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記憶の中の君に恋をする

作者: 九条翠
掲載日:2026/02/02

彼女の心には、彼女を含めた9つの人間が共存していた。


同じ顔で同じ身長、そして同じ声。

それなのに、選ぶ言葉も、人との距離感も、みんな違っていた。


主人格の彼女は、現実的でどこか怯えているようだった。

別人格の彼女は、古くからの親友のような芯のある女性だった。


今回の話は、どちらの物語でもない。

別人格の彼に恋に落をする話。

「サヨナラだね」

そういった彼女は泣いていたのを覚えている。

泣いていたけれど、凛としていて穏やかな表情だった。


「そうだね」

私は静かに頷くことしかできなった。


「誰も悪くない」

「分かってる」

言い訳は理由はいらなかった。

私たちは一緒にいてはいけないと、ずっと昔から知っていたから。


一緒にいた長い時間をなかったことにはしたくなかった。

私さえ覚えていればそれでいいと、そう思った。

離れることが、私たちの選択だったから。


だから私は、記憶の中の君に恋をしている。



改札を抜けると彼女はもうそこにいた。

壁にもたれて、スマホを見ている。私に気づくと顔を上げて、小さく手を振った。


「お疲れさま」

いつもと変わらない優しい声だった。

でもそのあと、いつもなら続くはずの言葉がなかった。


「待った?」

「ううん」


たった3文字。

いつもなら「少しねー」とか「全然待ってないよ!」とか、なにか一言付け足してくれていたはずなのに。


「じゃあ、行こっか」

そう言って2人はならんで歩き出した。

距離は少しだけ空いていた。意識しなければ気づかない程度の。

でも、はっきりと分かる距離。


「今日どこ行く?」

「どこでもいいよ」

答えは穏やかだった。いつもとは真逆な彼女に違和感を覚えながら、近くのいつものカフェに入った。


向かい合って座る彼女はメニューを見るために視線を落としていた。

「決まった?」

「うん」

そう言って彼女はメニューを閉じたけれど、何を頼むのかは教えてくれなかった。

店員がきて注文を終えたが、いつも会話が絶えなかった私たちが、今日だけは会話がなかった。


「最近忙しそうだね」

「そんなことないよ」

短い返事。

それ以上会話が広がることはなかった。

いつもなら彼女の愚痴を聞いて、話が逸れて、最後には笑い合っていたのに。


私はいつもと違う彼女の違いを数えることはしなかった。

何かわからない怖さがあったから。


珈琲が運ばれてきて彼女は一口飲んでから、少し顔を歪めた。

「苦かった?」

「いや」

それだけ言ってまた一口飲んだ。

その仕草もいつもとは少し違って見えた。


何かがいつもとは違う。でもその違いが何なのかはわからなかった。

それでも私は、

「だれ?」

とは聞けなかった。

聞いてしまえばこの関係が壊れると思ったから。


それから少し無言の時間が続いた。

ふと彼女を見ると、どこかぼーっとしていた。

「大丈夫?」

気づいたらそう声をかけていた。

「え何が?それよりさー聞いてよ!!!」

そう彼女が言ったとき、私はとても動揺した。

だって目の前の彼女が、あまりにもいつも通りの彼女だったから。

私は、今日初めていつもの彼女に会った。そう感じた。


「そろそろでよっか」

「そうねー」

そう言うと、お互い立ち上がりいつもの距離で並んで歩く。

いつものように腕を組んで。


⋯あのときの彼女は、

そんな考えをかき消すように、私は帰路についた。


別れ際、私は彼女の名前を呼ばなかった。

彼女もまた、私の名前を呼ぶことはなかった。


「またね」

そう言って小さく手を振った。

私はその背中を見おっくてから、しばらくその場を動けずにいた。


彼女に対して、違和感は確かにあった。でもその正体を確かめられるほど私には勇気がなかった。


この日はまだ『大丈夫』そう思っていたから。



今日は、あなたに名前を呼ばれない私だった。


あなたが改札を抜けてくるのを見たとき、胸の奥が少し痛んだ。

これは私の感情じゃない。

分かっているから、顔に出すことはしなかった。


「お疲れさま」

声は同じ。言葉も多分、きっと問題ないはずだ。

でも私はこの言葉の続きを知らない。

いつもなら私はきっと何かを言う。

