第95話 鉄の父、折れた白銀、そして夜を駆ける怪物
旅立ちの前夜。
ヴォルテックスの宿屋は、死のような静寂に包まれていました。
「……おや?」
私が深夜に目を覚ますと、部屋の中に甘ったるい白煙が充満していました。
『夢幻の催眠香』。
ドラゴンですら三日は起きないと言われる、超強力な睡眠ガスです。
「(肺が焼けるような感覚……。いい香りですが、少し咽せますね)」
私は『状態異常耐性』と、肺の『超速自己再生』によって平然と呼吸をしていましたが、他のメンバーはそうはいきません。
隣のベッドのカイルさんは泥のように眠り、天井裏で警護していたはずのリンさんも、糸が切れた人形のように床に落ちて寝息を立てています。
無理もありません。彼らは日々の過酷な特訓に加え、昨日の騒動や連日の祝賀会による気疲れも重なり、疲労の極致にありました。そこへ不意打ちのガス。抵抗するのは不可能です。
そして、エレナさんのベッドだけが、もぬけの殻でした。
「(争った形跡がない。……プロの仕業ですね)」
枕元に、一枚の羊皮紙が置かれていました。
そこには、エレナさんの筆跡で、こう記されていました。
『突然ですまない。私は実家に戻ることにした。
やはり、家を捨てて冒険者になるなど、私には無理だったようだ。
君たちとの冒険は楽しかったが、ここでお別れだ。
私のことは忘れてくれ。探さないでほしい。
エレナ・ガードナー』
一見すると、冒険に疲れた彼女が、自らの意思で去ったように見える別れの手紙。
丁寧な字で書かれています。
「……なるほど。よくできた偽装工作です」
私は手紙を鼻に近づけ、クンクンと匂いを嗅ぎました。
微かに残る、催眠香の甘い香り。
そして何より。
「エレナさんが、『楽しかった』なんて過去形で終わらせるはずがありません。彼女はもっと不器用で、そして義理堅い人ですから」
彼女なら、去るにしてもこんな一方的な書き置きで済ませたりはしない。
必ず、カイルさんやリンさんの目を見て、言葉を尽くして説得しようとするはずです。
それをさせなかったということは――。
「強制連行ですね。……まったく、人の純情を踏みにじるとは」
私は手紙を握りつぶしました。
紙の中で、ガードナー家の紋章がクシャリと歪みました。
◇
街を出て街道をひた走る、漆黒の馬車。
その中で、エレナは手足を魔封じの鎖で拘束され、震えていました。
目の前には、一人の男が座っています。
岩塊のような巨躯。兄ヴァルデオなど比較にならない威圧感。
ガードナー家当主、ガリウス・ガードナー伯爵。
「父、上……」
「黙れ」
ガリウスの声は、重低音の響きだけでエレナの鼓膜を打ち、思考を停止させました。
絶対的な支配者。
幼い頃から、エレナにとって彼は「恐怖」そのものでした。
幼き日の稽古。木剣を持った父は、まだ幼い娘に対し、防具の上から容赦なく骨を砕くほどの重撃を叩き込みました。
『なぜ攻めない』『なぜ怯む』『軟弱者め』。
罵倒と共に打ち据えられ、痛みと恐怖で動けなくなると、ゴミを見るような目で吐き捨てられたのです。
『お前にはガードナーの血が流れていないのか』と。
その絶対的な暴力と否定の記憶が、トラウマとなって彼女の魂に焼き付いていました。
「ヴァルデオが負けたと聞いた時は耳を疑ったが……。まさか、あのような下賤な連中に感化され、小賢しい小細工(技術)を覚えるとはな」
ガリウスが、エレナの頬を無造作に掴み上げました。
ミシミシと顎の骨が悲鳴を上げます。
「『受け流す』だと? 軟弱な。ガードナーの家訓を忘れたか。『敵を粉砕し、踏み潰す』。それが唯一の正義だ」
「で、でも私は……仲間を守るために……」
「仲間? 私の部下が残した『別れの手紙』を読んで、今頃はお前を恨んでいるゴミどものことか?」
ガリウスは鼻で笑いました。
「安心しろ。あんな手紙を見れば、彼らもお前に愛想を尽かすだろう。『裏切られた』とな。……お前はもう孤独だ」
「そ、そんな……!」
「お前はただ、政略結婚の駒として、家のために腹を痛めればいいのだ」
エレナの心の中で、何かがポキリと折れました。
積み上げた自信。仲間との絆。
それら全てが、父親という絶対的な暴力と、狡猾な策謀の前では無意味だと悟らされたのです。
「あ……ぁ……」
エレナの瞳から光が消え、ただの怯える子供に戻ってしまいました。
抵抗する気力すら湧きません。
この男には勝てない。逆らえば、もっと恐ろしいことが起きる。
絶望が、彼女を塗りつぶしていきました。
◇
馬車は夜の街道を猛スピードで駆けていました。
護衛の騎馬隊は10名。全員がAランク相当の精鋭騎士です。
「伯爵様、そろそろ関所です」
「構わん。金貨の袋を投げつけてやれ。門番ごとき、金で黙らせればいい」
御者が指示通りに革袋を投げると、関所の兵士たちは中身を確認して黙認しました。
金と権力。
それが、ガリウス伯爵のもう一つの武器でした。
ドンッ!!
