終わりのハジマリ 3
CCが示す現在の時刻は午前八時十五分。
その時刻表示を見て――というより起床した瞬間から遅刻は免れないという確信があった。そんなわけで僕は急ぐことをせず、澄み切った青空のもとで冷涼な風を肌で感じながらゆっくりとペダルを踏んでいた。
綺麗に舗装された道からの照り返しが弱いこの時間はとても心地いいものだ。草木はその身を緑色に染め始め、夏のお訪れを今か今かと待っているかのようだ。
「もうすぐ夏かぁ……」
僕は小さく呟いた。夏といえば花火や祭りなど、イベント事が尽きない季節である。特に柏崎では七月の花火は有名で、多くの人がこの街を訪れる。
しかし、その景色を双眸に映す事は未来永劫叶わないことはどんな小さい子でも理解している事柄である。なぜならば眼帯の裏、左目に装着されたCCは自由自在に着脱することができないからだ。
今から半世紀も経たない頃、三人の才ある者たちを中心としたプロジェクトチームよってCCが開発された。回線を電波ではなく脳波を採用したため、完成形の実物は薄く小さい者になったが、着用時の代償に左目の情報収集能力の排斥――いわば失明することが求められ、製作チーム内でも製作以前の設計会議の段階から物議を醸したらしい。
しかし、その三人は何かの確信を持って製作を行い、完成させたという。何を持ってかはその三人以外知る者はおらず、突き動かした動機は今も闇の中だという。
そして、その確信は身の周りのものが厚さたった一ミリにも満たない、コンタクトレンズと同型の代物に搭載されているということに惹かれた世界各国の首脳陣を大いに賞賛させ、全人類の着用を国際法で定めさせるに至った。
もちろん、反対派の集団は当時無数に存在し、抗議デモは後を絶たなかったという。だが、利便性に長けた性能、流れゆく時代が徐々にその反発心を鎮めていった。
そして、ここ日本国もその法を批准した。加えて、左目の覚醒は禁忌とされ、眼帯を身につけることも付属して義務化が推し進められた。その結果が今の僕や有花である。
確かに今までの経験から考察するに、生活は、暮らしは楽になったのかもしれない。その場から動かずともただ脳内で思い描いた通りに左目のウィンドウ上で動作を行い、通話もメールも触覚や聴覚を介さなくともそれが可能になったのだから。
しかし、僕はその【便利であるがための不便さ】を少なからず感じている。
「……って何考えているんだろ、僕は」
心中で説いていた僕を嘲笑いながら多少幅の狭い道路を左折し、通勤、通学の人たちで溢れかえる大通りに自転車を進めた。
僕の住む新潟県は、日本国に存在する《広域特別指定都市》のひとつとして様々な職種の人間が町中に跋扈する、物静かから縁遠い都市である。また、最も仮想の世界との距離が近く、日本国と隣国の大陸を結ぶ地下トンネルが開通していることもあって、実質的に首都で第一広域特別指定都市の東京より人口こそ少ないものの、その道に精通する重鎮や学者と呼ばれる人の割合が多い。
そして、仮想空間についての情報を公開してくれる仮想空間侵略対策課、略して仮想課のある柏崎市は浜風が強く、荒波日本海の芳香を感じられる所で近年、この地に拠点を置く企業が上昇傾向にある。そのため、見慣れていた光景も高層のビル群に取って代わり、一車線だった道路も今では市内どこでも三車線は通っているのだ。
便利になってくれたことにはおおいに歓喜の声を挙げたいところなのだが、平日通勤ラッシュの時間帯に登校する僕にとって、気分的に喜ばしいことではないのが実の所である。
自転車から降り、足元を注視しながら、人の波を上手くかき分けて進むこと五分。
「光ちゃん、こっちこっち!」
