
髪は茶色に染められ、綺麗に整えられていた。
桜散夏美。
春樹の弟を名乗る、死霊である。
かつて一度、夢の中で春樹と共に冬子と出会い。
春樹を、殺した死霊だった。
「流石に、引いた方が良いですよぅ? ウチに順次の切り札は効かない……知ってるでしょう?」
「夏美の真似をするな、ゴミめ」
「ヒドい言い草ですねぇ。傷ついちゃいますよぉ」
嘆くように芝居掛かった仕草で言う夏美から目を逸らし、順次は言った。
「お前は、春樹が殺す。首を洗って待っていろ」
「怖いですねぇ。春兄ィに殺されたら、二度と復活出来ない。気をつけますねぇ」
春樹がやる、と言われて、冬子はもう少しで顔に驚きを出すところだった。
「それにしても、まるで春兄ィが生きているような言い回しですねぇ。確かにこの手で殺したはずですが、記憶違いでしたかねぇ?」
「さぁな。知りたければ、調べてみたらどうだ?」
順次は、知っているのだろうか。
しかしもし知っているのなら、先ほどの質問はおかしい。
誰かに聞かれている事を警戒してわざとごまかしている可能性もあるが……その不愉快そうな表情からは、何も読み取れない。
「いつまで夏美の体を使っているつもりだ。害虫が」
「気に入っているもので。大体、害虫はそちらの方でしょう。あなたが私の手駒を次から次へと始末して回る所為で、最近とみに人手不足でして。こうして私自ら色々しなければいけなければいけません。少し自重していただけませんか?」
「いい気味だが、『人』手不足は元からだろう」
「元は、全員『人』ですよ。魂も肉体も生前よりは腐りやすいかもしれませんが、ま、お肉は腐りかけが一番美味しいとも言いますし」
からかうようなその言葉に、順次は獰猛な笑みを浮かべる。
「なら、春樹に残さず、俺がお前から〝喰って〟やろうか?」
「遠慮しておきます。人を犯すのは好きですが、サレるのは恥ずかしいので」
夏美の姿した死霊は、口許に指を当ててその指をいやらしく舐める。
「遠慮するな。もしかしたら、快感かもしれんぞ」
順次が不意に夏美に襲いかかった。
あまりにも気負いなく行われた行動に、冬子は意識を向けるのが遅れたが夏美は違った。
即座に自分の顔に添えていた手を翻して、張り飛ばすように腕を振る。
順次の鈍い蹴りの音と、突き上げるような重い衝撃波が空中でぶつかりあう気配がした。
再度宙を舞った順次は、木の枝に掴まって勢いを殺し、そのまま木立に足を掛ける。
「冬子」
余波ではためいたスカートの裾を抑える冬子に、順次が言う。
活力を吸い過ぎたのか、順次は既に、一目で人間とは分からない異形と化している。
「お前の意志ハ尊重すルガ、容赦はしナい。次に会う時マでに肚の子を堕ろせ。ソレが出来なイならお前は、俺にその腹ヲ捌かレる事になル」
順次は外見同様に人間離れした動きで再び跳躍しつつ、冬子を指差した。
「時間の猶予はなイぞ。覚えテおけ」
順次が消えた後。
残ったのは、静寂と妊婦と、〝死体〟が三つ。
「行きましょうか、【聖母】」
何事もなかったかのような柔らかい声音で夏美が言うのに、冬子はうなずいて再び歩き出した。




