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彼女は病弱だから、と私の治癒石を持ち出した婚約者へ

掲載日:2026/10/14

「彼女は病弱だから」


 レオンはそう言って、私の前に空の箱を置いた。

 蓋の裏に縫い付けた小さな札が揺れた。サラ、と刺繍してある。私の字よりずっと綺麗なので、母に頼んでよかったと思っていた札だ。


「ミレナが今朝からつらそうでね。君の石を持っていったら、久しぶりに楽になったと喜んでいた」

「……あれ、私の治療に使うものよ」

「分かっているよ。だから借りたんだ」


 私たちは結婚式の席次を決めるために会うはずだった。

 レオンは早く着いたので、居間で待っていてもらった。私が着替える間に卓の箱を開け、そのままミレナの家へ行って戻ってきたらしい。

 丸めた席次表が彼の肘に当たり、少しずつ卓の端へ寄っていた。私はそれを押し戻した。


「貸していいとは言っていないわ」

「君がいなかったからね。今朝のミレナを見たら、君だってそうしたはずだよ」


 胸元へ手をやった。襟の下には鎖も石もない。

 呪いのある私にとって、その軽さは普段なら気持ちのいいものだった。昼のいっときだけ石を外せる。今日は薬師が来るので、浄めと調整を頼むつもりで箱に入れておいた。

 窓の外は晴れていた。指先も温かい。レオンの馬車が来た時、私は庭で切り花を選んでいた。

 夜になれば、それは変わる。


「夕鐘より前に返して。セスさんの調整もあるから、できれば今すぐ」

「つけたばかりのものを外せと言うのかい」

「私も今夜使うの」


 レオンは椅子を引いた。腰を下ろす音が、いつもの訪問と同じで嫌だった。


「君は元気そうじゃないか」


 笑って、そうね、と言いかけた。

 人に会うとたいてい、今日の具合を聞かれる。おかげさまで、と答えて話題を変えるのが癖になっていた。病気の話ばかりでは相手も疲れるし、私だって刺繍や芝居の話がしたかった。

 けれど今は、その返事をしてはいけない。


「石を使っているからよ。夜に外せないのは知っているでしょう」

「一晩くらいなら、別の石でも」

「別のものでは足りないの。私に合わせて作ってあるから」


 治癒石は体にたまる呪いの力や、滞った魔力を吸い上げる。ただ、私にかかった呪いそのものを消すことはできない。軽い不調なら市販の石でも役に立つが、私の呪いはそれでは抑えきれない。

