彼女は病弱だから、と私の治癒石を持ち出した婚約者へ
「彼女は病弱だから」
レオンはそう言って、私の前に空の箱を置いた。
蓋の裏に縫い付けた小さな札が揺れた。サラ、と刺繍してある。私の字よりずっと綺麗なので、母に頼んでよかったと思っていた札だ。
「ミレナが今朝からつらそうでね。君の石を持っていったら、久しぶりに楽になったと喜んでいた」
「……あれ、私の治療に使うものよ」
「分かっているよ。だから借りたんだ」
私たちは結婚式の席次を決めるために会うはずだった。
レオンは早く着いたので、居間で待っていてもらった。私が着替える間に卓の箱を開け、そのままミレナの家へ行って戻ってきたらしい。
丸めた席次表が彼の肘に当たり、少しずつ卓の端へ寄っていた。私はそれを押し戻した。
「貸していいとは言っていないわ」
「君がいなかったからね。今朝のミレナを見たら、君だってそうしたはずだよ」
胸元へ手をやった。襟の下には鎖も石もない。
呪いのある私にとって、その軽さは普段なら気持ちのいいものだった。昼のいっときだけ石を外せる。今日は薬師が来るので、浄めと調整を頼むつもりで箱に入れておいた。
窓の外は晴れていた。指先も温かい。レオンの馬車が来た時、私は庭で切り花を選んでいた。
夜になれば、それは変わる。
「夕鐘より前に返して。セスさんの調整もあるから、できれば今すぐ」
「つけたばかりのものを外せと言うのかい」
「私も今夜使うの」
レオンは椅子を引いた。腰を下ろす音が、いつもの訪問と同じで嫌だった。
「君は元気そうじゃないか」
笑って、そうね、と言いかけた。
人に会うとたいてい、今日の具合を聞かれる。おかげさまで、と答えて話題を変えるのが癖になっていた。病気の話ばかりでは相手も疲れるし、私だって刺繍や芝居の話がしたかった。
けれど今は、その返事をしてはいけない。
「石を使っているからよ。夜に外せないのは知っているでしょう」
「一晩くらいなら、別の石でも」
「別のものでは足りないの。私に合わせて作ってあるから」
治癒石は体にたまる呪いの力や、滞った魔力を吸い上げる。ただ、私にかかった呪いそのものを消すことはできない。軽い不調なら市販の石でも役に立つが、私の呪いはそれでは抑えきれない。
初めて石を作った時は、手首に何度も細い針を当てて魔力を調べた。使えるようになるまで十日かかった。同じものを注文しても、今日の夜には間に合わない。
その説明を聞いた席に、レオンもいた。
「夜は胸が痛くなるの。ひどくなると息ができなくなる。前に薬師さんから聞いたでしょう?」
「覚えているよ。そんなに怖い顔をしなくても」
彼は私の手へ指を重ねた。
付き合い始めの頃、この仕草が好きだった。話の途中でも触れてくるので、続きを忘れて笑ってしまうことがあった。
今日は箱を引き寄せるために手を動かした。
「夕鐘より前よ」
「分かった。ミレナに話しておく」
「話すだけではなくて、持って帰ってきて」
レオンは困ったように笑った。
「君がそんなに心配性だとは知らなかったな」
その後も彼は席次表を広げようとしたが、私は石が戻るまで決められないと言った。
母が隣室から顔を出すと、レオンは立ち上がった。幼馴染の具合を見てからまた来るそうだ。母には「少し借りています」とだけ話し、空の箱を私の手に残して出ていった。
母が彼を追って玄関へ向かった。私は椅子に座り、箱の内側の窪みを指でなぞった。石と同じ楕円形で、何も入っていないとずいぶん深い。
迎えの馬車が走り出す音がした。
まさか本当に返さないわけがない。夜に必要だと、あれだけ言ったのだから。
そう思いながらも、私は呼び鈴を鳴らして便箋を持ってきてもらった。
◇
手紙は短く書いた。
