終章:醜悪な絆
その日。
冬子が『closed』と書かれた樫のドアを開けた先に、今日も彼はいた。
「おや、お客さんや」
客席のソファに座り、一人煙草をくわえた少年。
中学生にも見える、少し背の低い。
開店前の店にいるのに、アルバイトにも見えない。
金髪で、頬にタトゥを入れたその少年は。
どこか、よそよそしく言った。
「もう、トーコには用がない店のはずやねんけどな、ココ」
垂れ目気味の目を細めて、八重歯が見える笑みを浮かべた彼は。
最後に別れた時と変わらないのに、何故か冷たく感じた。
金髪と、チェーンピアスを、天井から差し込む光が照らしている。
今日はカウンターで、何故か順次がグラスを磨いていた。
―――何でそんな事を言うんですか?
冬子が問い掛けると、春樹は大袈裟に肩を竦めた。
「トーコの周りには、もう小さい子どもの影も、しつこく追い回す男もおらんやろ? 俺に用はないはずや」
―――用がなければ、来てはいけませんか?
冬子を追い払おうとする春樹に、彼女は微笑みを浮かべてみせた。
春樹が驚いたように動きを止めるのを見て。
冬子は、我ながら会心の出来だと内心で自賛した。
春樹に会う為に、わざわざ練習してきたのだ。
ぽかん、と呆気にとられる春樹に歩みより、冬子は、鞄からルーズリーフを一枚取り出して、テーブルに差し出した。
春樹が目を落とす。
文面には、こう書いておいた。
『聞きたいことが、色々あります』
次の行には、続けて。
『サエは、目が覚めましたけれど、何も覚えてませんでした』
その次の行には、こう。
『駒道くんは、あの後一度も学校にこないまま、辞めたそうです』
さらに次の行には。
『サエの退学処分は、不当だという彼女の訴えで、停学に変わりました』
最後に差し掛かる手前の行には。
『なんの痕跡もないあの日のことが夢ではないと信じるのに、3日かかりました』
そこで、文字が震えた。
だが、冬子はそのままにして最後の一行を書いた。
『なぜあの日、気絶した私を残していなくなってしまったんです?』
春樹が、冬子の顔を見る。
彼が浮かべるのは、何も読み取れない笑みだった。
―――お礼も言わせてもらえなかった私は、とても怒っています。
浮かべた微笑みを消して、冬子は春樹を見下ろした。
春樹の頬から、たら、と汗が流れるのが見える。
―――でも、それは良いです。全部〝また今度〟ゆっくり聞くことにします。
冬子は、鞄をルーズリーフの横に置いてテーブルを回り込むと、彼の頬に両手を添えた。
―――今は、一つだけ質問に答えてください。
冬子は、春樹をまっすぐに見つめたまま、心を差し出す。
―――春樹は、私が、何かお礼をしたいと言ったら、迷惑ですか?
「迷惑や」
春樹は即座に答えた。
「どうした?」
不意に、順次が問い掛ける。
冬子は顔を上げて、口を動かした。
お礼を、と。
順次はグラスを磨く手を止めて、面白がるように口のはしを上げる。
「それはいい。あの日から、こいつはお前の話しかしない。ちょっと迷惑していた」
「コラ!」
そんな、ちょっと焦ったような春樹の声に。
今度こそ、冬子は作ったものではない笑顔を浮かべると、ルーズリーフを指で舐め取って裏を向けた。
無駄にならずに済んだその裏面を、春樹の眼前に突きつける。
それを読んで、春樹が額に手を当てて上を向いた。
「……分かった、俺の負けや」
春樹の嘆きに。
―――逃がしませんよ。何があっても。
裏面には、一言こう書いておいたのだ。
―――『ダウト(うそつき)』、と。




