白刃狂乱・後編
マッチを擦った。点いた火が、強風にあおられてすぐに消えてしまう。三本のマッチを束にして、まとめて擦った。今度は消える事が無かった。
煙草に火を点け、マッチの火を消す。吐いた煙が強い風に流されて行く。白衣も風になびき、ボワボワと音を立てていた。
シュプリンガーは残った彼我の戦力を思い浮かべた。こちら側は、霧隠、半次郎、カレン、和田、二瓶、そして自分が残っている。
真っ向勝負で戦力に数えられるのは、半次郎とカレン、それに自分くらいだろう。だから戦力を集中し、前線向きの戦力を最大限支援して戦う。
基本的な戦術思想は、グロックとイワン、リュウと日向を組ませたのと同じだ。しかし彼らが倒れてしまったので、残った戦力を最大限集中する。
集団戦になるか、敵を一人ずつ潰していく事になるか。どちらにせよ、一人ずつ暗殺的手法で消される事は無くなる。
敵の残存戦力は、ナタリア、ゲラー、ジェロニモ、ヴァン、ティア、ゾフィー、ダスプルモン、河西であるはずだ。
具体的な情報が分からない敵が多い。故にこちらも、何が出てきても良いように備える必要があった。戦力の集中はそのための策でもある。
ただ一網打尽にされる可能性を考えると、やはり少しでも敵の情報が欲しい。しかしまあ、言っても仕方の無い事だった。
分からない事を思うより、分かる事を思うのが先だ。唯一具体的な情報がある相手、ダスプルモンに警戒しろと霧隠は言っていた。アルザス王国の、影の部分の仕事を代々担ってきた一族なのだと言う。
ならば当然、真っ向からの戦いよりも、単独行動による奇襲を主として活動しているはずだ。もっと言えば、暗殺を狙っている可能性が高い。伝え聞く彼の能力から言っても、間違いないだろう。
こちら側の残った六人のうち、狙うとしたら誰か。半次郎、カレン、二瓶は比較的可能性が少ないだろう。
なぜならこの三人は民間から選ばれた代表者であり、情報が少ないはずだ。強いのか弱いのか、どんな能力を持っているのか、全体の中での重要度は高いのか低いのか。
それが分からない相手を狙うのは、リスクとリターンが釣り合わない。優先順位は低いはずだ。
敵に情報を知られている可能性の高さで言えば、何と言っても自分を含めた残りの三人だ。元々公的な地位を持っている身だ、調べようと思えば調べられる。
ただ霧隠だけは、そう容易く実態を掴ませないだろう。同じ影の戦いを任務とする者同士なら、決着も容易には着かないに違いない。
ならば狙われるのは和田か、自分だ。それも、自分の方が前線に出ている。狙いやすい相手ではあるだろう。
人影がこちらに近づいてきた。影は西の方から来る。味方ではなかった。シュプリンガーは煙草を咥えたまま立ち上がり、近づいてくる影と正面から向き合った。
長身長髪、黒い服にサングラスで黒づくめの男だった。奇しくも白衣に丸眼鏡のシュプリンガーとは、対比のような格好をしている。
「あんたがシュプリンガー博士か。噂通りどこでも白衣なんだな。良く目立つぜ」
「あなたに言われたくは無いですね、ダスプルモン」
「へえ、俺の事を知っているのか」
「ええ、ちょっと前に用心しろと言われたばっかりですよ」
「用心しろと言われた割には、のんきに煙草なんか吸っていたのか」
「まあ、実を言うと待ってましたからね」
「待っていた? 俺を?」
「魔眼の一族、その中でも最強の兇眼者。実に興味深い。調べてみたい。解体したい」
シュプリンガーの口元が歪んだ笑みをみせる。
「おお怖い。噂以上にいかれてやがるのな」
「御託はいいんですよ。こっちとしてはお預けを喰らっている気分なので、早く始めないとどうにかなりそうだ。
さあ、実験を始めましょうか?」