なんでもない話をして、笑って、距離を詰める。


僕には、どうしてもそれができなかった。


君が気づいていることにも、気づいていた。

視線の揺れも、間のとり方も、

それでも僕は、君に名前を呼ばせなかった。


聞かれたら、名前を呼ばれたら、終わる。

そう分かっていたから。


カフェで向かい合って座ったとき、君は何も聞かなかった。

それが僕にとっての救いだった。


僕は君を見ないようにして、彼女との関係やこの時間が崩れないように振る舞った。


この人は僕のものじゃない。

それだけはずっと分かっていた。

でもこのまま、この時間が続けばいい。そう思った。


でも、そんなこと許されるはずがなかった。


音が少しずつ薄れていく。

椅子の感触、珈琲を見ていた視界が、僕のものではなくなっていく。


『もう時間。』


誰かの声が聞こえた気がしたけど、はっきりとはわからなかった。

でもこれだけはわかった。


呼ばれているのは僕じゃない。


「大丈夫?」

君の声が聞こえる。

その問いに答えようとして、やめた。

僕には答える資格がないことを思い出したから。


眠りにつくみたいに、意識が離れていった。

眠りにつく前思ったのは、

君に名前を呼ばれなくてよかった。

ただ、それだけだった。



あの日のことを、私は何もなかったみたいに終わらせた。

名前を呼ばず、違和感の理由も聞かず、ただ「またね』と終わらせたあの日のことを。


それから少し時間がたった。

仕事も、彼女とのやり取りも、何も変わらない日常。

変わらないのに何かが噛み合わない。


彼女からメッセージは来る。

短く淡々とした言葉だけ。あの時の彼女のような言葉だけで。

前みたいになんでもない会話をすることも、彼女の愚痴を聞くことも、なくなってしまったけれど。


「大丈夫。きっと私の勘違い」

そう自分に言い聞かせるように繰り返し言葉を口にした。


私がそう思いたかったから。



最近、彼女と会うことが減った。

理由を考えればいくつもあるのに、どれもしっくりこない。

『忙しいだけ。タイミングが合わないだけ』

そう思うことにしていた。


久しぶりに彼女から会おう連絡が来ていた。いつも通りの彼女だと安心した。

会うことになって、私は足早に待ち合わせ場所に向かった。

待ち合わせ場所に着いて早々に彼女を見つけた。

立ち方も、服のセンスも、前と一緒で何も変わってないのに、それなのに近づくにつれて、体が少しだけ重くなった。


「久しぶり」

そう声をかけると、彼女は1拍、遅れて笑った。

その些細な間が、妙に胸をざわつかせた。

並んで歩いているのに、前のように距離は近くなくて。

腕を組むことも、肩が触れることもなかった。


それでも話題は続いた。

仕事のこと、趣味のこと、そんななんでもない会話。

でもどれも浅くて、どれも長くは続かなかった。


私は何度か彼女の名前を呼びそうになって、やめた。

呼ばないほうがいい気がしたから。

理由はわからなかった。

ただ、そうしたほうが、この時間が長く続く。

そんな気がしたから。


あの日と同じカフェであの人同じように向かい合って座った。

彼女が私を見ていない。

視線はカップの縁や、窓の外に向けられていた。

彼女の世界に、私はいなかった。


⋯今ここにいる彼女は誰なんだろう。


そんな考えが浮かんで、すぐに打ち消した。

考えてはいけない。

体が先に、それを否定していたから。


彼女は別れ際、小さく手を振った。

今日、彼女の目に私が映ったのはこの時が初めてだった。

私は嬉しくて、笑って手を振り返した。


帰り道、胸に残ったのは嬉しさでも寂しさでもなかった。

言葉にできない、形のない不安。

私はその気持に気づかないふりをした。


『まだ大丈夫』

そう思いたかったから。


このときの私は、大切な何かを失っている最中なんだと、気づくことはできなかった。



あれからしばらく彼女とは会っていない。

連絡は取っているのに、どこか噛み合わない。

文章は丁寧で、言葉も優しい。

それなのにお互いの名前だけが、どこを探してもなかった。

その違和感だけ感じながら、時間だけが過ぎていった。


私はそれに気づかないふりをして。

そのほうが彼女にとって、私にとっていい気がしたから。

それに、気づかないふりはもう慣れたから。


ある日の夜、暗い部屋で天井を見つめていた。

「早く気づいて⋯」

