不慮・後編
絶体絶命。ヴァンは今まさにそう言う状態と言って良かった。
もはや戦う余力はほとんどない。掌底をくらった際に剣もナイフも落としてしまい、視界の向こうに転がっている。
目の前で笑みを浮かべているシュプリンガーに、望みの情報を渡してしまうべきかと考えた。教えたところで大して不都合な事でも無い。
駄目だ。情報を教えればこの場は見逃すとこいつは言った。しかしそれはさっきまでの話だ。今、容易に止めをさせる自分を見逃す理由は無い。この戦いの最終的な勝利を得たければ、どのみち殺さなければならないのだ。
仮に見逃されたとしても、もはや手の内を明かし過ぎた。それも、尋常ではない洞察力を持つこの男にだ。この男の口から自分についての情報が広まれば、それで自分は戦力外同然となる。
戦力にならなくなった傭兵は、囮として味方からも捨てられるのがオチだ。それではどのみち生き残れない。
情報を黙っていても、生かされ続ける保証は無い。しかし、しゃべるよりはまだしばらくの間、生きる目がある。そうして得た時間で、細い蜘蛛の糸を掴むしか、生きる道は無い。
「殺せ」
精一杯の虚勢を張って、不敵にそう言い放った。
「お望み通りにしてあげますよ。ただしゃべった方が、楽に死ねます」
シュプリンガーが医療用のメスを取り出して、ヴァンの頬に当てる。当てただけでぱくりと皮膚が割れ、血が流れ出した。
「本当はせっかくだからいろいろ試したいんですけどねぇ。皮膚を剥いで、代わりに紙やすりを移植してみるとか」
頭がどうかしている。
「足の中指を左右でとっかえてみましょうか?」
「聞きたい事が有るんじゃないのか」
思わず声を出す。
「おや、聞けば答えてくれるのですか?」
口をつぐむしかなかった。演技なのか素なのか、本来の目的をほったらかして、どうやってなぶろうか嬉々として考えている。それが一段としゃべってしまいたい気持ちを煽った。
「どうやって吐かせましょうかねぇ。奥歯をごりごり削っていくと言うのはどうです?」
シュプリンガーが顔を寄せる。顔を背けると、谷の出口が見えた。谷の外は森だ。あそこまで逃げ込めれば、撒けるだろうか。
賭けに出るなら余力のあるうちだ。しばらく耐えて相手の油断を誘う手もあるが、この男相手には危険だと勘が告げていた。
「俺としちゃあ、どうすればテメェの薄笑いが消えるかのほうが、興味があるぜ」
剣を呼び寄せる。地面に転がっていた剣が動き出し、ヴァンの手元に向かって飛んでくる。今の余力ではこれが限界、最後の魔術だ。
戻ってくるついでに剣をシュプリンガーに当てられないかと思ったが、そう都合良くはいかなかった。ただ剣は手に戻った。シュプリンガーを蹴り飛ばし、駆ける。
足が重い。体が重い。それでも懸命に走った。すぐにでも追いつかれそうな気がしたが、気付くと森の中に飛びこんでいた。木の裏に身を隠し、様子をうかがう。
「……追って、来ない?」
「――っ! これは、ちょっとまずいですねぇ」
ヴァンがシュプリンガーを蹴り飛ばし、逃亡を図った。ヴァンの動きは鈍く、普通なら余裕で追いつけた。
しかし今、シュプリンガーの腿はバックリと口を開け、血がとめどなく溢れ出している。蹴られたときにメスを取り落し、それが自分の脚を切り裂いていた。それも、かなり傷は深い。
動脈が切れている。シュプリンガーはすぐに止血に全力を挙げる必要があった。何とか出血は大幅に抑え込めたが、縫わない事には完全な止血は無理そうだった。
「逃がしてしまいましたか。この脚では追えませんね。それどころか、早く本格的な治療が要りそうです」
シュプリンガーはヴァンの追跡を断念し、来た道を戻る。一度逃げたヴァンが自分の負傷を知り、反撃に来たとしても、ボロボロのヴァン一人ならばまだ問題は無い。
だが付近に仲間がいた場合、一気に自分は狩られる獲物に転落する。退くしかなかった。足を引きずり気味にしながら、血の垂れていない事を確かめる。負傷の痕跡は、できるだけ残したくない。
「手負ったか、シュプリンガー」
行く手に一人の男が立っていた。霧隠だった。
「申し訳ありませんね。勝手な事をした上、この様とは」
「済んだ事を責めても仕方あるまい。手を貸そうか?」
「いえ、結構です。それより付近に敵は?」
