第87話 愛する者の影となり、世界から消失する少女
【リン side】
エレナ様がルシアン様と共にヴォルテックスへ戻る背中を見送り、私は一人、闇夜に溶け込んでいました。
「(エレナ様は強くなられた……。迷いを捨て、恐怖を力に変える術を手に入れた)」
私の心は歓喜に震えていました。
あの方こそ、私が生涯をかけてお守りすべき主君。
ですが、同時に焦りも感じていました。
エレナ様が強くなればなるほど、その輝きは増し、敵の注目を集めるでしょう。
『雷神の化身』との戦い……あの時の無力感は、今でも鮮明に焼き付いています。
私の隠密は、塔の頂点には通じなかった。
「(もっと深く潜らなければ。誰にも気づかれず、誰よりも速く、敵の死角を穿つ刃にならなければ)」
私は気配を探りました。
この街には、もう一人、達人が潜んでいます。
ルシアン様の監視役として、常に影から私たちを見守っている(監視している)人物。
教皇庁の掃除屋、シスター・クラリス。
彼女の気配遮断は完璧です。
私ですら、意識を極限まで集中させなければ見失ってしまうほど。
あの技術を盗めれば、私はもっとエレナ様の役に立てるはず。
「……見つけました」
街外れの教会の尖塔。
月明かりの下、十字架の上に音もなく座っている影がありました。
◇
「あら、見つかってしまいましたか」
私が背後に忍び寄ると、クラリス様は振り返りもせずに言いました。
手には焼き菓子を持ち、月見を楽しんでいるようです。
「気配は消していたはずですが……貴女の『愛』という名のレーダーには敵いませんね」
「ご指導をお願いします、シスター・クラリス」
私は単刀直入に切り出し、その場で跪きました。
「私に、貴女の『隠密』の極意を教えてください」
「お断りします。面倒ですし、私はルシアン様の監視で忙しいので」
クラリス様は即答しました。
ですが、私は引き下がりません。
「貴女は以前、エレナ様に『対魔反射』を教えました。ならば私にも教えられるはずです」
「あれは彼女の才能が面白かったからです。……貴女の才能はなんですか? ストーキングですか?」
「はい」
私は迷わず答えました。
「私はエレナ様のためなら、空気にも、塵にもなれます。ですが、塔の主には私の『存在』を感知されました。まだ、私の中に『私』が残っているからです」
私の言葉に、クラリス様が初めて興味を示したように振り返りました。
その眠たげな瞳の奥に、鋭い光が宿ります。
「……なるほど。自我が邪魔をしている、と」
クラリス様は十字架を背負い直し、私の前に立ちました。
「貴女の隠密は『隠れる』技術です。物陰に、死角に、魔力の隙間に。……ですが、上位の存在は『空間の違和感』としてそれを察知します。『隠れている何かがいる』と」
「では、どうすれば……」
「隠れるのではありません。**『希薄化』**させるのです」
クラリス様が一歩踏み出しました。
その瞬間、彼女の姿がフッと認識から外れそうになりました。
消えたわけではありません。見えているのに、脳が「そこには何もない」と処理してしまう感覚。
「私は今、ここにいます。ですが、貴女の意識は私を『風景の一部』として認識しようとしているはずです」
「……はい。油断すると、見失いそうです」
「これは『存在感』のコントロールです。殺気も、敵意も、呼吸も、すべてを環境と同化させ、世界にとっての『無害なノイズ』になる」
クラリス様が私の喉元に指を突きつけました。
私がそれに気づいたのは、冷たい指先が肌に触れた瞬間でした。
「認識されない攻撃は、防御できません。そして、認識されない恐怖は、相手の心を内側から蝕みます」
「認識されない……恐怖」
「貴女には素質がありますよ。その異常なまでの執着心を、対象以外への『無関心』へと変換できればね」
クラリス様はニヤリと笑いました。
「いいでしょう。朝まで付き合ってあげます。私が放つ殺気を、貴女が完全にスルーできるようになるまで……あるいは、死ぬまで」
◇
そこからの時間は、静寂の地獄でした。
クラリス様は姿を消し、街のどこかから私を狙撃します。
魔法弾、小石、あるいはただの殺気。
私はそれを探知するのではなく、**「感じない」**訓練を続けました。
殺気に反応して身構えれば、その瞬間にこちらの存在が露呈する。
攻撃を避けようと意識すれば、空気が揺れて居場所がバレる。
自然体で、あるがままに。
石ころのように、風のように。
「(痛い……)」
小石が頬を掠め、血が流れます。
ですが、私は痛みを無視しました。
痛みを感じる「私」など不要。
今、この世界にあるのは、エレナ様を想う「意思」だけ。
「(私は影。私は空気。私は……エレナ様の一部)」
意識が溶けていく感覚。
世界との境界線が曖昧になり、自分が拡張されていくような万能感。
フッ。
不意に、背後から気配がしました。
クラリス様が、私の首を狙って手刀を振り下ろそうとしています。
私は振り向きませんでした。
回避もしませんでした。
ただ、その場に「在り」続けました。
スカッ。
クラリス様の手刀が、私の首をすり抜けた――ように感じました。
実際には、紙一重で私が体をずらし、同時に認識を操作して「そこにいない」と錯覚させたのです。
残像すら残さない、認知の外側での回避。
「……合格です」
クラリス様の声が聞こえました。
振り返ると、彼女は感心したように私を見ていました。
「今の瞬間、貴女は世界から消えていました。私の攻撃本能が、貴女を見失ったのです」
「……これが、『虚無』の先」
「ええ。貴女はもう、誰にも縛られない影です。その刃は、神ですら認識できないでしょう」
クラリス様はあくびをし、朝焼けの空を見上げました。
「さあ、行きなさい。貴女の主君(推し)が待っていますよ」
「はい。……ありがとうございました、師匠」
私は深く一礼し、ヴォルテックスへと駆け出しました。
体は軽い。
気配は風に溶け、足音すら響かない。
今の私なら、雷神の背後を取れる。
そして、その首に刃を届かせることができる。
「(待っていてください、エレナ様。貴女の影は、最強になりました)」
私の愛は、世界から「私」を消し去るほどに深まりました。
これで、心置きなくあの塔へ挑めます。