石がないまま夜を迎えると、胸の痛みと呼吸の発作が出ること。命に関わると薬師から言われていること。夕鐘までに家へ返してほしいこと。
書き出しの「お忙しいところごめんなさい」は消した。石を届ける使いを探していたら遅くなるから、こちらの使用人に持たせてほしいと付け加えた。
宛名には二人の名を書いた。
使いに出した男が帰ってきたのは、薬師のセスが着いてからだった。
「石はお預かりできませんでした」
私の前で頭を下げるので、下げなくていいと先に言った。謝ってほしかった相手は彼ではない。
「お二人には会えた?」
「はい。お手紙はレオン様が声に出して読まれました。ミレナ様もその場に。レオン様は、御自分でお届けすると」
「いつ?」
使いは答えにくそうにした。
「ミレナ様は今夜もお使いになりたいと。レオン様は、明日の朝には持っていくから落ち着くようにと仰いました」
私は膝の上で手を組んだ。爪が隣の指に当たった。
明日の朝。そこまで待てないから、夕鐘までと書いたのに。
「手紙の、息ができなくなるところも読んだのね」
「はい。お渡しする前にも、私から申し上げました」
母が立った。今度は自分が行くと言った。
私は窓を見た。まだ明るいが、庭の道には屋根の影が伸びている。
「お母様、私、工房へ行きたい」
セスが顔を上げた。
彼は調整用の道具を開きかけていた。まだ二十六歳で、初めて紹介された時には若すぎるのではと心配した。今は彼の顔色を見て、心配なことが起きていると分かった。
「ここで代わりの薬を飲んでいれば、大丈夫ですか」
「いや。俺の工房へ来てくれ。処置台と予備の石がいる」
「では、お願いします」
思ったよりすぐ言えた。
セスは使いの男に向かって、今度は自分の署名した返還要求を届けてくれと頼んだ。それでも返さないなら衛吏に届け出る、という話になった時、私は彼の袖を引いた。
「そちらも、今からお願いします。私の石を取り戻してください」
セスは頷き、助手を呼ぶための伝言を母に渡した。
私は立ち上がった。足はまだ普通に動いた。そのことにほっとしかけ、レオンの「元気そうじゃないか」を思い出した。
歩けるうちに行かなくてはいけない。
工房は薬の匂いが濃かった。
窓辺で乾かしている草を見て、何に使うものか聞こうとしてやめた。代わりに、今夜ここで眠ることになるのか尋ねた。
「様子による。靴を脱いで、奥の台に上がって」
「母も一緒にいていいですか」
「そこの椅子に。サラ、上着も脱いで」
小さな石がいくつも並べられた。セスは私の手首と胸元へそれを当て、曇る様子を見て別のものへ替えた。
大きいものを一つ使う代わりに、これをたくさん置けばいいのだろうか。聞く前に、一番小さな石が白く濁った。
「吸える量が少ない。何度も替えるから、痛みが出たら言ってくれ」
「我慢できるくらいでも?」
「我慢できるかは聞いていない。出たかどうかを教えて」
私は頷いた。
いつもの石なら鎖で首に掛けるだけで済む。今はその石もなく、予備の石を並べた台に横になっている。セスが何度も私の手首に触れるたび、使える石が減っていった。
夕鐘が鳴った時、私はまだ話せていた。
母に、持ってきた鞄をそこへ置いてほしいと頼んだ。中には途中まで刺した縁飾りがある。明日の縫い物の集まりに持っていくつもりだったが、今から仕上げるのは難しそうだった。
そこまで考えたところで、胸の奥を細い糸で縛られるような感じがした。
「少し、痛いです」
セスは私の顔を見ずに石を替えた。
窓の色が灰色になる頃には、痛みがどこから来ているのか分からなくなった。胸なのか背中なのか、息を吸おうとするたび場所が変わった。
「石は……」
「助手が衛吏と向かっている」
「まだ、戻って」
「今は話さなくていい」