突然、馬車の屋根に何かが落下したような衝撃が走りました。
馬が嘶き、急停止します。
「な、なんだ!? 敵襲か!?」
護衛の騎士たちが一斉に剣を抜きます。
月明かりの下、馬車の屋根の上に「それ」は立っていました。
夜風に靡く黒いスライムローブ。
首元には赤いチョーカー。
「こんばんは。夜風が気持ちいいですね」
私、ルシアン・セイントは、にこやかに手を振りました。
「貴様……! どこから現れた!」
「走ってきました。馬車って意外と遅いんですね(時速60km程度でしたので、準備運動にもなりませんでした)」
私は屋根から飛び降りました。
着地の衝撃で地面が陥没します。
「何者だ! エレナ様の手紙を読まなかったのか! 彼女は自らの意思で……」
「読みましたよ。誤字脱字はありませんでしたが、**『本心』**が欠落していましたね」
私は一歩前に出ました。
「エレナさんは、あんな手紙を書きません。彼女はもっと熱苦しくて、面倒くさくて、そして誰よりも仲間想いな『私の盾』ですから」
騎士たちが殺気立ち、一斉に切りかかってきます。
「死ねッ!」
四方八方からの斬撃。
達人の剣技。
ですが――。
ガキンッ! パキィンッ!
「……は?」
騎士たちが絶句しました。
剣が、私の肌に触れた瞬間に砕け散ったのです。
私の体には、傷一つついていません。
「(おや? 痛くない)」
私は首を傾げました。
どうやら『雷鳴の塔』で神の雷を浴び続け、ベヒーモスのプレスに耐え、武神の拳を受け続けた結果、私の肉体は変質してしまったようです。
その筋肉密度と強度は、すでに生物の限界を超え、ドラゴンの鱗すら凌駕している模様。
Aランク程度の剣撃では、今の私の皮膚を貫通することすらできないみたいですね。
「残念です。もっと本気で殴ってくれないと、快感が足りませんよ?」
私は軽く手を振りました。
裏拳。
それだけで、鋼鉄の鎧を着た騎士が、ボールのように吹き飛び、木々をなぎ倒して消えていきました。
「な、なんだコイツは……! 化け物か!」
「怯むな! 魔法で焼き尽くせ!」
炎と氷の魔法が殺到します。
私はあくびをしながら、それらを顔面で受け止めました。
熱くも寒くもありません。ヴォルグ団長の雷に比べれば、マッチの火以下です。
「さて。邪魔者は消えましたね」
数秒後。
護衛の騎士たちは全員、地面に埋まっていました(生きてはいます)。
私は馬車の扉に手をかけました。
厳重な魔力鍵がかかっていましたが、握力で鍵ごと引きちぎりました。
メリメリメリ……バギィッ!
扉を開けると、そこには絶望の表情で固まっているエレナさんと、不機嫌そうに眉をひそめる巨漢――ガリウス伯爵がいました。
「……ル、ルシアン? なぜ……手紙を、読んだはずじゃ……」
エレナさんが、信じられないものを見る目で私を見ました。
「読みましたよ。字が綺麗だと思いました。……ですが、あんな紙切れ一枚で私たちが納得するとでも?」
「貴様……何者だ」
ガリウス伯爵が立ち上がりました。
その巨体からは、これまでのどの敵よりも濃密な「暴力」の気配が漂っています。
なるほど、これがエレナさんが恐れる父親ですか。
「私の部下を……たった一人で壊滅させたか」
ガリウス伯爵が、自身のマントを脱ぎ捨てました。
下に着込んでいたのは、漆黒のフルプレートメイル。
彼は素手で、馬車の壁を殴り飛ばして外に出ました。
「面白い。……久しぶりに、自らの手で『教育』してやろう」
伯爵が拳を構えます。
その拳圧だけで、周囲の空気が歪みました。
「(おおっ……! すごいプレッシャーです! 武神像にも劣らない、純粋な暴力の塊!)」
私はゾクゾクしました。
エレナさんの心は折れています。
カイルさんとリンさんは寝ています。
つまり、この怪物を相手にできるのは、私だけ。
「いいですね、お父様(他人の)。……私の頑丈さ、試してみますか?」
私は両手を広げ、怪物を歓迎しました。
救出劇? いいえ。
これは、私にとっての楽しい「耐久テスト」の時間です。




