第11節:浅ましき終演
「あそこや」
春樹が指差した先は、校舎裏の非常階段に続く廊下だった。
徐々に数を減らした子どもたちの列が途切れると、逆に床を流れる血の量が増えて、歩く度に靴底がねちゃねちゃと音を立てる。
「多分、ここで死んでもーたんやろな」
春樹は、血が増えているのも、子どもの列が途切れているのも、全ては寓意だと言った。
「あの踊り場と鏡は、負の情念の溜まり場やった。サエちゃんの強い意思に引っ張られて形を変えた情念が作り出した場所が、ここや。俺らは《異界》って呼んどる」
―――《異界》。
冬子のつぶやきに、春樹はうなずいた。
「きっとサエちゃんは、あの踊り場から突き落とされて。でも、お腹の子を守ろうと逃げたんや」
春樹は、かつて起こったサエの心の動きを読み取ろうとするかのように言葉をつむぐ。
「でも、お腹の子はここで命を落として……あの非常階段で、駒道に追い付かれたんやろうな」
春樹は、本来なら非常階段のドアが見える位置で立ち止まった。
「ここが、サエちゃんの《異界》の、終点や」
足元は既に血の海に近い。
奥のドアは近くにある筈なのに、深い闇に沈んでいる。
ゆっくりと歩を進めると。
その血の終着点に、〝それ〟はいた。
なんと、表現したらいいのだろう。
〝それ〟は、獣に見えた。
細い手足で四つん這いに這い、ぴちゃぴちゃと血を舐めていた。
〝それ〟は、裸の女に見えた。
こちらに尻を向けて。
がふ、がふ、と奇妙な息を吐きながら体を痙攣させるたびに、股下から覗く〝それ〟の胸が揺れる。
〝それ〟の目の前にあるドアには、男が壁にもたれ掛かっていた。
天を見上げ、白目を剥いて、泡を吹いている。
駒道だった。
〝それ〟は、駒道の股間に顔を埋めていた。
ぎち、みち、と肉をすり潰すような音が聞こえる。
ぶちぶちと、何かを噛み千切る音も。
「贄成サエ」
例の、強制力を伴う言葉が、春樹から放たれた。
〝それ〟が、こっちを向く。
こちらに顔を向けた〝それ〟は。
まるで、鬼のように見えた。
眼球が裏返って、乱れ切った髪は白。
歯を剥いた口元に、想像したくもない何かの肉片をくわえ、口許を鮮血で汚している。
形相は、おぞましいほどの怒りと憎悪に染まっていた。
だがそれは。
まぎれもなく、サエだった。
「もう、ええ」
春樹が、ふらついた冬子の背中を支えながら、語りかける。
サエは……サエの姿をした鬼は、がはぁ、と口を開いて身をたわめた。
その口から、ぼと、と落ちた肉片から冬子は目をそらす。
「サエ」
春樹の言葉に、サエが、びくん、と震えた。
「もう、終わったんや。そいつはお前に謝らんかったんやろうけど。そいつへの罰は、それで十分や。生かしといても……いや、生かしといたほうが辛い目に遭うくらいや。なぁ、わかるやろ?」
ぐるるる、と低く唸るサエは、しかし体から力を抜こうとしない。
「サエ。―――お前は、サエや」
春樹は、根気強く語りかける。
「他の何者でもない。そろそろ、目を覚ますんや。殺してもうたら戻られへん。お前がそこより先に行ったら、悲しむヤツがいるんや」
と、春樹は冬子の背中を押した。
冬子は。
一歩前に出ると、サエと向き合う。
おぞましさばかりを覚えていたが。
よく見れば、サエは泣いていた。
怒り、憎悪しながら、ぼろぼろ涙を流していた。
今、引き返さなければ。
サエは消えてしまう。
そう感じて、冬子はサエの前に膝をついた。
血に汚れたが、構わなかった。
両手を開き、抱きしめるようにサエに手を伸ばす。
―――サエ。
冬子の目から流れた涙が。
頬を伝い落ちて、地面の血に跳ねる。
サエが。
再び、ぴくん、と反応した。
そのまま、どのくらい経っただろう。
「フゥ、ユ、、、?」
サエの口から、言葉が漏れた。
冬子は、彼女から目を逸らさず、必死にうなずいた。
―――帰ろう? サエ。
と、心の中で呼びかける。
駒道みたいな男のせいで。
これ以上サエが苦しまなければいけないことなんか、ないはずだ。
もういい、と冬子は思った。
―――もう、戻ってきて。サエ。
「フ、ユ」
さっきより明瞭な言葉。
よたよたと。
四つん這いで近づいてきた、血まみれのサエを。
冬子が、躊躇なく抱きしめると。
ゴ、メ、ン。
そんな、謝罪の囁き声とともに、すぅ、とサエの体が薄れ。
そのまま、消えた。