私は首を振った。黙ったら、そのまま誰にも聞いてもらえなくなりそうだった。
母が手を握った。強く握り返そうとしても指が動かない。
「怖い」
大丈夫よ、と言われると思った。
母は何も言わず、私の指を自分の両手で包んだ。セスは母に場所を空けるよう言い、胸元の布を緩めた。
「サラ、俺の声は聞こえるか」
頷くと視界が揺れた。
次に何をされたのかは覚えていない。知らない声が増えた。石を浄める水の匂いがした。扉が開くたび、戻ったのか聞きたかったが、声にならなかった。
途中で母を呼んだつもりだった。唇しか動いていなかったのかもしれない。
次に目を開けた時、窓の桟の形が分かった。
明るかった。
胸元へ手をやろうとすると、母が毛布を少し下げてくれた。見慣れた石が肌の上にあった。鎖は首の後ろへ回り、いつもの重さがそこに戻っていた。
「返ってきたの?」
母は頷いた。
私は石に触れた。何度も確かめたかったのに、腕を上げ続けられなかった。
手が毛布へ落ちた。母がそっと上から握ってくれた。
◇
石が戻ったのは、日付が変わってからだった。
セスの助手と衛吏が、ミレナの家から持ち帰ったという。私はその説明を聞きながら、夜の扉の音を思い出そうとした。どれだったのか分からなかった。
セスは、他人の魔力を吸った石を私に合わせ直してから着けたと言った。
「しばらく毎日診る。石が戻っても、昨夜の負担が消えるわけじゃない」
実際、その日は寝台から足を下ろすだけで息が切れた。
自分で顔を洗いたいと言い、起こしてもらい、途中で横になった。母が持ってきた着替えを見て、袖を通すには腕を上げるのだと考えた。それがとても面倒に思えた。
眠ればよくなるはずなのに、目を閉じると次の息ができるか気になった。
母が家へ戻る時、私は戸口まで見送れなかった。
レオンが来たのは翌日の午後だった。
会うかと尋ねられて、私は会うと答えた。衛吏から話を聞かれたことは、もう彼も知っていた。
持ってきた花は母が受け取り、離れた卓へ置いた。
「こんなことになるとは思わなかった。すまない」
レオンは寝台の脇に立った。
私は彼の顔を見た。眠っていないように見えた。シャツの襟には少し皺があり、いつもなら直してくるはずだと思った。
その心配をしている自分が嫌で、毛布の縁を見た。
「夜には返してって、言いました」
「ああ。悪かった。ただ、ミレナも本当につらかったんだ。石をつけたら食事が取れて、顔色もよくなって」
私は頷きそうになった。
ミレナが食べられないことは前から聞いていた。会った時に笑っていても、次の約束を熱で断ることがある。私も似た理由で出かけられないから、仮病だと思ったことはない。
「それは……よかったと思います。でも、私の石を」
「だから謝っている。もう返っただろう。君もこうして話せるし、これからは僕が気をつける」
これから、と彼は言った。
結婚して同じ家に暮らした後も、石の入った箱を見つけるのだろうか。私が少し笑えば、今日は必要ないと決めるのだろうか。
寝台の上で指先が冷たくなった。
「結婚はできません」
レオンが口を閉じた。
言った私も驚いた。もっと事情を説明してから伝えるつもりだったのに、その一文だけが先に出た。
「サラ。今は疲れているんだ。決めるのは落ち着いてからにしよう」
「家にも、そう伝えてください」
「たった一度の行き違いで、式をやめるのか」
胸の石を握った。
たった一度、と言われた夜が、まだ体から抜けていなかった。
「一度で、息ができなくなりました」
声が掠れた。
それだけで涙が出た。怒っている時まで泣いてしまうのは昔からで、泣き始めると相手が話をやめる。宥められ、あとにしようと言われ、結局は言えなかったことが残る。
レオンも身を屈めた。
「分かった。もう話さなくていい」