 初めて石を作った時は、手首に何度も細い針を当てて魔力を調べた。使えるようになるまで十日かかった。同じものを注文しても、今日の夜には間に合わない。

 その説明を聞いた席に、レオンもいた。


「夜は胸が痛くなるの。ひどくなると息ができなくなる。前に薬師さんから聞いたでしょう?」

「覚えているよ。そんなに怖い顔をしなくても」


 彼は私の手へ指を重ねた。

 付き合い始めの頃、この仕草が好きだった。話の途中でも触れてくるので、続きを忘れて笑ってしまうことがあった。

 今日は箱を引き寄せるために手を動かした。


「夕鐘より前よ」

「分かった。ミレナに話しておく」

「話すだけではなくて、持って帰ってきて」


 レオンは困ったように笑った。


「君がそんなに心配性だとは知らなかったな」


 その後も彼は席次表を広げようとしたが、私は石が戻るまで決められないと言った。

 母が隣室から顔を出すと、レオンは立ち上がった。幼馴染の具合を見てからまた来るそうだ。母には「少し借りています」とだけ話し、空の箱を私の手に残して出ていった。


 母が彼を追って玄関へ向かった。私は椅子に座り、箱の内側の窪みを指でなぞった。石と同じ楕円形で、何も入っていないとずいぶん深い。

 迎えの馬車が走り出す音がした。

 まさか本当に返さないわけがない。夜に必要だと、あれだけ言ったのだから。

 そう思いながらも、私は呼び鈴を鳴らして便箋を持ってきてもらった。


 ◇


 手紙は短く書いた。

 石がないまま夜を迎えると、胸の痛みと呼吸の発作が出ること。命に関わると薬師から言われていること。夕鐘までに家へ返してほしいこと。

 書き出しの「お忙しいところごめんなさい」は消した。石を届ける使いを探していたら遅くなるから、こちらの使用人に持たせてほしいと付け加えた。

 宛名には二人の名を書いた。


 使いに出した男が帰ってきたのは、薬師のセスが着いてからだった。


「石はお預かりできませんでした」


 私の前で頭を下げるので、下げなくていいと先に言った。謝ってほしかった相手は彼ではない。


「お二人には会えた?」

「はい。お手紙はレオン様が声に出して読まれました。ミレナ様もその場に。レオン様は、御自分でお届けすると」

「いつ?」


 使いは答えにくそうにした。


「ミレナ様は今夜もお使いになりたいと。レオン様は、明日の朝には持っていくから落ち着くようにと仰いました」


 私は膝の上で手を組んだ。爪が隣の指に当たった。

 明日の朝。そこまで待てないから、夕鐘までと書いたのに。


「手紙の、息ができなくなるところも読んだのね」

「はい。お渡しする前にも、私から申し上げました」


 母が立った。今度は自分が行くと言った。

 私は窓を見た。まだ明るいが、庭の道には屋根の影が伸びている。


「お母様、私、工房へ行きたい」


 セスが顔を上げた。

 彼は調整用の道具を開きかけていた。まだ二十六歳で、初めて紹介された時には若すぎるのではと心配した。今は彼の顔色を見て、心配なことが起きていると分かった。


「ここで代わりの薬を飲んでいれば、大丈夫ですか」

「いや。俺の工房へ来てくれ。処置台と予備の石がいる」

「では、お願いします」


 思ったよりすぐ言えた。

 セスは使いの男に向かって、今度は自分の署名した返還要求を届けてくれと頼んだ。それでも返さないなら衛吏に届け出る、という話になった時、私は彼の袖を引いた。


「そちらも、今からお願いします。私の石を取り戻してください」


 セスは頷き、助手を呼ぶための伝言を母に渡した。

 私は立ち上がった。足はまだ普通に動いた。そのことにほっとしかけ、レオンの「元気そうじゃないか」を思い出した。

 歩けるうちに行かなくてはいけない。


 工房は薬の匂いが濃かった。

 窓辺で乾かしている草を見て、何に使うものか聞こうとしてやめた。代わりに、今夜ここで眠ることになるのか尋ねた。


「様子による。靴を脱いで、奥の台に上がって」

「母も一緒にいていいですか」

「そこの椅子に。サラ、上着も脱いで」


 小さな石がいくつも並べられた。セスは私の手首と胸元へそれを当て、曇る様子を見て別のものへ替えた。

 大きいものを一つ使う代わりに、これをたくさん置けばいいのだろうか。聞く前に、一番小さな石が白く濁った。


「吸える量が少ない。何度も替えるから、痛みが出たら言ってくれ」

「我慢できるくらいでも?」

「我慢できるかは聞いていない。出たかどうかを教えて」


 私は頷いた。

 いつもの石なら鎖で首に掛けるだけで済む。今はその石もなく、予備の石を並べた台に横になっている。セスが何度も私の手首に触れるたび、使える石が減っていった。


 夕鐘が鳴った時、私はまだ話せていた。

 母に、持ってきた鞄をそこへ置いてほしいと頼んだ。中には途中まで刺した縁飾りがある。明日の縫い物の集まりに持っていくつもりだったが、今から仕上げるのは難しそうだった。

