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苦手な方はご注意ください。

洗語笨朶の粗方語り

作者: 桜椛

 僕こと洗語笨朶(あらかたあらた)が、何故に『洗語笨朶』として確立したのかを粗方に語ろう。


 と言っても、物理的な出生の話を語るとかそういうことではなく、僕が『僕』になった話をしようと思う。



 まぁ何故そんな話をする必要があるのかと問われれば、これが僕の物語だからだ。


 そしてその上で避けて通れないのが、あの女の話だろう。あの女、唖廼斯黙(おしのかもく)との出会いについて話さざるを得ない。出来ることならばあの女のことなど思い返したくもないのだが、やはりどうしようもなく話さざるを得ない。




 

 出会いは4月、高校の入学式のことだった。僕は嘗てこれほどまでに強烈的な出会いをしたのは初めてのことだろう。きっとこれから先もあれほど以上の出会いは望めないほどにだ。

 

 別に望んでもいないんだが。









 中学を卒業した私は、心晴れやかに、気持ち新たに高校の入学式を待ち望んでいた。

 新しい制服、新しい環境、新しい友人。私は嘗てこれほどまでにすっきりとした気分で朝を迎えたことがあっただろうか。いやない(反語)

 しかしそれと同時に、嘗てこれほどまでに困惑した気分で朝を迎えたことが無かった。



 私の住む街は特筆して語るべきところは無い。強いて言うならば、夕昏(ゆうぐれ)町という名前で、それに見合うくらい夕暮れが綺麗だと言うことだ。

 そんな町にある日出(ひので)高校に、私は進学を決めた。

 学業知名度共に普通クラスの、つまらない高校である。しかし、私にはその『つまらない』に居心地を感じた。

 将来の夢があるわけではない。ただ漠然と大人になり生きて行くのだと思っていたからだ。

 だから苦労して進学校など行く必要も無いし、普通程度に普通に生きて行こうと思っていた。

 そう、私は普通を好む普通人間なのである。普通以外の何者でもない、普通の人間。

 得意なこともなく、苦手なことなら人並みに。普通で、つまらない人間であると言える。



 しかし、私はその普通に疑問も抱かなければ、不幸だと思ったことも無い。なんせ皆そうだからだ。

 皆と言うのは、あくまで大多数の人間と言う意味で、本当に『皆』ってわけではない。

 だけど大多数の人間がそうであるならば、今更自分自身の『普通』具合に疑問を抱く必要などないに等しい。

 そう、それこそが『普通』なのである。普通であることが普通で、そこから逸してる人間は普通じゃないと枠から外されてしまう。

 仲間意識を持つ人間にとって、『普通』でいられることは幸福なことなのだ。私が普通でいられるだけ、人間として普通に幸せだ、そう言える。

 だけど私は、この日、街に夕暮れが訪れるその時、普通でいられなくなるのだが、当然そんなことは信じえもしない出来事であった。







 

 楽しみに待っていた入学式、家でにこにことパンをかじっていたせいか、今から行っても時間ぎりぎりになってしまった。

 そのため、一昔、二昔前の少女漫画よろしく、パンを口に咥えて家を飛び出した。

 朝の住宅街は、ランニングをしているおばさまや、犬の散歩をしている方が多く、パンを咥えて走る少女に一瞥もくれない。

 私にとってはそれは嬉しい限りだけどね。流石に今の状況は恥ずかしい。

 どうせならいっそ、曲がり角でイケメンとぶつかってくれればいいのに、とか考えていたところ、何かを足を躓かせて派手に転んだ。



 そう、少女漫画の出会いなんか霞むほど、私はこの時今までで一番衝撃的な出会いを果たした。

 それと同時、これが全ての始まりでもあった。




 顔から着地した私は、パンと一緒に舌を噛んでしまう。涙目になりながら何に躓いたのかを振り向くと、私の視界におかしなものが飛び込んでくる。

 唖然。とはこのことをいうのかもしれない。初めて身を持って体験した。



「おっとすまんね。まさか人が通るとは。にしてもちゃんと足元は見たほうがいいぞ? だからそのように顔面からすっころぶ。それとも分かった上で突っ込んだのかな? もしかして君はそんな面白リアクション芸人のような魂でも刷り込まれているのかな? だとしてもうら若き乙女がそのように体を張るのはあまり褒められたことではないな。もう少し、自分の体を大事にした方がいい。あぁ、その調子なら君はもう処女を卒業しているのか。体を大事にしない女はあまり好かれないぞ」



 長々と一度もつかえることなく質問を投げかけ、答えてもいないのに話を進める変な女が、変な場所から声を掛けていた。



「おや、何故にだんまりを決め込んでいる? あぁ、もしかして喋れない人だったのか。喋れない人って耳が聞こえないからなんだよな……ふぅむ困った。さしもの僕も手話は習得していないぞ。どうしたものか。生憎今手元には書き物もない。となると、私は今ただの変人として君に見られている訳か。本当にそうなのかも確かめられないため少し物寂しい気はしなくもないがな」



 女は眉根を下げて、如何にも真剣に悩んでいるようだ。

 いやいや待て。何だ、この状況は何なんだ? いや、パン咥えてずっこけた私が言うのもなんだけど本当に何だ?