「よく、ないです」
水が欲しかった。言うと母が杯を渡してくれた。家同士の連絡は母を通すと伝え、彼には出ていってもらった。
レオンは私と母を順に見た。最後には頷いたが、戸口で振り返った。
「衛吏にまで話す必要はなかったんじゃないか。僕に言えばよかったのに」
私は杯を持ったまま、何も返せなかった。
扉が閉まってから、言いました、と声に出した。誰もいない戸口へ向かって言うのが情けなかった。
四日目に家へ帰った。
階段は途中で休んだ。寝室の卓には、席次表が片づけられずに残っていた。私が付箋を貼った席の隣に、レオンの字でミレナの席が書き込まれていた。
それを読んでも、彼女の名を消したいとは思わなかった。
紙を丸め、引き出しにしまってもらった。
その日の夕方、レオンの母親から手紙が届いた。
治療にかかった費用は家で出す。息子も深く反省している。将来のある二人のために、婚約の件も含めて内々に話し合いたい。
母は私が読み終わるまで待った。
「返事は、私からしましょうか」
「費用は払ってほしい。でも、それで終わりにはできないと伝えて」
私は膝の上の手紙を畳んだ。
あの人の「僕に言えば」に、寝台の上では答えられなかった。石を返してと頼んだことも、朝まで待てないと言ったことも、二人だけの話に戻せばまた消えてしまう。
母には、婚約を終わらせる手続きを進めてほしいと頼んだ。衛吏にも正式に被害を届け出る。詳しい話を聞く係は、私が外出できるまで家へ来てくれることになった。
最初の日、私は順番を何度も間違えた。
手紙を書いたのはセスが来る前なのに、来てからだったと言いかけた。係は訂正して続きを待った。夜に何をされたか聞かれて、覚えていないと答えると、そこは薬師に確かめると言った。
すべてを上手に話さなくても、話は先へ進んだ。
審理で本人にも尋ねると聞かされた晩、私は紙に一文だけ書いた。
夜になる前に、返してほしいと伝えました。
泣かない方法は思いつかなかった。
せめて、また言えなくなった時にどこへ戻ればよいか、分かるようにしておきたかった。
◇
あの夜から三週間後、審理の日が来た。
私は石の鎖を服の外へ出した。
いつもは襟の下に隠している。見つけられると説明することが増えるし、相手に気を遣わせるのも苦手だった。けれど今日は、その石について話すために来た。
母と別れて証言する席へ歩く間、靴音が妙に大きく聞こえた。
レオンは弁護人の隣にいた。目が合うと、何か言いかけてやめた。少し離れた席にはミレナと付き添いの女性がいた。膝掛けを使い、卓には蓋付きの杯を置いている。
私は空いていた椅子に座った。石は胸の上で小さく揺れた。
最初に石の購入記録が示された。
代金を払ったのは私で、受取人も私。セスの工房に残る調整の記録にも、私の名がある。
レオンは持ち出したこと自体を争わなかった。
「返すつもりで借りたものです。婚約者の家には普段から出入りしていました。サラもミレナの病気は知っています」
裁判官に、貸す許可をしたかと尋ねられた。
「していません。着替えから戻ると、箱がなくなっていました」
「その後、レオン氏から説明を受けた時には?」
「返してほしいと頼みました。夕鐘より前に」
そこまでは言えた。
レオンの弁護人は、私が以前ミレナに薬を分けたことがあると話した。それは本当だった。旅先で熱を出した時、私の荷物にあった市販の薬を、同行の薬師に確かめてから渡した。
私はその時のことも答えた。だから今回も貸してくれると思ったのでは、と聞かれて、膝の上の紙を握った。
「私は、その場で返してと……言いました」
声が硬くなった。
初めにどう思ったかを何度聞かれても、返してと伝えた後まで初めのままにされるのは困る。