まず動いたのはダスプルモンだった。一歩踏み出し、踏み出した足を軸に後ろ向きになりながらもう一歩踏み出し、背中からシュプリンガーにぶつかる。
ぶつかりながら、肘を的確に急所に撃ち込んでいた。シュプリンガーの体が吹き飛ぶ。
「痛たた……。凄い踏込ですね、あの距離なら対応できると思ったけど、甘かったようです。狙いも的確に急所だった」
シュプリンガーが顔色一つ変えずに立ち上がった事に、ダスプルモンは内心驚きを禁じ得なかった。
今の一撃は確実に肝臓に入ったはずだった。肝臓は血管の集中する臓器、ここに衝撃を与えて損傷すれば、内臓からの出血多量で死に至る事もある。そうで無くとも、苦痛は相当なものになるはずだった。
撃ちこむ直前で、後ろに跳んで衝撃を逃がした。そういう事だろう。甘かったと言うのは、完全に見切るつもりでいたという事か。
「次はこちらから」
シュプリンガーが踏み込む。かなり熟練した身のこなしだ。迎撃の拳を潜り抜けて、ダスプルモンの懐に飛び込む。
右手がダスプルモンの首を掴む。そのまま片手でダスプルモンの体を、つまさきが浮く程度に持ち上げた。なんて力だ、もがきながらダスプルモンは戦慄した。
背後の地面に叩きつけるように投げる。投げられながらもダスプルモンは空中で身を翻し、きれいに受け身を取った。
「なんて奴だ。ただの学者じゃないのか」
喉を抑え、せき込みながらダスプルモンがうめく様に言う。
「引退して長いですから、まだちょっと体が固いんですよね」
「引退だと?」
「おや、調べてないんですか? 研究に専念するために引退しましたけど、これでも元はグロック大佐と並ぶ格闘戦のエースだったんですよ」
「なるほど。かつてのエースの片割れがこの戦いに参加していないのは何故かと思っていたが、まさか学者に転職していたとはな。
そもそも公式記録には、昔のお前の存在は記録されていなかった。だから同じ名前でも、まさか同一人物だとは思わなかったよ」
「まあ、話すと色々ややこしいのですが、一度除名処分になりましてね。私としては好きに自分の研究が出来ないのなら、どんな立場が保証されたところで意味は無いので、気にしませんでしたが」
「人でもバラしたかい」
「そんなところです」
「そうかいそうかい。こりゃ、本気でやらないとヤバそうだな」
ダスプルモンが飛び込む。姿勢を低くして、シュプリンガーの足元に滑り込むんだ。顎への攻撃を警戒して、シュプリンガーが体を反らす。
ダスプルモンは攻撃するでもなく、体を起こした。サングラスを外している。目が合った。その瞬間、シュプリンガーは全身が鉛になった様に重くなるのを感じた。
腹に蹴り。動きがまるで鈍く、まともに食らった。吹き飛び方は普通だった。体が重いのは、感覚だけのようだ。
「これが、貴方の魔眼ですか」
「少し違うな。魔眼と言うのはあくまで眼の事で、魔眼の力を使う事は『邪視』と呼んでいる。まあ、どうでも良い事か」
「見ると死ぬと聞いていましたが、何故殺さなかったので?」
「そう便利な物でも無いんだよ。見るだけで好きに殺せるわけじゃないのさ。これ以上詳しい事は、教える訳にはいかないな」
「十分ですよ。あなたの兇眼がどういうものか、推測する手掛かりは得られましたから、満足です」
「……あんた、ひょっとしてわざとくらったのか?」
「本気で避けて避けられるかは分かりませんでしたが、体験してみようとは思いましたね」
「正気じゃないな」
「狂気で結構」
こいつはヤバいな。そうダスプルモンは実感した。精神性が異常だ。予測不可能な存在を野放しにしておくのは、危険だ。
ダスプルモンが前に出る。シュプリンガーもそれに合わせて前に出た。シュプリンガーはまだ体が重い様だが、体が重いなりにすでに対応している。
