終わりのハジマリ 2
「……夢か」
僕はうっすらと目を開け、そして小さく呟いた。だが、すぐに瞼を下ろす。
窓から差す淡い陽光が散らかった机の上のプリントに温もりを与え、朝露は葉の先端からするりと落ちる。外では悠々と飛び交う小鳥たちが素敵な調和に乗せ、就寝中の僕に夜明けと日の出を告げる。それでも僕は起き上がることはせず、小さな吐息と共に寝返りを打ち、浅い眠りを存分に堪能する。
しかし、小鳥とは別に一人、楽しい睡眠タイムを阻害し、夜明けと日の出を告げて起床を促す者がいた。徐々に大きくなる足音の後にその者は言った。
「光ちゃん、もぉ朝だよ。いい加減起きよーよ!」
僕の耳元を掠める鈴の音のような声が、まだ醒めぬ夢から現実へと引き戻そうとする。しかし、五月の早朝は二度寝に最適な気温を醸すので、そう簡単に安らぎの住処から這い出ようなどという考えは発生しない。
チラッと細めた眼でその方へ視線を向け、確認した後に僕は再び瞼で視界をシャットアウトして睡眠世界へと飛び立つ。
僕――月島光太郎の朝はいつも二度寝から始まる。陰湿な嫌がらせの逃避を目的に睡眠の世界に飛び込んだのはいいのだが、存外ドハマリしてしまい、今に至っては睡眠探求に勤しんでいる。
大方僕の頭の中は睡眠の事だけで、他のものへ充てられる脳内キャパシティーの程は、ごくわずかと言える。もっとも、学習能力が低いためか常人の遥か下方を行く能力偏差値をたたくものの、そこは気にしていない。寝ることに目覚めた僕に、睡眠とは縁もゆかりもない事柄を海馬に刻むのは無駄が多すぎる、と考えているからだ。
しかし、それをよしとしない人もいるわけで――
華奢な両手で布団にくるまる僕の右肩を掴み、ユサユサと左右に揺らして必死に起こそうとする一人の少女。チョコレート色の艶やかな髪を肩まで伸ばし、小さな輪郭を持つ顔。焦茶色の大きな隻眼は眼前の少年を捉えている。
小ぶりな鼻の下では、淡い紅色の薄い唇が彩りを添える。すらりとした細身の体を包む純白のワイシャツは昇り始めた日の光に照らされ、眩しい程に輝いている。膝より少し上あたりの丈の紺色スカートに黒地のハイソックスを履き、右隣には通学用のスクールバッグが置かれている。
彼女の名は高原有花。僕と同じ市内の中学校に通っている同級生。才色兼備の異名を持ち、部活で行っている陸上では短距離のエースとして大会で活躍し、学力と言えば校内で五指に入る成績を叩きだす天才。そして何より、高原有花は僕の彼女である。
「あ……あと五分……いや、あと三十分だけ……二度寝を」
僕は肩までかかった掛け布団を左手で掴み、頭がすっぽり隠れるようにすると、不明瞭かつ小言のような音量控えめな声で言った。その言葉を耳にするや有花は小さくため息をつき、左目を覆う黒の眼帯をそっと撫でるようにして手を伸ばした。
「二度寝なんか許しません。CCの表示時刻だともう八時になっちゃうんだよ。まあ、それでも起きないって言うんだったら恒例のアレ、やるけど?」
有花の顔が少し緩む。いや、嗜虐的に歪む、と言った方が正確かもしれない。それと同時に背筋に悪寒が走った。
有花の言う《アレ》とはビリビリ、つまり電気を流すということだ。
もちろん彼女は雷使いの異能者ではなく、ただの人間。方法はCCと呼ばれる代物と脳の機能を使う。
CCとはコンタクトレンズと同じ形状をした機械。その中にはコンピュータ機能が搭載されており、また、コンピュータ以外の用途――テレビや通話、学生やビジネスマンにとってはメモ書きの用のノート――をも保有している次世代型マシン。
回線やネット環境は不必要で、使用対象の脳の機能によって作動する優れ物。五感に関する障害を持つ人でも音声を聞き取れ、物を見ることが出来るのだ。とにかくCCに不可能はない。しかし、限界はあった。
例えば人間の身体能力の向上は図れない、ということ。具体的に言えば、真にCCが万能ならばそもそも僕は落ちこぼれを脱し、成績優秀で運動神経抜群の天才集団の一人としてなっていたはず、ということだ。