言葉にする前に、裁判官がレオンへ顔を向けた。
「返還を求められた点は認めていますね」
「ええ。夕方までには、という話は。ただ、私はミレナの様子を見てから決めるつもりでした」
私が寝台で聞けなかった答えだった。
彼の中では、私に言われた時にもまだ決まっていなかった。夕鐘より前に返すのかどうかを、彼が決めるつもりでいた。
次に、手紙を届けた使用人が呼ばれた。
うちの居間では頭を下げていた人が、今は私の方を見ず、尋ねられたことに一つずつ答えていた。二人に会ったこと。レオンが手紙を読み上げたこと。ミレナがその場で返事をしたこと。
手紙はミレナの家に残っていて、衛吏が石を回収した際に受け取っていた。
裁判官が読んだ私の文章は、家で書いた時よりずっと落ち着いて聞こえた。
「胸の痛みと呼吸の発作が出る。命に関わると薬師から言われている。ここまで読み上げたので間違いありませんか」
「はい」
使用人は答えた。
「お二人ともお聞きになりました。私は石をお預かりするつもりで待ちましたが、明朝レオン様がお持ちになるから帰るようにと」
私は紙を握る手を緩めた。
家を出る前には、この人まで責められるのではないかと心配していた。今も声は少し震えていたが、時刻を聞かれると考えてから答えた。分からない細かな時刻は、分からないと言った。
それでよかった。私も、はっきりしないことを無理に埋めなくていい。
「手紙の内容は大げさだと思いました」
レオンの声で、顔を上げた。
「昼には庭を歩いていたし、顔色もよかった。サラがミレナとの付き合いを気にしていたのも知っています。石そのものより、私が彼女の所へ行ったことが嫌だったのではないかと」
胸の辺りが熱くなった。
気にしていなかったと言えば嘘になる。約束を変えられた日はあったし、二人にしか分からない昔話が続くのも寂しかった。
けれど、それを説明し始めたら、今日も私の石が遠くへ行ってしまう。
裁判官が私に発言を求めた時、唇がうまく開かなかった。
「彼女と、会うことを……」
紙を見た。自分で書いた字なのに行の端が滲んだ。
「すみません。お水を」
杯を渡してもらった。片手ではこぼしそうで、両手で持った。
傍聴席で誰かが身じろぎした。早くしなくてはと思うと喉が詰まった。レオンのいる方を見たくなかった。
「少し休みますか」
裁判官が聞いた。
私は頷き、それから慌てて首を上げた。
「休んだら、続きを話していいですか」
「はい。ここから続けましょう」
杯を置き、手巾を目に当てた。泣いているところを見られたくなくて、顔ごと覆いそうになった。そうするとまた声が聞こえなくなるので、膝へ戻した。
静かになっても、涙は止まらなかった。
「石を返してほしかったんです」
やっと言えた。
「迎えに来てとも、そばにいてとも書きませんでした。石を、使いの者に渡してくれれば。それだけでよかったんです」
息を継いだ。
レオンが顔を上げた。ついそちらへ向かって話しそうになり、卓の端を見た。
「ミレナ様の具合が悪いのは知っています。私が、夜に息をできなくなることも、レオンは知っていました。そうなる前に、返してほしいと伝えました」
膝の紙と同じ所へ戻れた。
その先は書いていなかったが、口を閉じたくなかった。
「帰ってきた使いの者から、明日の朝と聞きました。私が言ったことは……聞こえていたのに。夜が来るのを、どうしたらいいか分からなくて」
涙を拭いた。
昼の窓と、庭の影を思い出した。天気がよければ、もっと明るいままでいられるような気がしていた。
「工房へ行きました。自分の家で待っていては駄目だと思ったからです。夜の途中からは、何をされたか覚えていません。返してもらったところも」
裁判官が、覚えている範囲で構わないと言った。