 いきなり現われたこの女(?)、こっちのことなどおかまいなしにぺらぺらぺらぺらとあぁでもこうでもないと唸っている。

 いやまだ、それだけならここまで奇怪に思わなかっただろう。



「これを機に手話を覚えてみるのもいいかもしれんな……とにかく今は通報されないように逃げておいた方がいいか? いや待てよ、言葉が話せない少女に警察に通報するという手段が思いつくだろうか? 仮に思いついたとしてもどうやって説明を? ふむ。見たところノートの類は持っていそうだが……」



 そこで女と目が合う。

 黒のセミロングから覗く長い睫毛。その瞳は闇夜にも似た輝きを放ち、私の心を離さなかった。

 彼女の醸し出す雰囲気は独特で、誰もがそれに呑みこまれるようだ。

 相手のペースなど関係ない。全て自分の色に染めるだけの、強引な感じがした。

 しかし何故だかこの女の人からは生気を感じられなかった。髪も、目も、着ているものすら全てが黒。

 まるで喪服を着ているかのような沈鬱な印象を受ける。

 っていうかその服──



「ん? その制服は僕の高校のじゃないか。うーん全校生徒の名前と生年月日、趣味から秘密にしていることまで知っている僕でさえ知らない人間がいようとは……どういうことだ? 君はどこまでも僕の心を乱してくれるな。予想外の行動ばかりを起こす。うん、少し興味が湧いて来たぞ。あぁ……嘆かわしいのは君には僕の声が届かず、喋ることも叶わないと言うことだろう。何故君ほどの人材がそんな不幸な一途をたどらなければいけないのか」



 芝居がかった動きで落胆を示す女は、私と同じ制服を身に包んでいた。

 だけど私よりは、その雰囲気もさることながら、私よりも大人びて見えた。いや、通常の高校生よりも大分大人びて見えていた。

 だとしても今この場に制服を着て現われたと言うことは、日出高校の入学式に────



「あ!──遅刻しそうだったんだ!!」



 取敢えず目の前の変な女は放っておこう。この人が入学式に遅れようと、私には関係ない。

 普通を好む私にとって、入学初日から遅れるというのは致命的な事案である。

 だから私は、目の前の疑問をぐっと飲み込んで足を踏み出した。





 マンホールから這い出てきた女のことなぞ、今は気にしている場合じゃない。








 

 『第73回 日出高校入学式』と書かれた看板が置かれている校門をくぐり、案内に従っていく。

 どうやらなんとか間に合ったらしく、同じく新入生であろう人達がちらほらと見えている。

 ホッと安心した私は、校庭の端にある、すごく大きな、存在感を放っている桜の木に目を魅かれた。

 淡く薄く、日の光を浴びて輝きを放って散っている桜の花びら。まるで私達を祝福するかのように散るその姿は、とても儚げであり美しかった。

 私はそれに感謝をしつつ、これからの高校生活を『普通』に過ごせるように願うのであった。








 平穏無事に、恙無く入学式を終えた私は、明日からの高校生活に備えて今日は帰ろうと軽く背伸びをする。

 まだお昼を過ぎる前で、ちょっと小腹が空いたかなって感じで家に帰るしかない。

 つい数時間前に家を出たばかりだと言うのにもう家に帰らなければいけないと言うのは何だか少しだけ気が引けるのだが、だからと言って今ここにいても仕方がないと言うのも事実だ。

 

 と、一歩足を踏み出そうとしたその瞬間、後ろ髪を引かれるような感覚を覚えた。


 何でなのか分からない。ただ私はこの時、今ここから帰ってはいけない。そう思ってしまったのだ。

 踏み込もうとした足をそのまま180度反転させ、何処へか分からないまま校舎へと向かった。


 私はこの時、大人しく家に帰っていればよかったのだ。そうしていれば、後に人生を狂わせる必要など、『普通』でいられなくなる必要は無かったのだ。








 入学式が行われた体育館は、校舎とは分かたれている。俗に言う別館と言うところにある。そことは渡り廊下で繋がっていて、今はまだ新入生とその親と、多分教師らしき人がいる。

 そこを通りぬけるのはあまりよくない。一人でいるのがバレれば、早く帰れと言われてしまうかもしれないからだ。

 ならばそこを避けて通って行こう。校舎の壁に背を預け、ちらと覗いてから別のルートを探そうとする。

 本当に何でこんなことをしているのか、自分自身も分からない。私は今、もしかしたら『普通』を逸した行動をしているのではなかろうか?

