第86話 恐怖を飼い慣らす盾、覚醒を待つ白銀の蕾
【エレナ side】
カイルが復活の狼煙を上げたその夜。
私は、宿屋の中庭で一人、月を見上げていた。
「……眠れませんか、エレナさん」
背後から声をかけられ、振り返るとルシアンが立っていた。
相変わらずの涼しい顔だが、その瞳は私の焦燥を見透かしているようだった。
「ああ。……カイルは吹っ切れたようだ。だが、私はどうだ?」
私は自分の手を見つめた。
第50階層での敗北。あの雷神の指先一つに、私の誇る『鉄壁』は紙屑のように破られた。
カイルを守れなかった。ルシアンを犠牲にした。
その事実が、私の心を重く縛り付けていた。
「強くなりたいか、と言われたら、愚問だろうな」
「ええ。貴女は誰よりも責任感が強いですから」
「ルシアン。……付き合ってくれないか」
私は彼に頼んだ。
「『雷轟の竜戦士』の元へ行きたい。今のままでは、私は前に進めない気がするんだ」
「ふふ。奇遇ですね。私も、ヴォルトさんに挨拶に行こうと思っていたところです」
ルシアンはニッコリと笑った。
(おそらく、また雷に打たれたいだけだろうが、今はその変態性に感謝しよう)
◇
第35階層、黒曜石の神殿。
守護者ヴォルトは、深夜の訪問者である私たちを、玉座から静かに出迎えた。
「……何のようだ。負け犬ども」
「手合わせを願いたい」
私は一歩前に出た。
マダム・ガルドに預けた『白銀の城壁』はない。身に着けているのは、ギルドの訓練用倉庫から借りてきた、一般的な鋼鉄のフルプレートメイルと大盾だ。
「ルシアンは手出し無用だ。……私一人で、貴公に挑みたい」
「ほう。装備も万全でない状態で、我と戦うというのか?」
ヴォルトが黄金の瞳を細めた。
侮蔑ではなく、試すような視線。
「いいだろう。その気概だけは買ってやる」
ヴォルトが立ち上がり、雷槍を構えた。
空気がビリビリと震える。以前戦った時と同じ、圧倒的なプレッシャーだ。
「始めようか。死ぬ気で守ってみせろ」
ドォォォンッ!!
開戦の合図と同時に、ヴォルトの突きが迫った。
速い。
私は盾を構えたが、体が恐怖で強張った。
(防げるか? いや、貫かれる!)
脳裏にフラッシュバックするのは、第50階層での光景。
私の最強の鎧ごと肩を貫かれた、あの激痛と無力感。
ガィィィン!!
「ぐぅッ……!」
なんとか盾で受け止めたが、衝撃で数メートル後退させられた。
普通の鋼鉄の盾では、ヴォルトの一撃を受け流すだけで精一杯だ。
「どうした? 腰が引けているぞ」
ヴォルトの猛攻が続く。
突き、払い、雷撃。
私は防戦一方だった。
『対魔反射』も『循環』も、恐怖で体が縮こまり、うまく発動しない。
(怖い……! 次の一撃で盾が砕かれるかもしれない。鎧が紙のように裂かれるかもしれない!)
負けるイメージばかりが膨らむ。
カイルが吹き飛ばされる映像。リンが倒れる映像。ルシアンが消し炭になる映像。
そして、私が何も守れずに死ぬ未来。
「雑念が多い! それで何を守るつもりだ!」
ヴォルトの一喝と共に、強烈な蹴りが盾を直撃した。
私は吹き飛ばされ、地面を転がった。
「はぁ……はぁ……ッ!」
起き上がろうとするが、足が震えて力が入らない。
恐怖。
騎士としてあるまじき感情。
私は、こんなにも臆病だったのか。
「エレナさん」
リングの外から、ルシアンの声が聞こえた。
彼は腕組みをして、無表情で私を見ていた。
「貴女は何を恐れているのですか?」
「……決まっている! 負けることだ! 守りきれずに、仲間を失うことだ!」
「そうですか。では、その恐怖をよく味わってください」
ルシアンは残酷なことを言った。
「恐怖は、貴女の敵ではありません。貴女の才能です」
「な……?」
「何も感じない鈍感な者に、危機など察知できません。最悪の未来を想像できるからこそ、それを回避するための『盾』が出せるのではありませんか?」
彼の言葉が、冷水を浴びせられたように染み渡った。
恐怖は才能。
想像力。
(そうだ……。私は怖い。仲間が死ぬのが怖い。自分が砕けるのが怖い)
私は震える手で、再び盾を握りしめた。
(だからこそ、私は考える。どこから攻撃が来るか。どうすれば防げるか。どの角度なら衝撃を逃がせるか)
恐怖を消す必要はない。
恐怖を飼い慣らし、研ぎ澄ませ。
臆病なほどの慎重さが、鉄壁を生む。
「……来るぞ」
ヴォルトがトドメの構えを取った。
雷を纏った必殺の刺突。
これを受ければ、今の装備では確実に死ぬ。
(見える……! 槍の軌道、魔力の流れ、インパクトの瞬間……!)
死のイメージが鮮明に見える。
だからこそ、その「死」を回避するルートもまた、鮮明に見えた。
「シッ!!」
私は踏み込んだ。
逃げるのではなく、死の恐怖へ向かって。
ズドンッ!!
ヴォルトの槍が、私の盾の中央を捉えた。
だが、貫通しない。
私はインパクトの瞬間、全身の筋肉と魔力を波立たせ、衝撃を地面へと逃がしたのだ。
さらに、盾の角度を微調整し、槍のベクトルを僅かに逸らす。
「ぬぅッ!?」
ヴォルトの体勢が崩れた。
私はその隙を見逃さず、盾ごと体当たり(シールドバッシュ)を叩き込んだ。
「ここだァッ!!」
ガァァンッ!!
巨体のヴォルトが、たたらを踏んで後退した。
致命傷には程遠い。だが、私は確かに「守りきり」、そして「反撃」した。
安物の盾と鎧で。
「……見事だ」
ヴォルトが槍を下ろし、ニヤリと笑った。
「恐怖に飲み込まれず、それを糧としたか。……良い面構えになったな、騎士よ」
「はぁ……はぁ……。感謝する、ヴォルト殿」
私は膝から崩れ落ちた。
全身が痛い。魔力も空っぽだ。
だが、心にかかっていた霧は晴れていた。
「お疲れ様です、エレナさん。素晴らしい『粘り』でしたよ」
ルシアンが駆け寄り、回復魔法をかけてくれた。
「……ルシアン。貴様のおかげだ」
「いえいえ。私はただ、貴女の素晴らしい悲鳴を聞きたかっただけですので」
相変わらずの変態だが、今はその軽口すら頼もしい。
私は掴みかけていた。
守ることの極意。
恐怖を知り、それを御する心。
今はまだ「つぼみ」に過ぎないかもしれない。
だが、マダムの新しい鎧と、この心の在り方が合わされば――。
「(次は、絶対に防いでみせる)」
私は立ち上がった。
決戦は明日。
カイルの剣、私の盾、リンの影、そしてルシアンの肉体。
全てが揃い、開花する時が来た。
「帰りましょう。……最高の装備を受け取りに」
私たちはヴォルテックスへ向けて歩き出した。
もはや、迷いはない。