 そこまで考えたところで、胸の奥を細い糸で縛られるような感じがした。


「少し、痛いです」


 セスは私の顔を見ずに石を替えた。

 窓の色が灰色になる頃には、痛みがどこから来ているのか分からなくなった。胸なのか背中なのか、息を吸おうとするたび場所が変わった。


「石は……」

「助手が衛吏と向かっている」

「まだ、戻って」

「今は話さなくていい」


 私は首を振った。黙ったら、そのまま誰にも聞いてもらえなくなりそうだった。

 母が手を握った。強く握り返そうとしても指が動かない。


「怖い」


 大丈夫よ、と言われると思った。

 母は何も言わず、私の指を自分の両手で包んだ。セスは母に場所を空けるよう言い、胸元の布を緩めた。


「サラ、俺の声は聞こえるか」


 頷くと視界が揺れた。

 次に何をされたのかは覚えていない。知らない声が増えた。石を浄める水の匂いがした。扉が開くたび、戻ったのか聞きたかったが、声にならなかった。

 途中で母を呼んだつもりだった。唇しか動いていなかったのかもしれない。


 次に目を開けた時、窓の桟の形が分かった。

 明るかった。

 胸元へ手をやろうとすると、母が毛布を少し下げてくれた。見慣れた石が肌の上にあった。鎖は首の後ろへ回り、いつもの重さがそこに戻っていた。


「返ってきたの?」


 母は頷いた。

 私は石に触れた。何度も確かめたかったのに、腕を上げ続けられなかった。

 手が毛布へ落ちた。母がそっと上から握ってくれた。


 ◇


 石が戻ったのは、日付が変わってからだった。

 セスの助手と衛吏が、ミレナの家から持ち帰ったという。私はその説明を聞きながら、夜の扉の音を思い出そうとした。どれだったのか分からなかった。

 セスは、他人の魔力を吸った石を私に合わせ直してから着けたと言った。


「しばらく毎日診る。石が戻っても、昨夜の負担が消えるわけじゃない」


 実際、その日は寝台から足を下ろすだけで息が切れた。

 自分で顔を洗いたいと言い、起こしてもらい、途中で横になった。母が持ってきた着替えを見て、袖を通すには腕を上げるのだと考えた。それがとても面倒に思えた。

 眠ればよくなるはずなのに、目を閉じると次の息ができるか気になった。

 母が家へ戻る時、私は戸口まで見送れなかった。


 レオンが来たのは翌日の午後だった。

 会うかと尋ねられて、私は会うと答えた。衛吏から話を聞かれたことは、もう彼も知っていた。

 持ってきた花は母が受け取り、離れた卓へ置いた。


「こんなことになるとは思わなかった。すまない」


 レオンは寝台の脇に立った。

 私は彼の顔を見た。眠っていないように見えた。シャツの襟には少し皺があり、いつもなら直してくるはずだと思った。

 その心配をしている自分が嫌で、毛布の縁を見た。


「夜には返してって、言いました」

「ああ。悪かった。ただ、ミレナも本当につらかったんだ。石をつけたら食事が取れて、顔色もよくなって」


 私は頷きそうになった。

 ミレナが食べられないことは前から聞いていた。会った時に笑っていても、次の約束を熱で断ることがある。私も似た理由で出かけられないから、仮病だと思ったことはない。


「それは……よかったと思います。でも、私の石を」

「だから謝っている。もう返っただろう。君もこうして話せるし、これからは僕が気をつける」


 これから、と彼は言った。

 結婚して同じ家に暮らした後も、石の入った箱を見つけるのだろうか。私が少し笑えば、今日は必要ないと決めるのだろうか。

 寝台の上で指先が冷たくなった。


「結婚はできません」


 レオンが口を閉じた。

 言った私も驚いた。もっと事情を説明してから伝えるつもりだったのに、その一文だけが先に出た。


「サラ。今は疲れているんだ。決めるのは落ち着いてからにしよう」

「家にも、そう伝えてください」

「たった一度の行き違いで、式をやめるのか」