 普通を好んで普通に生きてきたのに、今普通から離れた行動を起こしている。それは私からしたら自分の信条に背く行為と他ならない。

 だというのにやめられない。大人しく家に帰れない。何故か、この学校から離れられない。


 それはこの学校にそんな魅力があるからなのか、そんな事は分からない。分からないうちに私は今こんなとこにいた。



 ──────屋上だ。



 


 何故鍵が開いていたのだろう。何故誰にもばれずに校舎内を移動できたのだろう。入学式で在校生はいないだろうけど、教師は体育館だけでなく校舎内にもいるはずなのだ。

 だというのに私は誰にもばれずに、誰にも会わずにこの屋上へと辿りついて見せた。

 何故屋上に来たのかは私にも分からない。さっきから自分自身の行動に疑問を感じざるを得ない。

 とはいえここに来たのだから何かしらあるはず。というか学校の屋上なんてそうそう来れるものではない。だから私は、ちょっと見て回ろうと屋上をうろうろしはじめたのだ。



 高い柵で囲まれた屋上からは、この夕昏町が一望できるようだ。夕方に来れば、それは夕昏町にふさわしい綺麗な景色が一望できることだろう。

 と、そこで柵へ近づき、校庭を見る。

 上から見ても、校庭にある大きい桜は綺麗で、その荘厳さが伝わってくる。

 

 綺麗…………中々上から桜を見るなんてないもんね。貴重だわ。


 風に舞う桜の花は、ひらひらと移ろいながら地面へと伏せる。生徒と親たちが、その桜を見ながら場を後にする。

 柵網に手を掛けながら、ふむと唸ってその親子のことを眺める。

 

 何だろう……胸が苦しい……。


 胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚がしたその時、そよ風のような声が私の耳に届いた。

 


「おやおや、君は今朝のじゃないか。そう言えば言葉を喋れるんだったな。喋れると言うことは耳も正常。ならば私の声はちゃんとこうやって届いているわけだよな? だったら少し私と話をしようではないか。入学式が終わった後だと言うのに、こんなところにいるのは帰りたくないからだろう? それともここに用があったとでも? いや、それはないな。初めて訪れた場所に、そんな明確な意味を持つなどそうそうない。だから君は今、ただの時間つぶし、又は何かしらの理由でここにいるのだろう」



 げ……今朝マンホールの中にいた変な女じゃん。

 

 まるで機関銃が如く吐き出される言葉の弾丸に、私は嫌気が差しながら振り返る。

 するとそこには、全体像が露わになった、マンホール女がいた。

 黒い髪の毛は綺麗に手入れをされており、艶やかに輝いている。長い睫毛から覗く瞳はまさに漆黒。生気と言う者を感じないそれは、彼女から妖しい雰囲気を放っており、目を離すことができない。

 肌も色白く、その奇妙さがより一層生気を奪っているように見える。

 

 疑問は絶えなかった。聞きたいこともいっぱいあった。だけど、その前に畳みかけるかのように、目の前の女は喋り出した。



「ふぅむ。君はもしかして無口なのかい? 今朝から一度も僕と口をきいてくれない。僕も名前にふさわしく割と無口なほう……あぁ、僕の名前は唖廼斯黙(おしのかもく)だ。『かもく』と言うだけあってこれでも無口なほうだと思っているんだが、君のそれは無口にもほどがあるな……本当に口がきけないんだとばかり思ってしまったぞ。さぁ、君が喋れると言うのならその証拠のために僕と会話をしようではないか。時間を潰すために此処にいるのだろう? お互いの利害は一致していると思うのだが」