聞こえないはずの彼女の声が聞こえた。

でもそれは、私の知っている彼女の声ではなかった。


低くて、静かで、泣きそうな声。


⋯彼女じゃない。

そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。


その声を、これ以上思い出そうとするのをやめた。

思い題してしまえば、確信に変わってしまえば、終わりだと、そうわかっていたから。


次に彼女に会ったのは、それからすぐのことだった。

立ち話をして、すぐに解散する約束だった。


「元気?」

彼女は笑って私を見つめた。

その視線が、前よりも真っ直ぐで、笑っているのに苦しそうだった。


「あ⋯えっと、」

つい喉まででかかった彼女の名前を、私は無意識に飲み込んだ。


「呼ばないで」


そんな声が聞こえた気がして、これ以上言葉が出なかった。


会話は短く、必要なことだけで終わった。

「サヨナラだね」

そう言って彼女は一歩だけ私から距離を取った。


それが何故か、どうしようもなく怖かった。

「そうだね」

私はそれだけ言って彼女の元を去った。


帰り道、胸の奥がざわついて仕方がなかった。

でも、わからないままじゃだめなんだということはわかっていた。


その夜、夢の中に彼女が出てきた。

「君は優しいね」

そう言っていた彼女の声は、

低く、静かで、泣きそうな声。

彼女ではない誰かの声。


目が覚めても、その声だけが異様に耳に残っていた。


靄がかかったようなこの気持ち。

私はまだこの気持ちに名前をつけない。

つけてしまえば、きっともう、後戻りはできないから。


それでも確かに、何かが胸の奥に沈んでいった。


それが恋だと知るのは、

もう少し、ずっと先のことだった。



あの日を境に、彼女とは会わなくなった。

理由はわかっていた。


連絡は少しずつ少なくなって、ある日を境にぱたりと途切れた。

不思議と焦りはなかった。

そうなることが、私自身分かっていたから。


日常はいつも通り続いた。

朝起きて、仕事をして、帰って、眠る。

何もなかったように、何も失っていないみたいに、いつも通りの時間が流れていた。


ただ、彼女の名前を呼ぶ必要がなくなっただけ。


ただそれだけ。そう思っていた。


ある夜、ふとスマホを手に取って、無意識に彼女の名前を探している私に気づいた。


⋯あ。


胸の奥が、静かに沈んだ。


もう呼べない。

呼ばれない。

それだけのことなのに、気づいたら涙が溢れていた。


あのとき名前を呼ばなかった理由が、やっとわかった。

呼ばなかったんじゃない、

呼べなかったんだ。

呼んでしまえば壊れるとわかっていたから。


何度思い出しても、目に浮かぶのは、距離感のある歩幅や、逸らされた視線。

気づかないふりをした何かがやっとわかった。


彼女じゃない、あの子に出会ったときから私はあの子に惹かれていた。


気づいたときには、もう遅かった。

あの子にメッセージを送る資格も、会いに行く資格も私にはなかったから。


私を守るために、私から離れていった彼女たちも、

彼女たちを守るために、気づかないふりをした私も


どちらも同じくらい優しくて、同じくらい残酷だった。


私は、どうしようもない後悔に苛まれた。

彼女にあの子のことを聞いていれば、彼女たちにもっと寄り添っていれば、

最後に会った、彼女たちの表情をもっとちゃんと見ていたら、

そんな遅すぎる後悔。

目が腫れるくらい泣いて、気づけば朝だった。


この恋は始まったときには。もう終わっていた。

気づくのが遅すぎた。

気づかないふりをすることだけが、彼女たちのためだと思っていた。

だけど、あの子は、私に気づいてほしかったんだと痛感した。

あの子との記憶が、私の脳内を埋め尽くした。


「梨央⋯」

気づいたら彼女の名前を呼んでいた。

あの子の名前は知らないから。

名前を聞いていればよかった。気づいてあげればよかった。

そんな後悔をずっと抱えて、これからの彼女がいない日常を送るしかないのだと最後に気づいてしまった。


それでも私は、記憶の中の君に恋をする。

最後までよんでくださり、ありがとうございました。

今回は彼女と親友、そしてあの子の物語でした。他の6人は皆さんの頭の中で想像してください。

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