「お前が追っていた者以外には、無い。止めを刺す事も考えたが、お前と言う戦力を維持した方が価値がある」
「評価していただいて、光栄ですよ」
「手当てを」
「敵がいないのなら、戻ってからでも大丈夫です。むしろ先に戻って、色々用意してくれるとありがたいですね」
「分かった。他に何かあるか?」
「今のうちに、さっきの敵についての事を報告しておきます」
シュプリンガーは霧隠と並んで歩きながら、ヴァンについて自分が知りえた事、考察した事をことごとく報告した。この情報が共有されれば、ヴァンはほぼ無力化できるだろう。
「以上で報告終わりです」
「了解した。では先に戻るが、くれぐれも気を付けるのだぞ」
「敵はいないのでしょう? 霧隠殿がそう言うのなら安心です」
霧隠はふっと小さなつぶやきを漏らすと、疾風の如く駆け去っていった。シュプリンガーはそれを見送ると、手ごろな石に腰を下ろして休んだ。
「あー、ここは……私が最初に不意打ちを食らわせてやった場所ですか。結構足が遅くなってますねぇ。
最初の一撃で吹っ飛んだ彼を、この辺りの岩壁に叩きつけて三連撃を叩き込みましたっけ」
ぼんやりとそんな事を思い出す。つい先ほどの事だが、昔の事のように思える。
小さな音がした。堅い物が落ちる音だ。二度、三度と音がした。小石が落ちてきている。頭上で、ミシリという不吉な音がした。
「――っ!?」
崖が崩れる。戦闘の時の衝撃が、今頃効いて来たのか。その場から飛び退こうと、立った。傷口が刺すように痛み、足を折る。
崖が崩落した。岩の一・二個ではない。大規模崩落だ。迫りくる岩石群が、酷くゆっくりと落ちてくるように思えた。
二瓶はアルザス王国側の拠点を窺っていた。
単独でこの拠点目指して出て行ったらしい半次郎の捜索という事で、山伝いに南から拠点の至近まで迫った。
ここまで半次郎は見つからず。拠点にも争った形跡は見られない。別のルートを使ったのだろう。普通に考えれば山中を抜けるルートを、素人がそうそう抜けられるものでもない。
自分は保険の様なものだ。そのついでに、敵陣の様子も探れれば良しだ。
砦は人気が無く、閑散としていた。ほとんど出張らっているらしい。それでも無人という訳ではなく、メイドが一人いる事は確認した。
ただのメイドという訳ではないだろう。名簿にも名を連ねていたメイドだ。何かしらの能力は持っているのだろう。
他に誰もいないのは好都合だ。この際、ここで一人を片付けてしまおう。そう思い、二瓶は火縄銃を番え、射程距離まで接近した。
自分はこの山で何十年も猟をしてきた。この火縄銃で鹿でも熊でも数多く撃って来たのだ。その権利は大昔、レーン大公国から承認されている。
当時はこの土地に誰も見向きもせず、一応の許可を取るために提出した書類を、役人はろくに読みもしなかった。
それでも大公国公認の権利はある。無下にされる事は無い。しかし土地がアルザス王国の領有という事になれば、そんなものは紙クズだ。
どちらに加担する気も無い。ただ自分の山は自分で守ると言うだけだ。そしてそれが、たまたまレーン大公国に加担する事と重なった。
射程内に捉えた。熊撃ちなら、もう少し引き付けたい距離だが、相手は砦から出て来るとは思えない。これ以上は草木が刈り取られ、身を隠す物が無い。この距離で撃つ。
メイドの姿が見えなくなった。砦の中に居る以上、窓辺に寄らないと撃てない。さっきまでは何度か姿を晒していたが、急に姿を見せなくなった。
焦るな。獲物が姿を隠して、しばらく見失う事はよくある。周囲の自然と一体になり、木になり岩になり、出てくるまでいつまでも待てばいい。
火縄の燃え具合で時間は分かる。意味の無い事だ。一分待つのも、一時間待つのも同じ事だ。ただ相手は獣ではなく、人間だ。行動の癖が違う。そこは念頭に置く必要がある。
気持ちに何かが引っ掛かった。何だ、この違和感は。構えを崩さずに、視界を広くする。視界の端で何かが動いた。人影。あのメイドだ。明らかにこちらへ来る。
撃った。銃声が山に木霊する。手ごたえが無い。銃でも長年使っていると、獲物に当たった時の手ごたえの様な物が分かる。
火縄銃なので再装填に時間が掛かる。銃を担ぎ、山杖をついて山道を駆けだした。あのメイドは、自分に気付いたと言うのか。走りながら、何故気づかれたのだと言う思いが頭から離れなかった。