 それだけ勝手に喋られては、喋れるものも喋れないと言うことをこの女は理解できないのだろうか。

 第一私は、マンホールなんかに入っていた変人女と言葉をかわしたいなどとは思わない訳で……



「えっと……私の名前は洗語笨朶(あらかたあらた)です。今日からこの日出高校に入学することになりました。……よろしくお願いします」



 相手に名乗られた以上はこちらも名乗らなければいけない。それが日本人としての『普通』だろう。

 そして私と同じ、日出高校の制服を着ていることと、朝あんなところで出会ったことから、この人は日出高校の在校生と言うことに他ならない。

 つまりは先輩。であるならば挨拶くらいするのが当然。


 だからしただけだと言うのに、唖廼斯黙と名乗った女は、その顔に喜びと言う感情をべったりとくっつけた。



「なるほどなるほど! 君は洗語笨朶というのか! にしても良かった。ちゃんと喋れるということを再認識できて安心したよ」



 一息で三行以上喋っていた彼女が、珍しく言葉を止めたのを、私は不安になって様子を伺った。

 すると唖廼という女は、薄気味の悪い感じでくつくつと笑っていたのだ。

 え、何。気持ち悪い。

 素直な感想を胸の内に留めて、私は少しだけ彼女から距離を置く。



「いや何、『語る者』と『黙る者』とは中々面白いと思ってね。そう不審がらないでくれ。こう見えても私は小心者なんだ。距離を置かれると言うのは少しばかり傷つくものがある」



 唖廼は肩を竦めているが、その顔は笑顔で全く態度と合っていなかった。

 というか語る者とか黙る者とか何の話だろうか。確かに私の漢字の中に語るという字は入っているが、私は名乗っただけで漢字までを教えた覚えはない。

 


「ところで洗語笨朶さん。君はどうしてこの学校に来たのかな?」

「え?」



 小首を傾げられてされた質問に思わず声を漏らす。この人の行動と言動はいまいち意味が分からない。

 意味を求めようとする方が無駄なのかもしれないと思い始めるほどにはだ。



「い、いやそれはここが地元で一番近かったし、学力も評判も普通だったから……」



 嘘は言っていない。それが理由で私はこの学校に入学した。第一高校を選ぶ理由なんてそんなものでいいはずだ。

 第一何故そんなことを初対面の人間に聞かれなきゃいけないのだ。先輩だから、と言われればそれまでだが。

 

 

「果たしてそれは本当に自分の意志なのかな?」



 口を弧に描くと、唖廼はゆらりと体を揺らして私の目を見据える。

 仄暗い水の底のような、光の灯ってない濁った目が、私をそこへ引きずり込むかのようだった。



「ど、どういう意味ですか?」



 唖廼さんは腕を組むと、愉快そうに笑みを浮かべながら弾丸を発した。



「君は本当にそれを理由にここに来たのだろうかと言うことだよ。地元で学力も評判も普通だったからここに来た。それは君の意志ではなく、そうする他なかったからじゃないのか? いや違うな。君はそれ以外の方法を考えようともしなかった。これは思考放棄だよ。普通にあこがれて普通に過ごしてきた君は、きっとこれからも普通を理由に生活をするのだろう。しかしだからこそそれは普通と言う言葉に甘んじた唯の思考放棄というわけさ」



 なっ──そんなことは……と、否定することができなかった。

 唖廼さんが言っていることが本当かもしれないと私の心のどこかで思ってしまったからだ。

 唖廼さんにその考えが伝わってしまったのか、より一層含みのある笑みを浮かべると、ビシッと指をこちらへと差してきた。



「ほら、図星だろう? なんせ考える必要がないからね。普通にしていれば生きていける。何不自由なく生きていける。スリルもリスクも何も無いが、平和を安穏と過ごすにはそれが一番の選択だと僕も思うよ。つまりは君の選択は何一つ間違ってはいない。しかし、僕が言いたいのは君のそれが自分の考えによって行動したと思いこんでしまっていることの間違いだ。自分の意志とはおもいつつも、それは人と言う集合体の上に形成された意志によって動かされていただけなんだよ」



 唖廼さんはそう言うや否や、柵へと近寄り、肘で体を支える。

 コツコツコツと一定のリズムで片足だけを地面へと鳴らすと、唖廼さんは風に髪の毛を揺らしながら、夕焼けを全面に受けてある一点を見つめて────夕焼け?



 そこで私は自身の目を疑うように、唖廼さんの隣へと駆け寄り空を見つめた。

 そこには、オレンジ色に輝く美しい夕焼けが空を彩っていたのだ。



 え、待って。待って待って待って。落ちつけ私……先ほどまでの状況を思い出すのだ。

 

 入学式を終えた私は、御昼前と言うこともあって、このまま帰るのは気が引けると校舎に忍び込んだ。

 そうして気付いたら屋上にいて、時間を潰そうかと思っていたらこのマンホール女こと唖廼斯黙(おしのかもく)が現われた。

 そうして訳の分からないことばかりを話されて、少々うんざりしていたところ…………空には綺麗な夕焼けが。



「ど、どどどどういうことぉー!?」



 え!? だって待ってってば。さっきは昼前で、唖廼さんと話してまだ10分も経ってない……え? どういうことなの!?