 胸の石を握った。

 たった一度、と言われた夜が、まだ体から抜けていなかった。


「一度で、息ができなくなりました」


 声が掠れた。

 それだけで涙が出た。怒っている時まで泣いてしまうのは昔からで、泣き始めると相手が話をやめる。宥められ、あとにしようと言われ、結局は言えなかったことが残る。

 レオンも身を屈めた。


「分かった。もう話さなくていい」

「よく、ないです」


 水が欲しかった。言うと母が杯を渡してくれた。家同士の連絡は母を通すと伝え、彼には出ていってもらった。

 レオンは私と母を順に見た。最後には頷いたが、戸口で振り返った。


「衛吏にまで話す必要はなかったんじゃないか。僕に言えばよかったのに」


 私は杯を持ったまま、何も返せなかった。

 扉が閉まってから、言いました、と声に出した。誰もいない戸口へ向かって言うのが情けなかった。


 四日目に家へ帰った。

 階段は途中で休んだ。寝室の卓には、席次表が片づけられずに残っていた。私が付箋を貼った席の隣に、レオンの字でミレナの席が書き込まれていた。

 それを読んでも、彼女の名を消したいとは思わなかった。

 紙を丸め、引き出しにしまってもらった。


 その日の夕方、レオンの母親から手紙が届いた。

 治療にかかった費用は家で出す。息子も深く反省している。将来のある二人のために、婚約の件も含めて内々に話し合いたい。

 母は私が読み終わるまで待った。


「返事は、私からしましょうか」

「費用は払ってほしい。でも、それで終わりにはできないと伝えて」


 私は膝の上の手紙を畳んだ。

 あの人の「僕に言えば」に、寝台の上では答えられなかった。石を返してと頼んだことも、朝まで待てないと言ったことも、二人だけの話に戻せばまた消えてしまう。

 母には、婚約を終わらせる手続きを進めてほしいと頼んだ。衛吏にも正式に被害を届け出る。詳しい話を聞く係は、私が外出できるまで家へ来てくれることになった。


 最初の日、私は順番を何度も間違えた。

 手紙を書いたのはセスが来る前なのに、来てからだったと言いかけた。係は訂正して続きを待った。夜に何をされたか聞かれて、覚えていないと答えると、そこは薬師に確かめると言った。

 すべてを上手に話さなくても、話は先へ進んだ。


 審理で本人にも尋ねると聞かされた晩、私は紙に一文だけ書いた。


 夜になる前に、返してほしいと伝えました。


 泣かない方法は思いつかなかった。

 せめて、また言えなくなった時にどこへ戻ればよいか、分かるようにしておきたかった。


 ◇


 あの夜から三週間後、審理の日が来た。

 私は石の鎖を服の外へ出した。

 いつもは襟の下に隠している。見つけられると説明することが増えるし、相手に気を遣わせるのも苦手だった。けれど今日は、その石について話すために来た。

 母と別れて証言する席へ歩く間、靴音が妙に大きく聞こえた。

 レオンは弁護人の隣にいた。目が合うと、何か言いかけてやめた。少し離れた席にはミレナと付き添いの女性がいた。膝掛けを使い、卓には蓋付きの杯を置いている。

 私は空いていた椅子に座った。石は胸の上で小さく揺れた。


 最初に石の購入記録が示された。

 代金を払ったのは私で、受取人も私。セスの工房に残る調整の記録にも、私の名がある。

 レオンは持ち出したこと自体を争わなかった。


「返すつもりで借りたものです。婚約者の家には普段から出入りしていました。サラもミレナの病気は知っています」


 裁判官に、貸す許可をしたかと尋ねられた。


「していません。着替えから戻ると、箱がなくなっていました」

「その後、レオン氏から説明を受けた時には?」

「返してほしいと頼みました。夕鐘より前に」


 そこまでは言えた。

 レオンの弁護人は、私が以前ミレナに薬を分けたことがあると話した。それは本当だった。旅先で熱を出した時、私の荷物にあった市販の薬を、同行の薬師に確かめてから渡した。