CCは脳の機能によって作動するため、歩けるようになっても足が速くなることはない。勉強ができる環境が確立されても、頭が良くなるわけではない。
つまり、CCは人間の身体能力向上の補助や手助けとなるマシンであるのだ。
話を戻すと、不可能はないがそれ個々に限界値が設けられているCCでは緊急時用で発電できるようになっている。災害時の停電などでよく使われている。しかし、違う用途で使う場合もある。
それが今回みたいな罰を与える的な状況の時だ。大まかに発電量の制限はあるが、喰らうと覚醒を通り越して永眠してしまうほどの威力はある。それを喰らったことのある僕には解る。悪魔の所業を楽しむ有花の怖い笑顔もよく知っている。
以上のことを起床から数分しか経たない頭で高速処理した僕は慌てて掛け布団を払いのけ、東の方角に口を開けた窓の隣に掛けられた学校指定の制服に急いで袖を通し、疾風の如く下へ続く階段を滑り降りた。
「もうあと二十分早くに起きてもらえると楽なんだけどなぁ」
数秒前と同じ静寂に包まれた部屋でボソッと呟いた有花は学校の用意がされていない僕のバックを手に取り、物で散乱している勉強机から二冊の教科書を取り出してその中に入れると、ゆっくりと階段へ向かった。
「ごちそうさま。まあ、行きたくないけど……行ってくるよ、母さん」
頭をポリポリ、口の中をモグモグさせながらリビングを出ると玄関では、既に靴を履いた有花がまだかまだかと言わんばかりの表情を滲ませていた。腕を組み、見るからにご機嫌が斜めなようだ。しかし、それもそのはずだ。
左目の眼帯の裏では現在時刻を八時八分とライトブルーで表示されている。
(うむ、これはかなりやばい)
そう思ったのは単純に自宅から学校までが徒歩二十分で、僕たちの通う学校の登校完了時刻が八時二十分ということ。時計は僕を待たずして勝手に、リズミカルに時を刻んでいる。
完全に苛立ちを露わにしている有花にはごめんなさいと謝罪しなければならなそうだ。
僕は申し訳ないと思いつつ、急いで自動開閉式のシューズラックから靴を取り出し、履こうとかがんだ。その時、僕の頭上が暗くなり、静かなる声が降り注いだ。
「もー待てないから先に行くね、今日体育あるし。走って行くから光ちゃんの自転車にコレ、入れてくね~。いい? 絶対に遅れないでよ!」
じゃあね、と言って左手で手を振った後、食器の洗いものを済ませてリビングから出てきた僕の母に気付いて一礼し、すぐさま走り出した。
「ちょ……」
ちょっと待ってよ、と言い切るより早くに有花は僕の視界から颯爽と姿を消した。
さすがだな、と感心しながらも僕は生じた遅れを取り返すべく、靴ひもをさっと結び、勢いよく外へ飛び出そうとした――
「あっ、待って光太郎。これとこれをお願いしてもいいかしら? いいわよね、ん?」
その時、行く手を妨害する声が僕の鼓膜を震わせた。僕の背後からそう尋ねかけてきたのは――というより僕の家族は二人しかいないので必然的に母であると解った。
黄色のエプロンを肩に掛ける母は右手に町内の回覧板、左手にはこれまた黄色の袋を持っていた。袋の中身は可燃物、つまりゴミを捨ててこいということである。これとこれ、の正体はいずれも僕の登校を妨害し、遅延させる代物だった。
(母には今の僕が立たされている状況を察知し、空気を読んでほしいものだ)
振り向いた僕は母に目掛けて睨みを利かせ、最上級の嫌悪を顔に記した。だが、一方の母もまた、外に出たくないと言わんばかりにグイグイとこちらに二物を押している。
時間的余裕を考慮すれば、ここは母が行くのがベストアンサーなのだが、いつもゴミ捨てと回覧板を回す役回りは僕であり、今日に限って「遅刻するからやっといて」なんて最近付いた寝坊癖スキルが一向に直らない僕が言えるわけもないので――。
「……うん、わかったよ」
逡巡しつつ回覧板とゴミ袋を受け取った僕は家の前に置かれた自転車のキーロック用暗証番号をタッチパネルに入力し、無造作に詰められたバックの入ったかごに重苦しいため息を吐いた後に、自転車のサドルにまたがった。