「はは。まぁまぁ落ちつきたまえ洗語笨朶君。正直僕としては何故驚いているのかを問いたいところだけど、その質問をしたところで君はまだ答えられないのだろう? だから狼狽している。分かりやすく、()()()とした態度でね」



 薄ら笑う唖廼さんはとても楽しそうで、それでいて何処か悲しげであった。

 というか今なんて言った?

 と、目の前のマンホール女にさらなる懐疑を抱きながら首を傾げたその時──校庭から獣のような唸り声が響き渡った。



 何事かと目を向けると、校庭の真ん中にある大きな桜の木……その下に、まるでゲームに出てくるかのような化け物が咆哮していた。



「え、……何あれ……」



 ライオンとも狼とも、馬とも言えないその姿。ただ形容するなら化け物。それ以外の言葉で言い表せない存在がそこにはいたのだ。



「やはり君にはあれが視えているんだね。まぁ当然といえば当然かな。逆に何故今まで視えてなかったのか不思議なくらいだ。それともあれかな? 視えないようにしていただけかな? 僕と出会ったことでその蓋が外れた……そう考えるのが自然か」



 隣では意味の分からないことを言われてるし、校庭では化け物が今にも桜の木へその鋭く伸びた詰めを突き立てようとしているし……!

 ど、どうしたらいいんだろう? まずは先生に知らせる……? あぁでもそんなことしたところで解決しないよ! 警察? でもどうしようもないよね……え、打つ手なし? 



「ふっ……この状況でもまだ君は思い出さないようだね。だけどあともう少し、といったところかな? じゃあ僕が少しばかし後押しをしてあげよう。さぁ、この程度で意識を飛ばすなよ」



 唖廼さんはそう言うと、私の腰に手を回して柵へ足を掛け──えっ!?

 直後襲い来る浮遊感。

 夕暮れに染まった空へ飛び込むように、私は地面へ向けて一気に落下した。



「わ、わぁぁあぁあああああああああっ!?」



「ははっ。口を閉じてないと舌を噛むぞ。まぁ君がこのまま舌を噛み切り死にたいというのであれば止めはしないが。尤、君がそんなことで死ねたら苦労しないんだろうがな」



 またわけのわからないことをぉぉぉぉおおおっ!?!?


 息を吸ったその瞬間、唖廼さんの足が地面へと着地した。その衝撃が私にも伝わり、多分端から見たら糸が切れた人形のように綺麗にくの字に折れてたと思う、うん。

 命綱なしのフリーフォールを終えたため、一息つきたいと唖廼さんの手から逃れる前に、何も言わずこの人は手を放してきた。

 お陰で私は顔面から校庭へと激突しましたよ、ええ。

 地面が砂のため、口の中にも少し入ったし。ぺっぺっ!



「さぁ、君の記憶の欠片を正しい一つの形と成そう。そのためにはまず、あれを見給えよ洗語笨朶君」



 屋上から校庭に飛び降りたくせに顔色一つ変えてないってどういうこと!? この死人のような白い肌に儚げで今にも消えそうな雰囲気もあってか、本当は唖廼さんは人間じゃないんだろうかと馬鹿馬鹿しいとも思える思考が頭を占領した。

そして唖廼さんが指さすその先へ視線を向けると…異形が君臨していた。



「ヒッ……!」



 改めて近くで見ても分からない。この存在が一体なんなのかを。

 オレンジに染まる夕暮れの校庭に、闇のように暗き異形がその存在を誇示するかのように咆哮をあげる。

 ビリビリと肌を引き裂かれんばかりの勢い。まるで地が、天がそれに呼応するように胎動している。

 恐怖で体が動かない。目の前の現実を否定したいという気持ちはあるものの、この恐怖心は確かに異形の姿を認識している証拠。



「どうかね? ここまで来てみても君は気づかないのかね?」



 唖廼さんは化け物を前にしても愉し気に笑っているだけだ。

 気づく? 気づくって何? 