激突の直前で制動を掛け、ダスプルモンが一歩引いた。そして追ってくるシュプリンガーに、鋭い裏拳を打ち込む。
拳は空を切った。いくら対応していても、動きの重くなっている体では、避けられない程に引き付けたはずなのに。
拳を避けたシュプリンガーが、動きを確かめる様に軽やかに跳ねていた。もう邪視の影響から脱したのか。
精神だけではなく、実力としても放置するには危険な相手だ。確実に、仕留める。
ダスプルモンが踏み込む。再び、体を回しながらの急所への肘。今度は踏み込みをより大きく、打撃をより深く。受け流しきれぬほどに、強く。
手ごたえが無い。空振りだ。シュプリンガーはどこへ。影。確認するよりも先に、頭を大きく横に逸らした。踵が肩をかすめて落ちて行く。
反撃に出ようにも、体勢に無理がありすぎた。だがそれは、踵落としを空ぶったシュプリンガーも同じ事。互いに一度距離を取って、仕切り直す。
「今のを避けるとは、やりますねぇ」
「そいつは俺のセリフだ。まさか避けられた上に、上から来るとは」
「あなたの踏み込みは確かに鋭く、本気になれば後ろに跳んでも受け流しきれません。また一歩目の脚を軸足にし後ろを向く事で、左右に逃げても二歩目の方向を修正して追ってくる。そうでしょう?」
ダスプルモンは答えなかった。自分の踏み込みの、まだ見せていない特性を見切られている。
「しかし、上下の移動に対応できるようにはできていない。だから空中に逃げて、上からの攻撃をする。道筋さえつけてしまえば、簡単な結論です」
簡単と言うが、見えている事から見え無い事まで類推して、対応策まで導き出す事が、そう容易な事であるはずが無い。
学者としての観察力・思考力。そしてそこから導き出された答えを、実際にやってのける実力。ただの学者でも、格闘者でもない。学者であり格闘者でもある事が生む強さ。
この男、飛び抜けた何かを持っている訳ではないが、隙が無い。
シュプリンガーが踏み込む。攻撃してきたところに、カウンターで蹴りを入れる考えが頭をよぎった。
この男相手に、動きの制限される蹴りを不用意に出すのはまずい。そう考え直し、まずは防御の構えを取る。
掌底。単純な攻撃だ。十分に防げる。いや、本当にただの掌底か? 言い様の無い不安を覚え、防御を捨てて回避に切り替えた。
脇腹を掌底がかすめる。避けづらい高さへの、鋭い打ち込みだ。そう思ったのもつかの間、再度掌底を打ち込んできた。左右の打ち分けではない、一度撃ちこんだ右手を引いて、もう一度だ。何という速さだ。
二発目を辛うじてかわしたが、シュプリンガーはすでに三発目の打ち込み体勢になっていた。避けきれないと判断し、防御態勢を取る。
足を上げて胴を守る。そこに撃ちこまれた掌底は、骨が軋む様な衝撃だった。後ろに数歩たたらを踏む。
掌底は拳に比べて、外傷よりも体内へ衝撃を届かせる事の出来る攻撃だ。シュプリンガーのそれは、まさしく防御を貫通するような衝撃だった。
古武術の達人は、鎧の上から心臓を止める事が出来たと伝えられるが、あの掌底はまさしくそれだろう。胸腹にくらえば、内臓を殺される。
「こいつはマジにやばいな。本気でやるしかないか」
「おや、手を抜かれていたとは心外ですね」
「そういう訳じゃないさ。ただ危ない橋は可能な限り渡らない主義なんだが、そうも言ってられなくなったって事さ」
「つまらないですねぇ。私は対岸が気になるのなら、朽ちかけの橋だろうがなんだろうが、喜んで渡ります」
「己の欲求しか見えてないのか。あんた、学者は天職かもな」
「褒め言葉と受け取っていいんですか、ね!」