突然、誰かが僕の名前を呼んだ声を耳にした。しかし、この人ごみの中のことであるからただの聞き間違い――そう結論を出そうとした。が、直後に先程より声量のある声が確かに聞こえ、一旦歩道の脇に自転車を停めて周囲を見渡した。
そして僕は一人の人物をその隻眼に捉えた。あまりに気恥ずかしいものがそこにはあり、すぐさまその光景から目を背けて身を翻し、急いで自転車を押して行こうと停めたところに戻った。その人と視線をあわせてはいけない、そう脳が認識していち早く察知した体が反射的に行動したためだった。
けれど、数瞬相手のほうが早く、一枚上手であった。
いつに間にか僕の背後にまで距離を詰めていた相手はつんつんと僕の肩を人差し指で叩くと異常なまでに重い圧を放って言った。
「おっかしーなぁ~普通、彼女に名前呼ばれて目があったら、逸らす人なんていないはずだよねぇ? それとも何? 人通りの多い道の片隅に設置されたベンチの上から、彼氏の名前を呼ぶ彼女が痛々しいから僕はとりあえず赤の他人を装って――っていう魂胆だったんですか?」
顔から血の気が引いていく。豪雨のように滴る汗は自制しようにも背後から感じる視線に一種の恐怖を覚えていたため、それは叶わなかった。
面倒くさそうだったから、などと口を滑らせてしまえば後ろの人物は僕を自転車から引き剥がして僕の前に出て、腹部に鉄拳をお見舞いすることだろう。
これは火を見るより明らかなことである。決して悟られない嘘をつき、この場を上手く治めなければならない。本心=(イコール)死、なのだから。
錆ついたようにギシギシと音を立てて体を反転させた僕は笑顔、しかしその時の用途とは程遠い意図を含みながら背後に立つ人物と対面した。
「や……やあ、人違いかなぁ~と思ってね。有花は僕より先に家出ていたからもう学校に着いているものだとつい……」
「へぇー、彼女がわざわざ遅刻、というよりまた学校をサボりしそうな彼氏を待っていたのに言い訳とはねぇ。それに嘘はよくないと思うんだけどなあ」
あっさり撃墜。棒読みな口調と冷たい視線がさらに恐怖を駆り立てる。
「大変も――し訳ありませんでしたっ!」
ここで首をはねられるなら降伏する方がマシである。とにかく僕はこうべを垂れる。
「うむ、くるしゅうない。判ればよいのだよ。面を上げよ、光ちゃん!」
視線を上げた僕の目には二マッと輝く彼女の笑顔が映る。
これだ。この笑顔に僕は弱い。彼女が何の曇りっ気のない純粋無垢な天使のように微笑む姿に僕の胸奥はほっこり温かくなる。この笑顔がいつも、僕の救いになっている。そして自然に僕も頬の筋肉が緩み、口許が綻んでしまう。
「早く行こう! 朝礼にはもう間に合わないけど、今から急げば一限には滑り込みセーフだよ」
しかし、その言葉と共に僕の感情パラメーターは無気力を示す。
「ええー、僕あまり体力ないからいいよ。ゆっくり行けばいい……って」
どうやら僕の言葉は有花にとって聞くに値しないものらしい。僕の自転車からバッグを取り上げ、通勤通学で利用する人たちでごった返すこの通りを縫うようにして、人と人との間を抜けていく。
そんな有花に僕は思わずため息を漏らした。
なにも人をかき分けていかなくてもよかったではないか。人の流れに乗れば今の時間でも楽々と一時限目に間に合うというのに――
しかし、それが彼女の性格上、出来ないというかそれを許さない事は長い時間一緒にいた僕には理解できた。
顔立ちこそは大人しい印象の有花であるが、その中身は真逆といってもいい。
部活で陸上をやっているせいか、一つの事に一生懸命で、勝負事となれば勝つことに誰よりも貪欲になる負けず嫌いの精神の持ち主。加えて少しせっかちな面もあり、今のような一時限目にぎりぎり間に合うか間に合わないかの瀬戸際などでよく見られる。
そうこう頭を使っているうちに当の彼女は交差点の手前まで歩を進めており、乗らない気持ちの中、僕は急いで自転車を押して行こうとした。