 唖廼さんの言うことがさっぱりわからない。首を傾げ乍ら唖廼さんを見ると、薄い唇を微かにニッと上げた。



「ならば君に説明をしようか。あれのね」



 あれ、と呼ばれた化け物は、鋭い爪と牙を覗かせ、獰猛な紅い眼を覗かせ乍らこちらの様子を伺っている……ように見える。



 ふうと軽く息を吐いた唖廼さんは、堰を切ったかのように言葉を放つ。



「あれは 空魔ディメンションイーター。その名の通り、空間を喰らう化け物だ。あの化け物が喰らった空間は、文字通り消える。存在が消滅すると言ったほうが正しいのかな? あいつらは街に夕暮れが訪れてから日が昇るまでの間、どこからともなく湧き出ては自身たちの食料である空間を喰らっている。まぁ何、食物連鎖という奴だね。奴らだって生きていたいのさ。空間を喰らって存在を消すだなんて酷いだなんて思っただろうけど、仕方がないことさ。僕らだって生きていくために牛や魚などの動物を殺して食べるだろう? 空魔(やつら)にとっては『空間』はそれと同等の価値というわけさ──」



 待って、待って。

 まだ物足りないといった感じで口を開こうとした唖廼さんへ制止をかける。

 黒く濁った目が珍しく表情を見せた。



「何だ、君が記憶を呼び起こすためには説明が必要だろう? そのための説明はまだ終わってはいないだが……それとも何か? もしかして今ので思い出したか! 君が何者なのかを!!」



 これは喜んでいるのだろうか……相変わらず一人で暴走する人だと思った。

 


「い、いやだからあの……何から何までさっっっっぱり分かりません! なんですか空間を喰らう化け物って!? 知りませんよそんなの!! いつからそんな漫画みたいなびっくり奇想天外空間になったんですか此処は!!」



「いつからという質問に答えるのならば、日が暮れた時からだな。言っただろう?  空魔ディメンションイーターは夕暮れが訪れてから湧き出てくると。まさか聞いてなかったわけではあるまい」



 本気で疑問を持たれている。え、何? 私がおかしいの? 普通どう考えてもこの人の方がおかしいよね?

 何いきなりディメンションイーターとかなんとか言い出してんの? 頭湧いちゃってるのかなこの人、はははきっとそうだよね、そうに違いない────私の思考を遮るように、化け物の咆哮が轟いた。



「うわぁああああん嘘じゃないぃいいいいい!!」



 現実を突きつけられて思わず唖廼さんを盾にするように後ろへ回り込んで隠れる。



「とかいいつつ僕の後ろに隠れるということは、ちゃんとあれを認識し、僕の話を信じたということで相違ないね? うん。そこまでの確認ができたのならばあとはもう少しだ。説明を続けようか」



 唖廼さんは首を回して顔だけを私に向けている。いや、説明とかいいんであれをどうにかしてくださいってば!!



「空間を喰らう化け物…… 空魔ディメンションイーター。そいつが喰らった空間は存在を消される。しかし、奴らは空間という存在は喰えても、その空間の時間までは喰えない」



「空間の……時間……?」



 思わず唖廼さんの制服の袖をぎゅっと掴む。



「あぁ。空間という存在を喰うということは……わかりやすく目の前の桜。こんなにも大きな桜の木、柵のも一苦労だろうね。この桜をあの 空魔ディメンションイーターが喰らったとする。そうすると、この桜は端からこの日出高校の校庭には存在しなかったということになる。だけどこの桜、生命である限りはその存在だけでなく、時間というものが存在するよね? 寿命という時間が」



 なんかさらっととんでもないことを言わなかった?



「じゃあその喰われなかった時間は一体何処へ行くと思う?」



 唖廼さんは手を桜へ向けて私に微笑みかける。

 知らない。意味が分からない。理解ができない。興味がない。

 私は端から、そんなことはどうでもいい。

 いいから早くあれをどうにかしてくれ。



「まぁまぁ、そう焦るな。 空魔ディメンションイーターからしたら空間を喰うというだけあってそれは我々の食事という行為と同じなんだよ。きっとここに現れたのも、この桜を食べるため……これほど大きく綺麗な桜だ、それはもうこいつらにとっては至高のデザートであるだろう。つまり、これに手を付けるまでには少し時間はあるだろうって話さ」



「そこで話を戻すが、喰われなかった時間というものは、喰われてしまった空間に留まり続けるんだよ……そう、宛ら地縛霊のようにね」



 地縛霊……何故だかその言葉がやけに私の心に刺さった。腑に落ちたという言葉が正しいだろうか。

 何故腑に落ちているのだろうか。おかしいじゃないか。

 だけど駄目、考えても全く分からない。

 あれ……、なんだろう……頭が痛くなってきた。



「おや? 今ので少し記憶の蓋が開きかけたかな? うん。それじゃあもうひと押しで君は全て思い出すだろうね。いや寧ろ開きかけたことにより段々思い出していくかな? うん、だけどやっぱり、その事実を知るには衝撃が必要かもね。やはりここは僕の口から語らせてもらおう」