 私はその時のことも答えた。だから今回も貸してくれると思ったのでは、と聞かれて、膝の上の紙を握った。


「私は、その場で返してと……言いました」


 声が硬くなった。

 初めにどう思ったかを何度聞かれても、返してと伝えた後まで初めのままにされるのは困る。

 言葉にする前に、裁判官がレオンへ顔を向けた。


「返還を求められた点は認めていますね」

「ええ。夕方までには、という話は。ただ、私はミレナの様子を見てから決めるつもりでした」


 私が寝台で聞けなかった答えだった。

 彼の中では、私に言われた時にもまだ決まっていなかった。夕鐘より前に返すのかどうかを、彼が決めるつもりでいた。


 次に、手紙を届けた使用人が呼ばれた。

 うちの居間では頭を下げていた人が、今は私の方を見ず、尋ねられたことに一つずつ答えていた。二人に会ったこと。レオンが手紙を読み上げたこと。ミレナがその場で返事をしたこと。

 手紙はミレナの家に残っていて、衛吏が石を回収した際に受け取っていた。

 裁判官が読んだ私の文章は、家で書いた時よりずっと落ち着いて聞こえた。


「胸の痛みと呼吸の発作が出る。命に関わると薬師から言われている。ここまで読み上げたので間違いありませんか」

「はい」


 使用人は答えた。


「お二人ともお聞きになりました。私は石をお預かりするつもりで待ちましたが、明朝レオン様がお持ちになるから帰るようにと」


 私は紙を握る手を緩めた。

 家を出る前には、この人まで責められるのではないかと心配していた。今も声は少し震えていたが、時刻を聞かれると考えてから答えた。分からない細かな時刻は、分からないと言った。

 それでよかった。私も、はっきりしないことを無理に埋めなくていい。


「手紙の内容は大げさだと思いました」


 レオンの声で、顔を上げた。


「昼には庭を歩いていたし、顔色もよかった。サラがミレナとの付き合いを気にしていたのも知っています。石そのものより、私が彼女の所へ行ったことが嫌だったのではないかと」


 胸の辺りが熱くなった。

 気にしていなかったと言えば嘘になる。約束を変えられた日はあったし、二人にしか分からない昔話が続くのも寂しかった。

 けれど、それを説明し始めたら、今日も私の石が遠くへ行ってしまう。

 裁判官が私に発言を求めた時、唇がうまく開かなかった。


「彼女と、会うことを……」


 紙を見た。自分で書いた字なのに行の端が滲んだ。


「すみません。お水を」


 杯を渡してもらった。片手ではこぼしそうで、両手で持った。

 傍聴席で誰かが身じろぎした。早くしなくてはと思うと喉が詰まった。レオンのいる方を見たくなかった。


「少し休みますか」


 裁判官が聞いた。

 私は頷き、それから慌てて首を上げた。


「休んだら、続きを話していいですか」

「はい。ここから続けましょう」


 杯を置き、手巾を目に当てた。泣いているところを見られたくなくて、顔ごと覆いそうになった。そうするとまた声が聞こえなくなるので、膝へ戻した。

 静かになっても、涙は止まらなかった。


「石を返してほしかったんです」


 やっと言えた。


「迎えに来てとも、そばにいてとも書きませんでした。石を、使いの者に渡してくれれば。それだけでよかったんです」


 息を継いだ。

 レオンが顔を上げた。ついそちらへ向かって話しそうになり、卓の端を見た。


「ミレナ様の具合が悪いのは知っています。私が、夜に息をできなくなることも、レオンは知っていました。そうなる前に、返してほしいと伝えました」


 膝の紙と同じ所へ戻れた。

 その先は書いていなかったが、口を閉じたくなかった。


「帰ってきた使いの者から、明日の朝と聞きました。私が言ったことは……聞こえていたのに。夜が来るのを、どうしたらいいか分からなくて」


 涙を拭いた。

 昼の窓と、庭の影を思い出した。天気がよければ、もっと明るいままでいられるような気がしていた。


「工房へ行きました。自分の家で待っていては駄目だと思ったからです。夜の途中からは、何をされたか覚えていません。返してもらったところも」


 裁判官が、覚えている範囲で構わないと言った。


「朝になって、石がありました。でも起きられなくて。顔を洗う途中で休んで、家に帰ってからも、階段を上がれなくて……」


 言葉が細かく切れた。

 自分でも頼りない話し方だと思ったが、聞き返された所は言い直した。夜に何回発作が起きたかは分からない。苦しくなり始めたのは夕鐘の後。意識が戻った時には窓が明るかった。

