第10節:汝、埋葬にあたわず。
「悦え声やったわ。トーコ。ほんま、襲いたなるくらいな」
再び、ナイフを拾った春樹の声に〝力〟が、宿っていた。
「触んな、化け物。ーーーそれは、俺のもんや」
冬子は。
数度、春樹の放つその気配の片鱗を目にしていた。
春樹の。
人を惹きつけずにはおかない、圧倒的な存在感は。
どうやら、人以外のモノにすら通じるようだった。
まるで、怯えたように。
ゴーストが、冬子に触れる寸前まで伸ばしていた動きを止める。
眼下に見下ろせる、その背後で。
校舎を包む血だまりの中を散々転げ回り。
全身を赤く染めた黒い『骨』が、右手を掲げる。
「そろそろ終わりや」
掲げた手は。
鏡に入る時に見た不可思議な文様を浮き上がらせ、文字は瞬く間に春樹の骨の全身に広がる。
蠢く文様は、春樹の全身に沁みた血痕を引き剥がし、指先へと寄せ集めた。
「なぁ、化け物。お前、俺に触れたやろ?」
その血が変容し。
春樹の指先に、闇が灯る。
「死の直前まで、魂に穢れを溜め込んだ、俺に」
カタカタと顎を鳴らして、春樹は嗤っているようだった。
春樹が階段を登り始めると。
その指先に灯る闇から逃れようとするが如く、階下にあったゴーストの体の一部が解けて、春樹に触れまいと周囲に広がる。
春樹の指先に灯る闇が、形を成した。
それは、一冊の黒い本に似ていた。
青く光る文字を蠢かせる、奇怪な本だ。
そして春樹の左手には、魔を滅する銀のナイフ。
聖職者のような二つの具物を両手に掲げて。
「穢れは、連鎖する。知っとるか? 穢れに触れたモンは……全部、腐れるんや」
ぼろり、と。
冬子に伸びていたゴーストの手が、 突然、半ばから折れた。
そのまま、折れた部分が腐食するように。
白かったゴーストが、黒く染まっていく。
「カカカ。……『黒き永遠、死の獣。其は全てを無に帰すべし』」
春樹の体も。
その文言に合わせてさらなる深い黒へと変わりかけるが。
左に握った銀のナイフが曇り、光沢を失うのと同時に、春樹の骨の色は元に戻る。
「『触れよ、穢れよ。害せば還る。腐れて消える。残るは獣、死の獣』」
完全に黒く染まったゴーストは。
まるで炭のように固く動きを止めた。
「『有限ゆえに、無へと帰す。我は獣。輪廻の獣』」
春樹が掲げた本が、溶け出すように空気へと染み込み、春樹とゴーストを覆う。
闇そのものの気配が眼前で渦を巻き。
その中で、春樹の眼窩に浮かぶ赤い炎だけが鮮やかに、冬子の目に映る。
「俺を傷つけたお前はな、化け物。その時点で詰んどったんやーーー『神言創篇死章1節―――〝獣の応報〟』」
ゴーストの背中が、大きく陥没した。
それは、春樹が壁に叩きつけられた場所。
硬質化したゴーストは、その傷から全身を砕け散らせて。
最後に腐臭を放って、跡形もなく消え去った。
※※※
―――あれは、何だったのですか?
全てが鎮まった後に冬子が問い掛けると。
「言うたやろ? 人の負の情念の塊や」
―――では、あれは。サエと駒道の?
彼女らの想いの塊なのか、と問う冬子に、春樹は首を横に振る。
「ちゃうで。あいつらに牽かれて集まってきたモンやけど、全然なんも関係ないモンや。サエの生み出したモンは……今から来よる」
春樹に言われて、冬子が視線を上げると。
どこかから、子どもの歓声が聞こえて来た。
近づいてくる。
思わず、体を強ばらせる冬子に。
「そんな、固くならんでもええ」
春樹が冬子の背中を撫でると、階下の先から白い影が幾つも現れて、こちらを見上げた。
二頭身くらいの、小さな子どもだ。
服を来ていない体は真っ白で、整った顔立ち。
だが。
異様に大きな目と、頬の深くまで刻まれた笑みが。
口から漏れる笑い声が。
寒々しいほどの異様さを感じさせて、冬子の心を浸蝕していく。
しかも。
階下から見上げる子どもの数が、増え始めた。
クスクス、キャッキャと。
子どもが笑うたびに。
視界を覆う、血の海から。
笑う子どもたち自身の体から。
新たな子どもたちが、次々と湧き出してくる。
その腕から。
その頭から。
その腹から。
地面の血溜まりから。
天井の滴りから。
壁の赤い流れから。
階段の、一段一段から。
まるで冬子たちに、一歩一歩近づくように。
ぼこ。
ぼこぼこ。
ぼこぼこぼこぼこ、と。
湧き出して来る。
その短い腕には見覚えがあった。
冬子たちをこちらに引きずりこんだのは、どうやら、この子どもたちなのだろう。
再び広がる異様な景色に。
どうしていいか分からず、冬子がすがるように春樹を見ると、彼は何でもないかのように落ち着いていた。
「そんなに、怖がったりなや。可哀想やろ?」
春樹が困ったような、寂しそうな声音で言う。
ーーー可哀想?
冬子が問い返すと、春樹は子どもたちを見た。
骸骨の顔が、何故か淡く微笑んでいるように、冬子には感じられた。
「せや。この子らは、もしかしたら生まれて来れたかもしれん、サエちゃんの子どもやねんから」
は、と冬子は気付き。
足下から湧き上がり、じっと冬子を見上げる白い子どもの一人を見る。
相変わらず笑っている。
だが、子どもの顔は、歪んだ表情を抜きにすれば……確かに、サエに似ていた。
春樹が、ついに冬子たちを囲み切ったのにも関わらず、何をするでもなく笑い、こちらを見上げるだけの子どもたちを撫でる。
「トーコ連れて来るの、手伝ってくれてありがとな」
その瞬間。
子どもたちの顔が、一斉に嬉しそうなものに変わった。
まるで。
何もわからない赤ちゃんが、上機嫌に笑うような。
それは、可愛らしい笑顔だった。
「後、トーコをお前らのとーちゃんから、守ってくれとったやろ? かーちゃんに言われたんか?」
子どもたちは、答えない。
ただ、クスクス、キャッキャと、笑うだけだ。
春樹は、子どもたちに対して腰をかがめると、優しく訊いた。
「かーちゃん、どこにおる?」
すると。
春樹の言葉を聞いて、子どもの一人が階段の下へと体を向けた。
すると連鎖的に、子どもたちがある一方向に向き直り始める。
階下の、左に折れた廊下の先へ。
まるで導くように、子どもたちの整列が流れを作っている。
「あっちやな」
春樹はうなずき、冬子の手を取って歩き出した。
子どもたちは、二人が通ろうとしている場所から不意に消えては、通り抜けた後に再び現れる。
後ろを振り向くと、冬子たちが通り抜けた先の子どもたちは、膝をかかえて倒れ込んでいた。
まるで、胎児のように。
生まれることが出来なかったサエの子ども。
春樹の言葉によると、死んだ後に、冬子を駒道から守ってくれていたらしい子ども。
思えば。
あの白い影から逃げているときは、駒道の姿を見る事はなかったのだ。
ーーーありがとう。
そう、冬子が心の中で呟いてみると。
子どもたちは、また嬉しそうに、にっこりと笑っていた。




