【普通】ならどれほど良かったか
この物語には、ある名字をモブとよぶ表現が含まれますが、その名前に対する差別を助長したり、示すものではございません。
「あんたの父親のせいで私は、私はッ」「二度とその顔を見せないで!!」「あんなクソな父親なんだから、お前も悪魔に決まってる!」
目が覚める。俺の首筋を二粒の水滴が伝った。
窓の外からは耳障りな蝉の音。扇風機がゴーッと音を立てて勤務している。
「また、この夢か」
俺は息をつき、顔を上げると扉を開けてリビングに出る。
リビングはエアコンによって程よく冷えており、朝の寝ぼけた頭が少しずつ整ってきた。
『ハルへ おはよう。今日の朝ごはんは卵サンドにしてみたよ。今日も学校頑張ってね』
そんな書き置きをテーブルの上に見つけると、思わず口元が綻んでしまう。
「全く、朝ごはんは俺が自分で作るっていつも言ってんだろ」
小さなリビングに、2つしかない椅子。お世辞にも贅沢な暮らしとは言い難いが、朝から晩まで働いてなお俺の世話を焼こうとする母さんを見たら、この程度の不便は安いものだ。
洗面所へ向かい、顔を洗う。
鏡は極力見ないようにしていたはずなのに、俺の視界の先に新緑色の髪が映った。
自然に、俺の視線は髪の主の顔へと移っていく。
そう、誰よりも整った、世界で一番醜い顔へ。
「あんたの父親が私を捨てた‥‥か。」
アイツとそっくりな俺の顔。
女にだらしない遊び人かつ日常的に暴力を振るうクズな男。
俺と妻の母さんを置いて別の女と蒸発した薄情者。
そんな父親と呼ぶのも憚られるような男の血は、けれどしっかり俺の中にも流れていた。
「チッ」
俺は小さく舌打ちすると、洗面台の脇にある棚から不織布マスクを引っ張り出し、しっかりと鼻まで覆った。
俺が通学路を歩いていると、周りからいくつもの視線を感じた。またかよ。
「さ、桜井くん。おはよ」
「‥‥はよ」
俺が挨拶を返すなり、話しかけてきた女子は顔を赤らめ友達とキャーキャー言いながら走り去っていく。
『‥‥よし、ちゃんと女子とも会話できる。もう大丈夫だ』
自分に言い聞かせる。変な汗が出て、手が震えているのは気の所為だ。
学校に着くと、まだ朝学活までには十分な時間があった。
『屋上で昼寝でもするか』
校庭を歩きながらそう思っていると突然、肩をぽんぽんと叩かれた。
「桜井くん。ちょっと二人で話したいことがあるんだけど、いいかな?」
俺は勇気を振り絞って振り返る。ふんわりとウェーブがかった長い髪に大きな丸い瞳。俺と同じクラスの女子だ。名前は、えーと。
「お願い、すぐ終わるから。‥‥ついてきて、くれるかな‥‥? 」
彼女は不安そうに、けれども期待のこもった目で俺を見つめる。
鼻腔に流れ込むきついフローラルの香りが俺の思考を阻害した。
かわいい彼女に半ば連れ去られるように校庭の端、体育館横に移動する。
名前も思い出せない彼女は俺を振り返り、頬を紅潮させて頭を下げる。
「私、桜井くんのこと、好きなんです‥‥。付き合ってください!」
そんな彼女の言葉とともに、俺の脳内にはまた幼少期の記憶が蘇る。
顔から血の気が引き、耳の奥からキーンという音がした。
『あんたの父親のせいで私は、私はッ』
ここで彼女と付き合ったとして俺は、俺が彼女を傷つけない理由がどこにある。
俺だって、あいつと同じで女性に暴力を振るって、愛に飽きたら捨てるかもしれない。そんなことが容易に想像できてしまう。
俺の場所だけ地震が起こったように、体がガクガクと震え始めた。
それに、俺は、俺は女性が‥‥‥。
そこで、急激に吐き気がこみあげてくる。
「‥‥ッ!わ、悪ぃ」
「え、桜井くん!?」
俺は彼女を置き去りにして、逃げるように走り去る。
「はあッはあッ‥‥」
トイレに入り、扉を閉め蹲る。マスクが息苦しい。でも、絶対に外したくない。
俺はなるべく頭を空っぽにして、大好きな母さんの作ったオムライスのことだけを考える。
たったそれだけを考えて、一体何分経っただろうか。ようやく呼吸のリズムが元に戻ってきた。
「今日桜井くん見かけちゃった!相変わらずめっちゃイケメンで朝から眼福だったよ~」
そんな女子の話声が遠くで聞こえた。思わず拳を握りしめる。
俺だって。
「俺だって、普通ならどれほど良かったか‥‥!!」
俺のつぶやきは、誰にも届くことなく少しアンモニアのにおいがするトイレの大理石に吸い込まれていく‥‥はずだった。
そっと俺の頭に手が添えられて、そのままやさしく撫でた。
「!?」
俺はハッと顔を上げる。長い前髪に、丸い瓶底メガネ。モブ陰キャとしか言いようのない見た目の男がそこにいた。
けれど、ぶ厚いレンズの奥で細められた目はどこまでも深い藍色で、吸い込まれてしまうような錯覚を覚える。
「ごめんね。扉に鍵かけてなかったから。聞こえてきた呼吸も乱れてたし、熱中症かと思って心配で覗いちゃったんだ」
「‥‥‥」
黙りこくる俺に、そいつは頭をなでていた手を止め立ち上がった。
今までしゃがんでいたからよく分からなかったが、その男は存外背が高かった。
「君、2年4組の桜井だよね?俺は1組の山田っていうんだ」
その言葉に、俺は思わず吹き出してしまった。見た目だけじゃなくて、名前もモブなのかよ。
「よかった。やっと笑ってくれた。‥‥‥桜井の顔がずっと青くて、よっぽど辛い思いをしたのかなって」
「いや、いいんだ。ありがとな山田。俺はもう大丈夫だ」
「そっか。‥‥‥でも本当に限界が来て、気持ちが溢れそうになったら俺を頼ってね。そのための友達だろ」
そう言って笑う彼の横顔を見たとき、俺の心臓は小さくはねる。
人のテリトリーにずかずかと分け入り、出会ってすぐの俺を友達と言い切るある種の豪胆さには、俺は見覚えがあった。
「いいや。ごめんな、山田」
自分の山田に対する気持ちがただの〝好き〟ではないことは明白だった。
キーンコーンカーンコーン
「うわ!始業のチャイムなった!やばい、急ごう桜井!!」
「ああ」
夏の熱気が冷めない廊下を二人して駆けていく。耳障りだと思った蝉の鳴き声も、今はなぜかあまり気にならなかった。
俺は、山田に恋をしてしまった。




