色眼鏡を外さないで
物事を色眼鏡で見てはいけないと言われるが、時には色眼鏡をかけたままでいて欲しいと思うこともある。
色眼鏡とは、偏った考え、偏見という意味であり、偏見や先入観を持たず、公平、公正に物事に接するということは、実に正しい言葉、正しい態度である。それを悪いことだと捉える人間はそうはいないだろう。
だが、あえて言いたい。時と場合によっては色眼鏡を外さないで欲しいと。
色眼鏡を外すということは、物事をありのままに、フラットな観点で評価するということになるが、人によっては、素の自分、ありのままの自分を見られるのは恥ずかしいと感じる場合もあるのではないか。マイナスの評価になっても良いから、偏見という名のフィルター越しで自分を見てほしいと考える人がいても不思議ではない。
明らかにおかしな化粧をして人前に出ている人がいるくらいだ。素の自分を隠すためなら、あえてみっともないことをすることを厭わない人間がいるのは自然なことのように思える。
他人からの評価について考えると、自分に向けられる視線に対して、ある程度恣意的にフィルターを仕掛けることが可能だと考える。相手にこう見えてほしいという姿から逆算して、外見や言動を決めていけば良いのである。
もちろある程度の労力は必要となるから、色眼鏡を外そうという機運があまりに強くなると、せっかくの仕掛けが徒労に終わってしまうことになる。
人に見られても恥ずかしくないように、素の自分、ありのままの自分を魅力的なものに磨き上げれば良いのではないかという考えもあろうが、他人のために本来の自分を捻じ曲げることに抵抗を覚えるのである。他人に見られるのは嫌だけど、素の自分、ありのままの自分というものを本人としては気に入っているという場合もある。これが困りものなのである。
他人の目線なんて気にしない、自分は自分のやりたいように生きると言い切れる人間は一部の天才的な存在に限られるだろう。仮にそのように豪語しても、心の底では他人の視線を気にしてしまうのが人間というものである。その一方で素の自分のことも大切にしたいという気持ちも捨てきれない。自尊心と言うべきか、絶対不可侵の領域というものを人は少なからず持っているものである。
それを守りつつ、他人、社会と適切に付き合っていくために手っ取り早いのは、色眼鏡を通して、誤解されながら生きていくことなのではないだろうか。その色眼鏡、誤解の及ぶ範囲を自分でコントロールすることができれば、自尊心を損なわずに人付き合いを成立させることが出来ると思うのである。
他人からの評価なんてものは、いずれ何の価値もなくなるものである。人生の終わりにおいて、自分を評価するのは自分しかいないのだから、他人の評価によって自分の価値が左右される状態というのは非常によろしくない。
最後の瞬間に後悔しないようどんな風に生きていくべきか。それを考えると、他人に見せる自分はある程度作り物のような形にした方が望ましいと思える。そうすることで、自分の価値を自分で決めることができようになるのではないだろうか。終わり