「朝になって、石がありました。でも起きられなくて。顔を洗う途中で休んで、家に帰ってからも、階段を上がれなくて……」
言葉が細かく切れた。
自分でも頼りない話し方だと思ったが、聞き返された所は言い直した。夜に何回発作が起きたかは分からない。苦しくなり始めたのは夕鐘の後。意識が戻った時には窓が明るかった。
話し終えると、膝の紙の角が濡れていた。
セスは治療の記録を手に証言した。
工房に着いた時刻。発作が始まった時刻。予備の石を替え、ほかの薬師を呼んだこと。石が戻った時刻。
夜の記録を聞き、あの知らない声は応援に来た薬師だったのだと分かった。
「石が戻ったのは、夜半を過ぎてからです。調整をし直して着けましたが、衰弱は翌日以降も続きました。現時点でも治療前の状態には戻っていません」
「予備の石で対処できたのなら、危険は避けられたのでは」
弁護人の問いに、セスは記録から顔を上げた。
「治療を続けた結果、朝を迎えられたんです。放っておいても助かったとは言っていません」
彼はそこで言葉を切り、夜の途中で脈と呼吸が乱れた時刻を答えた。どこまで危険だったのかは、来援した薬師の記録とも照らして確認された。
いつもの石を使っていれば、この発作を避けられたと考えられる。昼に歩けていたことは、夜に石が要らない理由にはならない。
その説明の間、私は胸の石を見ていた。
ミレナが話したのはその後だった。
「レオンが、サラ様は昼間なら大丈夫だと……。使っていいと言われたので」
声が小さかった。杯を持ち上げる時、付き添いの人が手を添えた。
石を着けている間は熱が下がり、楽になったという話には、彼女を診ている薬師の記録も添えられた。私はそこに異議を挟まなかった。
「では、手紙を聞いた後は」
裁判官が尋ねると、ミレナは杯へ目を落とした。
「外したら、また苦しくなると思いました」
「返すよう求められていることは理解していましたか」
「はい。でも、今夜だけ、まだ使いたいと。レオンも朝ならいいと言ってくれましたから」
レオンの弁護人が何かを書き留めた。
彼女は彼の方へ顔を向け、それから私を見た。
「本当に具合が悪かったんです」
私は頷いた。頷いてから、それだけでは足りないと気づいた。
「知っています」
私の声でミレナの肩が少し下がった。
「だから、嘘だとは言いません。でも手紙を聞いたら、返してほしかったです。私も、苦しくなると伝えたので」
また涙が出た。ミレナは何も答えず、付き添いの人から手巾を受け取った。
誰が先に泣きやむかを待つ時間にはならなかった。裁判官は衛吏を呼び、薬師の返還要求が届いた後も石が返らなかった経緯を確かめた。
門で取次ぎを断られ、治療に必要だと告げても入れなかったこと。セスの届け出と診療の証明を受けた当直の裁判官が、返還命令を出したこと。命令を携えた衛吏が家に入り、石を受け取ったこと。
命令が来るまで待った理由を問われ、レオンは「朝には返すと言っていた」と繰り返した。
私はもう、朝では遅いと言わなくてよかった。
判決が言い渡されたのは、その五日後だった。
レオンには、危険を知らされた後も治療に必要な石の返還を拒んだ罪で、一年の拘禁が命じられた。応急処置と、回復までの療養にかかる費用の賠償も。
石を戻し、謝罪したことは考慮しても、発作が起きた事実と返還拒否の責任は消えない。裁判官はそう告げた。
ミレナには、返還の要求と危険を知りながら使い続けた分の消耗と、再調整の費用を負担するよう命じられた。
レオンは弁護人へ何か囁いた。弁護人が低い声で答えたが、私には聞こえなかった。
閉廷を告げられ、母が迎えに来るまで、私は椅子から立てなかった。
怖かった。今日も、先日も。
けれど膝の上の紙に、まだ言えていないことは残っていなかった。