 唖廼さんが何かを言っているような気がする。だけど頭が痛くて、聞こえてはいても聴こえてはいないというやつだ。

 


「では君に質問だ。空間を喰らう化け物 空魔ディメンションイーター。彼の者は空間を食料として生きている。では、空間を奪われた存在は一体どうやって生きていると思う?」



 唖廼さんは不敵な薄い笑みを浮かべると、すっと一歩足を踏み出した。

 そうして確実に歩を進め、 空魔ディメンションイーターと呼ばれる化け物に近づいていく。

 


「さぁ化け物! 僕に供物を捧げ給え! 貴様らの存在価値は、その程度しかないだろう!!」



 初めて見せる唖廼さんの嬉々とした声、その顔は無表情のままであってほしい。

 唖廼さんは化け物にかかるように地を蹴り駆け出した。

 化け物もそれに応えるように叫びを上げ鋭い牙をむき出しにする。

 

 鋭く長い爪を振り下ろし、唖廼さんの首を狙いにかかる。

 しかし間一髪、軽やかに舞うように化け物の攻撃を避ける。

 そうして背後に回ると、手刀を化け物の首元に……当てるかと思いきや、肩にポンと手を置いた。



「さぁ、吐き出せ全てを。お前が食べるように、私にも食べさせろ……最後まで、しゃぶり尽してやるよ……」



 低く、薄ら寒く、幽かな声でそう語り掛ける唖廼さん。化け物に言葉が通じるとでも思っているの?

 案の定化け物はそれを振り払うかのように振り返りながら腕を薙ぐ。

 唖廼さんは肩に置いた手に力を入れて、その腕を躱して乗っかって見せた。



「空間を喰らう化け物は時間を喰えない。時間だけの存在となったものは空間を喰えない。互いに干渉しあうことは許されない。だけど本来の習性通り、空間、時間は奪える」



 それは化け物に語っているのか、私に語っているのか、そして語っている内容もさっぱりわからない。



「時間だけの存在となったものは、ただ終わりが来るその時まで生きていく……だけどただ減り続ける時間というものは、中々に退屈だ。だからこうやって時間を奪うことで、残された『人生』を謳歌しているのさ」



 唖廼さんは化け物の周りをちょろちょろとするだけで、一向に攻撃を加えようとしない。

 というかそれより、今語った話ってもしかして……


 唖廼さんは私のことをちらと見ると、暗い瞳を幽かに揺らした。



「自身よりも先に僕の存在に気づいたか。まぁそうしたほうがことはスムーズにいくというものだからね。僕もそれを思っての行動ではあったといえよう。そう、僕は 空魔ディメンションイーターという存在に空間を喰われた、『唖廼斯黙(おしのかもく)』という人間の形を模した時間という概念さ」



 バッと両手を広げた唖廼さん目がけて、化け物が怒り猛狂った咆哮を上げ乍ら爪を、……振り下ろし……唖廼さんの体を貫いた。



「っ唖廼さぁああああん!!」



 お腹から血が止めどなく溢れ崩れ去る唖廼さん。その顔は何故か笑っていて、満足気であった。

 私は化け物の存在なんぞ忘れ去り、唖廼さんの下へ走り寄る。

 


「お、唖廼さん! ち、……おっ……血が!」



 何で、あんなに余裕ぶってたじゃない。何で死にそうになってんの。勝手に人の前に現れて、勝手にわけのわからないこと言って、勝手に……



「勝手に死なないでください!!!!」



 口の端から血を垂れ流しながら、唖廼さんは寡黙に口を開いた。



「死なないでくれ、……か。僕には縁遠い言葉だな……はは、実はまだ君に語れていないことがある…… 空魔ディメンションイーターは空間しか食えない、これは事実だ。時間だけの存在である僕らには絶対に干渉できない……だけど、時間だけの存在であるはずなのに、僕は『唖廼斯黙』という名前と形の存在を許されている。これがどういうことかわかるかい?」



 今にも死にそうだっていうのに、唖廼さんはまるで些事だと言わんばかりに愉しく微笑んでいる。



「わかっ……さっぱりわかりません!」



「ふっ……つまり僕は、あの 空魔ディメンションイーターに唖廼斯黙という存在を狙われたんだよ……もう既に奪われたその存在の残り滓を、ね……そこで君に頼みたいことがある」



 唖廼さんはゆっくりと手を伸ばすと、私の頬へと宛がう。

 その手は酷く冷たい。まるで死人のように生きた心地を与えない。

 それもそのはず……唖廼さんはもう唖廼斯黙という人間の余生を漂っているだけなのだから。



「僕の血を君の体内に収めてはくれないか? 僕の……『唖廼斯黙』の形を模したものを残せれば、僕は未だ『唖廼斯黙』でいられる。どうせ死ぬのなら……君と共に、君の中で生きていきたい……」



