終わりのハジマリ 1
小さい頃に見た戦隊ヒーローのように僕も、正義の味方になりたかった。
悪に屈しない強さと誰にでも優しい精神を持った――そんな英雄に僕は憧れていた。
画面の中で迫力のある技を使って悪を倒し、正義を貫くその姿に胸を高鳴らせ、よく技名を叫びながら練習した。本心でなりたいと、なれるんだと思っていた。
しかし、現実は自分の思い通りにいくほど出来てはいなくて、中学生になった僕は幼少期に抱いた夢を半ば諦め、常に日陰の道を歩んでいくのだと確信していた。
勉強をやらせてみればロクな点数も取れず、教わった学習のアウトプット率は一割に満たない落ちこぼれ。学年最下位の成績を連続で取っている僕の存在は学校内で一種の伝説であり、唯一の汚点だっだ。
また、【頭が少々悪くても、スポーツ面では何かしらの天才的才能がある】というキャラクター像に当てはまることもなく、運動面の成績も平均点にすら届かない運動音痴。走らせればすぐにバテ、筋トレさせれば三日は筋肉痛が治まらない。何をやらせても結局、サッカーなどのチーム対抗戦では僕のいるチームは負けてしまい、後には罵詈雑言を浴びせられる。
正直言って僕はもう、学校には行きたくなかった。行けば行っただけ見下され、嘲笑の対象として見世物になる。それは程度が違う自傷行為だったから。そして何より、辛くて逃げたかった。
けれど、そのことを打ち明けた母には同意を得ることができず、逃げることより向き合いなさいの言葉のみが僕に送られた。
幼き頃の僕だったらこの問題に正面から立ち向かっていただろうが、今の僕は生き地獄から逃れるために授業も休み時間も机に突っ伏し、一切の情報を遮断して寝ることを選択した。
始めはとても快適だった。
自分だけの世界が構築され、そこに安らぎを感じられたから。どんな言葉も耳をすり抜けて行くだけで脳内に留まる事がなかったから――。
しかし、すぐにそんな心地よさは他者から伸びた魔の手によって握り潰され、呆気なく破壊した。
僕が寝ていて動かない事をいいように何人ものクラスメートはバケツに水を汲んで僕に被せ、反応を見るやケタケタと笑いこけた。ある時は何の罪もないのに暴行を受けた。犯人として奉り立てられた。終いには昼休みの時間に僕のあだ名をクラス公認で選抜し、醜く歯がゆいあだ名――ダメコウを永遠と叫ばれた。
これがいじめであると確信はあった。対応策を講じようとすればいくらでも機会はあった。けれど、僕にはその一歩が踏み出せなかった。恐怖心もそうだが、どこかで諦めていたからかもしれない。――幼き頃に見た夢も今の自分も、何もかも全てに。
だがどんな時でも、僕の横を歩いてくれる人がいた。他とは違う、優しい笑みを見せてくれる人がいた。彼女が――有花がいつもいてくれたおかげで少しだけ日陰の道を脱することが出来た。
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どんよりとした空模様の中、いつもの通学路を行く途中で雨はぽつぽつと降り始めた。透明の傘を天に衝き刺し、疎らな雨粒を乗せながら歩く僕はふと気がつく。
視線の先では前方でしゃがみ、すすり泣いている小さな女の子。僕はその足を急がせ、駆け寄った。
「どうかしたの?」
僕は目線を同じくして少女に優しく語りかける。
見れば転んだのだろうか、左の膝が擦りむけ、うっすらと血が滲んでいる。僕はおもむろに手に持つスクールバッグの中から一つの絆創膏を取り出すと、少女の傷口に処置を施す。
「よし! これで大丈夫だよ」
少女の頭を優しく撫でる僕。すると、今まで泣いていた少女は目頭に残った涙を拭き去り、二度三度頷いた。
「うん、ありがとう。お兄ちゃん」
「はい、どういたしまして」
柔らかく笑顔を見せた少女に同じく笑顔で返した僕は少女の背中を見送ると、しゃがんでいた体勢を戻し、すぐそばにある中学校に向けて再び歩き出した。正直言って一歩が重たい。
それはいつもの事だが、特に今日は鉛を足枷にしているのでは、と思ってしまうほど。理由はすぐに明らかとなる。
小雨の朝、徒歩二十分の距離から登校し終えた僕は下駄箱を前に深くため息をついた。重く、呆れるといった意味合いを含んだため息を盛大に一回。 なぜならば僕の下駄箱には学校指定の内履きが入っていなかったからだ。
別段、昨日僕がどこかで履き捨てたわけでも、他人の下駄箱に誤って内履きを入れてしまったわけではない。こんな小学生じみた陰湿な嫌がらせは日常茶飯事のため、そう驚くことではないがやはり、内履きがないはないで不便である。
「何でこう、嫌がらせをする人たちは飽きないのだろうか」
嫌がらせ。いじめとどう違うのかと問われれば、僕はすぐさま同じだと答える。
かれこれこんな質の低い嫌がらせは一年以上続いている。根気強いといえば褒め言葉くらいにはなると思うが、彼らにとっては僕の苦しむ姿こそ褒賞に値する。
もう一度ため息を吐いた僕は下駄箱の前を後にし、少し茶色く汚れた白の靴下を引きずりながら校舎二階にある二年生教室へと向かった。途中、足元を気にしながら灰色の階段を上り、数人が集まる踊り場を左折して教室の前に到達する。