◇
婚約解消の書面が揃ったのは、それから一週間後だった。
レオンの家は一度、彼が戻るまで待ってほしいと申し入れた。母から聞いた私は、待たないと答えた。
彼の服役が終わる日と、私の結婚する日を結びつけて考えることが、もうできなかった。
席次表を作っていた卓で署名した。私の名を書く所は狭く、最後の字だけ少し小さくなった。
「もう一度、書き直しますか」
立ち会っていた人に尋ねられ、大丈夫ですと答えた。
その返事なら、今日は嘘ではなかった。読める字で書けている。母の手に渡すと、紙はほかの書類と一緒に封筒へ収まった。
式のために届いていた布や飾りも、順に片づいた。
白い手袋を箱へ戻す時、レオンに腕を預けて歩く自分を思い出した。昔、彼がそうしてくれた帰り道は楽しかった。今でも、あの日まで全部つらかったと思うわけではない。
それでも次の夜、石が手元にあるかどうかを彼に預けて暮らすのは嫌だった。
手袋を収めた箱に蓋をした。
その午後は石の調整があった。
返ってきてから毎日受けていた診察は、週に二度へ減っている。セスが往診する日は、居間の卓へ道具を広げ、目の前で石を浄めてくれた。
私は針仕事の籠を膝に置いて待った。
あの日、工房へ持っていった縁飾りはまだ終わっていない。同じ模様を続けるだけなのに、少し縫うと肩が重くなる。
「明日の集まりなら、これを持っていけると思ったんです」
セスは細い器具で石の縁をなぞっていた。
「行くのか」
「途中まででも見せてと言われたので。少し顔を出すくらいなら」
「昨日、散歩から帰って寝込んだと聞いたけど」
私は針を布へ刺した。
花屋まで往復しただけだった。途中で椅子を借りたことは、手紙には書かなかった。友人には、久しぶりに買い物ができて嬉しかったと知らせた。
それは本当だ。けれど、帰ってからずっと寝ていたことも本当だった。
「行かなくてはいけない用事じゃありません」
「なら、明日は休んだ方がいい。昨日の疲れが残っているなら、なおさらだ」
セスは石を布で拭き、私が差し出した手のひらへ載せた。
「夜は必ず。昼に外すのは調整の時だけ。もう少し回復したら、また時間を延ばせる」
「はい」
石は冷たかった。
鎖を首の後ろへ回すと、留め具が指から逃げた。もう一度つまみ直して穴へ通す。いつもは考えずにできることだった。
胸へ下りた石を服の内側に収めた。セスが手首に触れて様子を確かめ、次に来る日を告げた。
私はその日を手帳へ書いた。午前中には別の予定を入れなかった。
帰りの挨拶をするために母が立つと、私も立ちかけた。膝の籠が滑りそうになり、抱え直す。
「ここから失礼します」
セスは片手を上げ、道具鞄を持って出ていった。
私は椅子に残った。玄関まで歩けないわけではない。でも座っていたかった。
母が戻るまでに、友人への返事を書いた。
明日の集まりは休みます。よかったらこちらへ、という続きを書きかけて、ペンを止めた。人に会えば楽しいだろうし、少し話したい気もした。けれどお茶を飲みながら何時間も座るのは、今の私には長かった。
まだ疲れやすいので、明日は家で休みます。また会えるようになったら手紙を書きます。
そう続けて封をした。
縁飾りも籠へ戻した。縫いかけの端を内側へ折り、針の先が出ていないことを確かめた。
寝室へ行くと、窓から夕方の光が入っていた。
あの日から、日が傾くと胸元に手をやる癖がついた。外していないと分かっていても、何度も確かめてしまう。今日も服の上から触れ、鎖を辿った。留め具はきちんと閉じていた。
掛け布を引き上げると、肌に触れた石が少し動いた。私は指で位置を直した。今夜使うために、誰かから返してもらうのを待たなくていい。
鎖から手を離し、まだ明るい部屋で目を閉じた。