 話し終えると、膝の紙の角が濡れていた。


 セスは治療の記録を手に証言した。

 工房に着いた時刻。発作が始まった時刻。予備の石を替え、ほかの薬師を呼んだこと。石が戻った時刻。

 夜の記録を聞き、あの知らない声は応援に来た薬師だったのだと分かった。


「石が戻ったのは、夜半を過ぎてからです。調整をし直して着けましたが、衰弱は翌日以降も続きました。現時点でも治療前の状態には戻っていません」

「予備の石で対処できたのなら、危険は避けられたのでは」


 弁護人の問いに、セスは記録から顔を上げた。


「治療を続けた結果、朝を迎えられたんです。放っておいても助かったとは言っていません」


 彼はそこで言葉を切り、夜の途中で脈と呼吸が乱れた時刻を答えた。どこまで危険だったのかは、来援した薬師の記録とも照らして確認された。

 いつもの石を使っていれば、この発作を避けられたと考えられる。昼に歩けていたことは、夜に石が要らない理由にはならない。

 その説明の間、私は胸の石を見ていた。


 ミレナが話したのはその後だった。


「レオンが、サラ様は昼間なら大丈夫だと……。使っていいと言われたので」


 声が小さかった。杯を持ち上げる時、付き添いの人が手を添えた。

 石を着けている間は熱が下がり、楽になったという話には、彼女を診ている薬師の記録も添えられた。私はそこに異議を挟まなかった。


「では、手紙を聞いた後は」


 裁判官が尋ねると、ミレナは杯へ目を落とした。


「外したら、また苦しくなると思いました」

「返すよう求められていることは理解していましたか」

「はい。でも、今夜だけ、まだ使いたいと。レオンも朝ならいいと言ってくれましたから」


 レオンの弁護人が何かを書き留めた。

 彼女は彼の方へ顔を向け、それから私を見た。


「本当に具合が悪かったんです」


 私は頷いた。頷いてから、それだけでは足りないと気づいた。


「知っています」


 私の声でミレナの肩が少し下がった。


「だから、嘘だとは言いません。でも手紙を聞いたら、返してほしかったです。私も、苦しくなると伝えたので」


 また涙が出た。ミレナは何も答えず、付き添いの人から手巾を受け取った。

 誰が先に泣きやむかを待つ時間にはならなかった。裁判官は衛吏を呼び、薬師の返還要求が届いた後も石が返らなかった経緯を確かめた。

 門で取次ぎを断られ、治療に必要だと告げても入れなかったこと。セスの届け出と診療の証明を受けた当直の裁判官が、返還命令を出したこと。命令を携えた衛吏が家に入り、石を受け取ったこと。