シュプリンガーが必殺の掌底を引っ提げて、ダスプルモンに襲い掛かる。ダスプルモンは攻撃を引き付け、後ろに跳んだ。
跳びながら掌底を打ち込む右手首を掴んで引き倒す。シュプリンガーの体がつんのめってくる。立て直そうとするシュプリンガーの、懐に飛び込んだ。
「ホワァタタタタタタタタ!」
ダスプルモンが突きのラッシュを繰り出す。速く、軽く、浅い突きだ。だが全てが確実に急所に撃ちこまれている。
「チャァッーー!!」
止めに得意の背面肘打ちを叩き込む。シュプリンガーの体が派手に吹き飛んだ。背中から着地したシュプリンガーは反動をつけて起き上がり、カエルの様に地面にへばりつく。そこから片膝を立てて顔を上げ、ダスプルモンを睨んだ。
「――解体するぞコノヤロウ!」
シュプリンガーが立ち上がる。が、その足取りは僅かにふらついていた。
「拳法が使えたのか。今突いたのは全部経穴だろう」
「切り札はなるべくとっておくものさ。だが使うべき時には使わないとな」
「同感だ!」
シュプリンガーが突進する。身を低くして、左右の腕を引いている。掌底の左右同時打ちか。ならば、さっき自分がやられた様に、天からの踵落としで迎撃すればいい。そうダスプルモンは身構えた。
本当にそうだろうか? おそらく、これが最後の攻防だ。これで決着が決まる。そんな時に、こいつは真正面から攻撃を叩き込んでくるか? それとも、最後だからこそ正面からか?
本気の攻撃か、陽動か、どっちだ? ためらったのは一瞬だった。その一瞬で、もう跳ぶには遅いほどに接近されていた。
横に跳んだ。一度流して、その隙を突く。その方が確実だ。すぐそばをシュプリンガーが駆け抜けていく。はずだった。
「なに!?」
突撃してきたシュプリンガーが、片足だけ制動を掛けた。地面を擦る音が短く響く。足を軸にして、捻る様に体勢を変えた。ダスプルモンを、完全に正面に捉えている。しかも、至近だ。
「おああああああああっ!!」
シュプリンガーが掌底を打ち込む。
「くっ、俺の目を見ろぉ!」
ダスプルモンが兇眼を開いた。掌底をくらう前に止めるには、もうこれしかない。二人の目が合う。シュプリンガーがぞろりと歯をのぞかせる笑みを浮かべた。
ダスプルモンの体を衝撃が突きぬけて行った。人の体がこれほど飛ぶものかと言うほどに吹き飛び、落ちる。
それでもまだダスプルモンは立ち上がった。だがすぐに体をくの字に折り曲げ、口からおびただしい量の血を吐いた。
「兇眼は……中途半端に終わったか……」
霞む視界の先に立つシュプリンガーの姿を認めながら、ダスプルモンは言葉を絞り出した。
それが限界だった。内臓を破壊された苦痛が凄まじく、しゃべる事はおろか、立っていられなくなった。
「勝ったのは私でしたか。その魔眼は、近距離でなければ効果を発揮しない。それも、視線を合わせる必要がある。特に兇眼は、一定時間視線を合わせている事が必要となる。それが答えです。
だからあなたは、正面から距離を詰めてくる私にためらった。無意識のうちに、必殺の兇眼の有効範囲に入ってくる訳が無いと思ってしまった。まあ、予想した上で突っ込んだのですがね」
ダスプルモンは何も答えない。もう苦しげな呼吸音が鳴り響くだけだった。それでも、聞こえてはいたし、思っている事もあった。
確かに兇眼はお前を殺さなかった。だが不完全な兇眼でも、効果はある。確実に死ぬかは分からないが、じわじわと死はお前に忍び寄ってくる。それが兇眼の本当の力。死の定めを与える魔眼だ。
ダスプルモンの意識が闇に落ちた。シュプリンガーは、飽きたおもちゃでも見るようなまなざしを亡骸にくれて、去っていった。
その背中に、死が忍び寄っている事は、まだ知らない。