行く手を遮る様に、前の木の幹にナイフが突き立った。続いてあのメイドが姿を現す。山で自分に追いつく者が居ると言うのか。
「一体お前さんはどんな能力を持っているんだ。山で儂に適うものなど、初めて見た」
「何も。いわゆる異能を私は持っていませんよ。あなたと同じです」
「馬鹿な。何の異能も無く、儂が狙っている事に気付いたと?」
「ええ、火縄の臭いがしましたから」
火縄の臭い。確かに火縄は独特の臭いを出す。しかし少なく見積もっても、100mは離れていた。熊だって50mまでは近づける。熊以上の嗅覚が有るとでも言うのか。
二瓶は山杖と火縄銃を地面に突き立て、剣鉈を抜いた。見た目が良く、切れ味も鋭いだけの刃物とは違う。山で使うための武骨で、針金も叩き斬れる、微妙な鈍さを併せ持った刃物だ。
一方のメイド、ナタリアの取り出したナイフは、洗練された彫刻の施された、むしろ観賞用の趣が強い、繊細な品だ。
二瓶が跳ぶ。頭上の木の枝を掴み、体を振り子に揺すって、猿の様に別の枝に飛び移る。何度か枝を移動してから、ナタリアにとびかかった。
ナタリアが避ける。二瓶の鉈が木の幹を打ち、低いが軽快な音が響く。音に反して、当たれば親指も切り落とす威力がある。
その後も二瓶は木々の枝や、つる草を生かして、立体的に飛び回り、攻撃を仕掛ける。
それに対してナタリアの動きは、魔術的だった。右に行ったはずが、左に居る。距離を詰めたと思ったら、離れている。手品的と言った方がいいかもしれない。
動きを比べれば二瓶の立体的な動きが圧倒し、ナタリアが幻惑的に動く事でそれをしのいでいると言う具合だった。
しかし近距離になれば、鉈を力の掛けられる形で振るうだけの二瓶に対して、絶妙に隙をついて急所を狙ってくるナタリアに、二瓶は何度も肝を冷やした。
二瓶は猟師であり、対人の実戦経験は無い。ナタリアには、何かしらの経験か訓練がある様だった。銃での狙撃に失敗した時点で、二瓶の方が不利だった。
ならば、まともに戦わなければいい。そう二瓶は思った。山杖と火縄銃を回収し、道なき道を走る。追ってこなければ、このまま逃げたっていい。
ナタリアは追って来た。まあ、そうだろうな。二瓶は頃合を見計らって、木の洞を思い切り杖で叩いた。そしてすぐに、できるだけ低い所に身を伏せる。
大きな蜂が、怒り狂ってわんわんと湧き出してきた。洞は、オオスズメバチの巣だ。
蜂がナタリアに襲い掛かる。ナタリアは、ナイフを三本ずつ指の間に挟んで、巧みに蜂を切り落としながら後退していく。
その間に二瓶は、火縄銃の装填をする。蜂は下方向への視界が狭く、しのぐ時は身を伏せるのが定石だ。さらに火薬で小枝や草を焼き、煙でいぶす事で蜂を避けている。
ナタリアが巣から遠ざかった事により、蜂は引き下がった。だが鉄砲の有効射程には、余裕で捕らえている。撃った。ナタリアが森の下草の中に倒れる。
当たったか。それとも身を伏せただけか。獣でも、とっさに死んだふりをする事が有る。そうしてこちらが近づくのを誘っているのかもしれない。
鉈を山杖の先に着けた。元々柄にはめ込める構造になっていて、槍になる。熊槍と言い、鉄砲が無い頃は、これ一本で熊と渡り合った。
熊槍を構えて草むらに近づく。見えない所に居る蛇を叩き出す様なものだ。槍の長さぎりぎりまで近づいた。動きは無い。
思い切り、突き込んだ。草の音。手ごたえは無い。飛び出したナタリアが、上から襲い掛かる。草丈からして、伏せるしかなかったはずなのに、何と言う跳躍力だ。
槍を戻すより先に、太腿で頭を挟まれた。そのままナタリアが体を捻り、二瓶が頭から地に落ちる。脳震盪を起こし、意識が回復した頃には、完全に組み伏せられていた。
「チェックメイトです。ご老人には詰みと言った方が伝わるでしょうか」
「何者だ。あんたは」
「私はメイド。主人のために働く者。そして主人を守る者。あらゆる暗殺を防ぐ、対暗殺者が私の使命」
100m先からの狙撃を、火薬の臭いで感じ取ったのも、それか。
「それではご老人。冥土へご案内いたしますわ」
「メイドさんだけに、ってか」
二瓶は笑った。次の瞬間、左右の首筋が、バッサリと切り裂かれていた。