そのとき、ゾクリと寒気が僕を襲った。何か不吉な事が起きる、そう直感させるようなよくない汗が一つ頬を滑り落ちた。
けれど、何かが起きる様子はなかった。いつも通りに人々が行き交い、混雑具合は頭が痛くなるほど。変化が起きるなら今の混雑をなくしてほしい、と心の中でほんの少し願った。
止まっていた足を再度、前に進めて自転車を押していく。ハンドルのゴムグリップが妙にフィットする感覚を覚えながら、ぶつからないように間をかき分ける。
(まったく、このなかをするすると抜けていける有花をある意味、尊敬できるよ)
自転車を押していることを除いたとしても、有花のようにスムーズな足運びで歩いていくことはできそうになかった。それをいとも簡単にやってのける彼女に僕は再び苦笑を浮かべた。
既に有花は信号待ちでごった返す横断歩道の最前列に並んでいた。また、時刻を確認しているのか右目を覆って微動だにしない。多分、大声で名前を叫んでも応じないだろう。第一、そんなことする勇気はないし、勇気があったとしてもまずやらない。
よし、と軽く納得した頷きを見せた有花は右目の被せを解くと、数多の人間が行き交う中にいる僕を見つけ、破顔させながら手を振る。つられて僕も小さく手を振った。
ちょうどその時、信号は赤から青に変わり、有花は後方から来る人たちに押されて横断歩道へ飛び出る。直後、この団体の左手側にいた一人の女性が迫りくるそれに断末魔の叫びの如く悲鳴を上げた。
それは僕の位置からでも隻眼に映す事が出来た。右折してきた大型のトラックが渡り始めた人たちにスピードを緩めることなく向かっていく光景。僕の表情はまるで冷凍保存されたかのように固まった。そして、これが寒気の正体だったのかと悟った。
気づいたときには自転車を捨てて走り出していた。
(嘘だ、嘘だと言ってくれ! 誰か嘘だって……)
音高く共鳴したいくつもの悲鳴が僕に現実の出来事であることを深々と刻み込む。
その場から逃れていく人々が僕の前を邪魔するように通り過ぎていく。トラックは横転して道を断ち、塞がれた道路上に停車を迫られた運転手たちは惨状の中心へCCを起動させながら向かっていった。
視線は前方にあるものの、意識はそれ以上先の方へ伸びていたため、途中で僕は見知らぬ誰かと接触してバランスを崩す。混乱に呑まれた世界の中であるいは救助の手を差し伸べ、あるいは事故の身を案じてその場から逃げる人々。
僕は彼女の名前を呟きながら足を現場へと向けた。そんなわけがないと心の中で言い聞かせながら一歩、また一歩と踏みしめる。
横断歩道のところまで歩を進めてきた僕の眼に映ったのは、灰色のアスファルトではなく、赤褐色の液体が所々を染めている光景だった。衣服を真っ赤に染め、仄かに温かい土瀝青の上で横たわる無数の人間の姿だった。
この時、遠くから聞こえるサイレンも、何があったのかと駆け付ける野次馬の声も耳に入ってこなかった。目の前の凄惨さに五感の機能がうまく働かず、拒絶反応から呼吸が荒くなる。
口許を押さえ、驚愕を呈する人々の中を僕は力なき歩みで現場を一望できる前まで出る。そして、見開いた右目に映ったのは、僕と同じ学校に通っていると思われる制服を着た女の子と見覚えのあるスクールバッグ。ほんの二週間前にプレゼントしたチューリップのキーホルダーがそこには輝いていた。
呼吸を忘れ、脳内は白濁する。鼓動は大きく響くが、全身に血が通っていかない。次第に手足に痺れが来る。心が抉られたなんて表現が生易しく聞こえるほどの衝撃。襲いかかる吐き気。
「うわああああああああああああああああああああ――――――ッ!?」
絶叫と共に身体はそのショックに耐えきれず、意識を手放した僕はその場に倒れた。