 段々と声に儚さが宿っていく。今にも消え入りそうな危うい声。

 病的に白かった肌はより一層白くなり、流るる血がまるで化粧のように彩っている。

 


「うん、……うん。分かったよ唖廼さん、正直あなたみたいな人意味が分からないし気味が悪いし関わりたくもないけど……目の前で誰かが死ぬのは()()いや! 私の中で、生き続けて!!」



 私は目を閉じ、その口を唖廼さんの口へと押し当てる。

 肌はこんなにも冷たいのに、触れ合う唇はすごく熱い。

 そしてぬらりとべたついたものが口の中へ流れ込んでくると、…………私の中に全てが溢れ出す。



 【私は見ていた】

 【お腹の中で】

 【夕暮れに染まった街で】

 【化け物に襲われたのを】

 【私は生まれずして死んだのだ】

 【母親ごと】

 【──空間を喰われた】

 【私は既に死んでいた】

 【洗語笨朶という人間の形を模した】

 【──時間という概念】



 体の中に熱いものが迸る。全身を隈なく、血管という血管を巡っている感覚。

 唖廼さんの血が、唖廼さんの存在が、私の体を蹂躙し────




 【僕が生まれた】




 

「ふっ……はは、あっははははははは!!」




 今まで見えていなかったものが全てはっきりと、くっきりと見えているような気分だ。

 感覚という感覚が研ぎ澄まされ、視界が明瞭になった。

 目の前の化け物も怖くなどない。

 醜いはずなのに愛らしくすら思えてくる。

 こいつらも、こいつらで必死なんだ。

 そして僕も僕で必死に生きようではないか。

 

 託された、唖廼斯黙のためにも。



「時間だけの存在になった者は、他者から時間という概念を奪える。それは生きとし生けるものの寿命を奪い、自分の時間へ加算するということ。唖廼斯黙はその特性で僕から時間を奪い、昼間だったはずの時間から夕暮れまでの時間感覚を奪った」



 唖廼斯黙と一つになった僕。彼女の考えていたこと、彼女が知り得ていたものが手に取るようにわかる。

 僕の足元で息絶えた『唖廼斯黙』。その顔はとても安らいでいるようにすら思える。

 待ってて。後でちゃんと『存在』を残してあげるから。



「唖廼斯黙は語り掛けることにより他者から時間を奪う……なら僕はどうやって生きていく? ふふ、正解はこうやってさ──」



 僕は爪を立て、自身の右手首の血管目がけて思い切り突き立てる。

 皮と肉を剥ぎ、血が突出する。

 溢れ出る血のシャワー。視界を真っ赤に染め上げていく。

 


 僕の世界は──血で構成されている。



 溢れ出た血は塊を成し、一つの形となって僕の手の中に落ちる。

 細く長く、平らな面を上に、鋭く尖った面を下に。

 そう、それは刀の形を模していた。



 【血刀:大刀洗】



「この刀は、空魔(きみら)の時間だけを奪う」





 【さぁ】

 【最期までしゃぶり尽くしてあげる】



 襲りかかる 空魔ディメンションイーターの動きが酷く鈍く見える。

 振り下ろされる爪を躱し、僕は刀を思い切り振りあげる。


 化け物は音も無くピタリと静止し、そして──真っ赤な血飛沫をあげながら真っ二つになった。



 


 夕暮れに染まる街。浮かぶ血飛沫に濡れた紅き桜。

 視界に映るは確かな血。体に巡るは不確かな血。



 僕はこうして、『洗語笨朶(あらかたあらた)』として生れたのであった。








「唖廼さん、君を此処に埋めよう。時間だけとなり、空間を奪われたあなたは、確かに今()()に『唖廼斯黙』として存在している。だけど、君の存在を一所に留めないために、確かに君という存在を残すために、埋めてあげよう」



 日出高校の校庭に咲く大きな桜の木。

 その下に、唖廼斯黙という存在を残そうではないか。



 この桜の寿命が尽きるまで。

「…………」



「…………っ、よいしょっと」



「ふぅ……全く、彼女も深く埋めてくれたもんだ。出てくるのにも一苦労だ」



「まぁ、この場所を選んだのは褒めるべきところだけどね」



「…………おっと? 全く変な所を見られてしまったな」



「? 何故僕が生きているのかって? ふふ、僕は既に語ったはずだけどねぇ」





「僕は死とは縁遠い、ただ終わりが来るまでその時を生きていくってね」

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