 命令が来るまで待った理由を問われ、レオンは「朝には返すと言っていた」と繰り返した。

 私はもう、朝では遅いと言わなくてよかった。


 判決が言い渡されたのは、その五日後だった。

 レオンには、危険を知らされた後も治療に必要な石の返還を拒んだ罪で、一年の拘禁が命じられた。応急処置と、回復までの療養にかかる費用の賠償も。

 石を戻し、謝罪したことは考慮しても、発作が起きた事実と返還拒否の責任は消えない。裁判官はそう告げた。

 ミレナには、返還の要求と危険を知りながら使い続けた分の消耗と、再調整の費用を負担するよう命じられた。

 レオンは弁護人へ何か囁いた。弁護人が低い声で答えたが、私には聞こえなかった。

 閉廷を告げられ、母が迎えに来るまで、私は椅子から立てなかった。

 怖かった。今日も、先日も。

 けれど膝の上の紙に、まだ言えていないことは残っていなかった。


 ◇


 婚約解消の書面が揃ったのは、それから一週間後だった。

 レオンの家は一度、彼が戻るまで待ってほしいと申し入れた。母から聞いた私は、待たないと答えた。

 彼の服役が終わる日と、私の結婚する日を結びつけて考えることが、もうできなかった。

 席次表を作っていた卓で署名した。私の名を書く所は狭く、最後の字だけ少し小さくなった。


「もう一度、書き直しますか」


 立ち会っていた人に尋ねられ、大丈夫ですと答えた。

 その返事なら、今日は嘘ではなかった。読める字で書けている。母の手に渡すと、紙はほかの書類と一緒に封筒へ収まった。


 式のために届いていた布や飾りも、順に片づいた。

 白い手袋を箱へ戻す時、レオンに腕を預けて歩く自分を思い出した。昔、彼がそうしてくれた帰り道は楽しかった。今でも、あの日まで全部つらかったと思うわけではない。

 それでも次の夜、石が手元にあるかどうかを彼に預けて暮らすのは嫌だった。

 手袋を収めた箱に蓋をした。


 その午後は石の調整があった。

 返ってきてから毎日受けていた診察は、週に二度へ減っている。セスが往診する日は、居間の卓へ道具を広げ、目の前で石を浄めてくれた。

 私は針仕事の籠を膝に置いて待った。

 あの日、工房へ持っていった縁飾りはまだ終わっていない。同じ模様を続けるだけなのに、少し縫うと肩が重くなる。


「明日の集まりなら、これを持っていけると思ったんです」


 セスは細い器具で石の縁をなぞっていた。


「行くのか」

「途中まででも見せてと言われたので。少し顔を出すくらいなら」

「昨日、散歩から帰って寝込んだと聞いたけど」


 私は針を布へ刺した。

 花屋まで往復しただけだった。途中で椅子を借りたことは、手紙には書かなかった。友人には、久しぶりに買い物ができて嬉しかったと知らせた。

 それは本当だ。けれど、帰ってからずっと寝ていたことも本当だった。


「行かなくてはいけない用事じゃありません」

「なら、明日は休んだ方がいい。昨日の疲れが残っているなら、なおさらだ」


 セスは石を布で拭き、私が差し出した手のひらへ載せた。


「夜は必ず。昼に外すのは調整の時だけ。もう少し回復したら、また時間を延ばせる」

「はい」


 石は冷たかった。

 鎖を首の後ろへ回すと、留め具が指から逃げた。もう一度つまみ直して穴へ通す。いつもは考えずにできることだった。

 胸へ下りた石を服の内側に収めた。セスが手首に触れて様子を確かめ、次に来る日を告げた。

 私はその日を手帳へ書いた。午前中には別の予定を入れなかった。


 帰りの挨拶をするために母が立つと、私も立ちかけた。膝の籠が滑りそうになり、抱え直す。


「ここから失礼します」


 セスは片手を上げ、道具鞄を持って出ていった。

 私は椅子に残った。玄関まで歩けないわけではない。でも座っていたかった。


 母が戻るまでに、友人への返事を書いた。

 明日の集まりは休みます。よかったらこちらへ、という続きを書きかけて、ペンを止めた。人に会えば楽しいだろうし、少し話したい気もした。けれどお茶を飲みながら何時間も座るのは、今の私には長かった。

 まだ疲れやすいので、明日は家で休みます。また会えるようになったら手紙を書きます。

 そう続けて封をした。


 縁飾りも籠へ戻した。縫いかけの端を内側へ折り、針の先が出ていないことを確かめた。

 寝室へ行くと、窓から夕方の光が入っていた。

 あの日から、日が傾くと胸元に手をやる癖がついた。外していないと分かっていても、何度も確かめてしまう。今日も服の上から触れ、鎖を辿った。留め具はきちんと閉じていた。

 掛け布を引き上げると、肌に触れた石が少し動いた。私は指で位置を直した。今夜使うために、誰かから返してもらうのを待たなくていい。

 鎖から手を離し、まだ明るい部屋で目を閉じた。

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― 新着の感想 ―
考えが足りない婚約者でしたね。持っていた薬でよくなったのなら、その薬師を紹介してもらう方を考えるべきだったのに。 親兄弟でも命に関わる物だったらおいそれと出来ない事なのに。解消して正解です。 「未…
これ、未必の故意が成り立つのではない?
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