一見何の変哲もないただのスライドドアであるが、毎度毎度の彼らの事だから何か一発、場が盛り上がるようなサプライズを用意しているはずだ。ただ、そのサプライズを受ける側である僕が嬉しいと思うようなモノなど用意されているはずはない。
呼吸を整え、ドアを横に引いた瞬間、ガシャン! という金属音と共に僕の視界は一瞬で白に染まった。しかし、それは数秒も経たずに霞み始め、やがて背景は元の色彩を取り戻していた。状況を理解するに至ったのは仕掛けた彼らが腹を抱えて笑うのと同時だった。
ゆっくりと目線を下げ、手のひらを覗きこむ。そこには血色のいい肌色ではなく、舞妓さんの肌のような白色があった。よくよく見てみるとそれは少し堆積していた。
(ああ、なるほど。この白い粉はチョークなのかな)
粉末状のそれがチョークと知った僕は踵を返し、すぐそばにある洗面台へ向かおうとした。なにせ、この格好で授業に出るわけにもいかないわけで、頭くらいは落とそうと思ったからだ。
しかし、それより先に僕の前を通り過ぎようとした一人の女子生徒が目を丸くして近づき、言った。
「えッ!! どうしたの、光ちゃん!? これどういうこと?」
「ああ、有花か。うん、ちょっとね。白チョークを頭から被っただけだよ」
「頭から被っただけ、ってそんなの普通、ないんだよ? また光ちゃんのクラスの人がやったんでしょ? 私、先生に言ってくるよ!」
たとえ先生に報告したところで何も変わらない事はこの一年間が物語っている。しかし、そのことを知っている僕は制止しようとするも言葉が出ず、結果無意味な事に彼女を走らせてしまった。
「おーおーいいねぇ~、ダメコウ。可愛い女の子に心配されて。ぼくぅ、シットしちゃうかも」
「あっははは、俺もダメコウの才色兼備チャンに介抱されてぇよ」
「オイ、お前にはあたしがいんだろ?」
「いやぁ~、正直お前には品ってもんがカケラも見当たらねーよ」
爆笑の渦が僕の教室中を席巻し、それはやがて僕のみが見える地獄絵図に変わった。
もうここにはいられない、そう直感で察した。いずれ精神が崩壊し、僕が僕でなくなる。
僕は真っ白になった下唇を噛み、俯いて右手を震わせるほど強く握ると、彼らに背を向けたまま階段の方へと駆けだした。
本当は悔しくて堪らなかった。今すぐ内に堆積した屈辱を吐き出したかった。今まで耐えてきた日常は何だったのか、僕にはもう解らなかった。
クラスメートは玩具として僕を扱い、教職員の先生は僕をいない存在として見てきた。必死に訴えかけてもだれも動いてくれない。なら、敵だらけのところに僕がいる意味なんかあるのだろうか、そう思うと足は止まらなかった。
一日の始まりに笑う生徒の中を抜け、階段を滑るようにして降りるとそのまま正面玄関にある下駄箱から外履きを鷲掴み、靴のかかとを潰しながら再度走り始めた。
「……光ちゃん? ねぇ、待って光ちゃん!!」
教務室から少々呆れたように出てきた有花は、僕を見つけるや否や声を大きくして止めようとしてくれたが、今の僕には言葉が耳を通らなかった。一心不乱にクラスメートから、教職員の先生から、そして学校から逃げるようにしていた僕には何も響くことはなかった。
しかし、運動系全般で能力値の乏しい僕が長距離を全力で走れるわけもなく、学校の姿が未だはっきりと見える近場でダウンしてしまい、荒くなった呼吸を膝に手をついて落ち着かせた。
(もう何もかもどうでもいい。早くこの地獄から抜け出したい)
左手側のコンクリート塀に背中を預け、広く明るい大空ではなく狭く暗い自分の影に視線を落とし、ネガティブな思考を展開させた。もう生きている価値すら見出すことが出来なくなっていた僕は、自分が醜く弱いことを真に自覚した。
「もう、いなくなってしまいたい。死ねたらどれだけ、楽に……」
「……死のうだなんて言わないでッ!!」
無意識のうちに出た言葉を即座に反駁したのは、先程の僕同様に膝に手を当てて荒い呼吸を上げる有花だった。いつの間に現れたのか、と一瞬驚いて顔を上げるが、すぐに俯く。
「だって、僕にはこの世界は残酷すぎる。誰も味方じゃないこんな世界で生きている価値なんて僕は見出せない」
「……そう、だね。光ちゃんの言う通り、この世界は残酷だよ。私たちが望んだわけじゃないのにこんなものを装着させたり、光ちゃんが理不尽な嫌がらせを受けたりするこんな世界はおかしいよ。……でもね、味方はここにいるよ。私は光ちゃんの味方なんだよ?」
眼帯で隠された左目に手を翳し、静かに涙を流す有花は両膝をつき、右手で僕の頬を撫でた。
「ねぇ、光ちゃん、約束して。私を護ってよ」
「え?」
意図しない有花の言葉に弱々しい声が漏れ、視線が上がった。
「私も光ちゃんを護るから……護っていくから、お願い……死なないで。……死ぬなんて言わないで」
安らぐ何かが心の中に溢れだし、直後に頬を温もりが通過する。言い表せないこの感情は一体なんだろうか。懐かしくもあり、温かくもあるこの感情は。
「ごめん……ごめん、有花」
僕はこの時、彼女を護ると心に誓った。いつも味方でいてくれた彼女を護り切ると強く思った。自分だけが苦しんでいると感じていたが、有花だって思いを同じくしてくれた。そのことに僕は恩返しをしなければいけない。だから、いつまでも僕が彼女を護ってみせる。
けれど、僕のいるこの世界は僕が決意を新たにしても変わらず、降りが強くなる雨を前にしても、残酷だった。