第84話 敗走、折れた剣と沈黙の帰路
第35階層の巨大な扉が、重い音を立てて完全に閉ざされました。
その音は、私たちに対する拒絶の音であり、死刑宣告の猶予を告げる鐘のようにも聞こえました。
「…………」
誰も口を開きません。
廊下に投げ出された私たちは、しばらくの間、身じろぎ一つできませんでした。
身体的なダメージは、私の回復魔法で癒やすことができます。
ですが、魂に刻まれた「格の違い」という傷は、どんな魔法でも塞ぐことはできません。
「……あ、ああ……」
カイルさんが、震える手で地面を掻きむしりました。
その視線の先には、無残な姿になった相棒――大剣『紅蓮のイグニス・オーバーロード』の残骸が散らばっています。
マダム・ガルドとミントさんが魂を込めて作り上げ、数々の激戦を共に切り抜けてきた最強の剣。
それが、たった二本の指で、枯れ木のように折られたのです。
「折れた……。俺の剣が……俺の最強が……」
カイルさんの瞳から、光が消えていました。
「ロマン砲」としての誇り。聖女への恋心。Sランクへの野望。
それら全てを支えていた自信が、剣と共に粉砕されてしまったようでした。
「立てるか、カイル」
エレナさんが声をかけましたが、その声にもいつもの力強さはありません。
彼女の『白銀の城壁』も、雷神の威圧だけで細かな亀裂が走り、輝きを失っていました。
物理的な破損以上に、「守れなかった」という事実が彼女の騎士としての矜持を蝕んでいます。
「リンさん、ジュジュ。……行きますよ」
私は二人の背中を押し、カイルさんを抱き起こしました。
リンさんは恐怖で歯の根が合わず、ジュジュも私の服の中に潜り込んで震えています。
あの食いしん坊の聖獣が、魔力の匂いすら嗅ぎたくないというように。
「……帰ろう。3日しかない」
カイルさんが、折れた剣の柄だけを握りしめ、力なく呟きました。
私たちは逃げるように階段を降りました。
第30階層の転移魔法陣までの道のりが、これまでのどの冒険よりも長く、重く感じられました。
◇
ヴォルテックスの街に戻った時、空は厚い雨雲に覆われ、冷たい雨が降り始めていました。
私たちは濡れるのも構わず、無言で街を歩きました。
いつもなら、凱旋する私たちに声をかけてくれる街の人々も、私たちの異様な雰囲気――敗残兵の如き絶望感――を感じ取ったのか、遠巻きに見るだけです。
ギルドの前を通り過ぎる時、カイルさんが足を止めました。
「……合わせる顔がねえな」
ギルドの職員たち、ヴォルグ団長、そして何より、装備を託してくれたマダムたち。
彼らの期待を背負って塔へ挑み、そして何もできずに逃げ帰ってきた。
その事実が、鉛のように心にのしかかります。
「とりあえず、宿に戻りましょう。……身体を休めないと、思考もまとまりません」
私は努めて明るく(といっても、いつもの変態的なテンションは出せませんでしたが)振る舞い、仲間を宿屋へと誘導しました。
部屋に入ると、カイルさんは剣の残骸をテーブルに置き、そのままベッドに倒れ込みました。
エレナさんは窓際の椅子に座り込み、自身の拳をじっと見つめています。
リンさんは部屋の隅で体育座り。
お通夜のような静けさ。
これまでの私たちは、どんな強敵相手でも「どうやって攻略するか(どうやって楽しむか)」を話し合ってきました。
ですが、今回は違います。
攻略の糸口すら見えない。
「頑張れば勝てる」という希望すら抱かせない、絶対的な壁。
「……無理だろ、あんなの」
カイルさんが、枕に顔を埋めたまま呻きました。
「指だぞ? 指二本だぞ? 俺たちの全力連携、バフもデバフも全部乗せた最高の一撃が……指先だけで止められたんだぞ」
「ああ……。私の突進も、そよ風程度にしか感じていなかっただろうな」
エレナさんが自嘲気味に笑いました。
「次元が違う。あれは魔物ではない。ヴォルグ殿が言っていた通り……『神』そのものだ」
3日という猶予。
それは慈悲に見えて、残酷な宣告でした。
「3日で神に届くようになれ」と言われているに等しいのです。
数ヶ月、数年の修行ならまだしも、たったの72時間で、あの絶望的な差を埋めることなど……。
「(……私ですら、あの雷球の前では再生が追いつかないと感じました)」
私は自分の手を見つめました。
被弾して、回復して、強くなる。
私の「被虐の聖域」は、あくまで「耐えられる攻撃」であってこそ成立する戦術です。
存在ごと消滅させるような神の力の前では、痛みを感じる暇もなく「無」に帰すだけ。
それは私の望む快楽ではありません。ただの「終了」です。
「解散……か?」
カイルさんの口から、信じたくない言葉が漏れました。
「剣も折れた。心も折れた。……これ以上挑んでも、犬死にするだけだ」
「カイル様……」
リンさんが悲しげに呟きますが、否定はしませんでした。
彼女の鋭い勘もまた、「勝機ゼロ」を告げているのでしょう。
『ブレイク・スルー(突破者)』。
常識を打ち破り、限界を超えてきた私たち。
ですが、今回ばかりは「壁」が厚すぎました。
「……今日はもう、寝ましょう」
私はそれ以上、何も言えませんでした。
今はどんな励ましの言葉も、空虚に響くだけだと分かっていたからです。
雨音だけが響く夜。
私たちは初めて、明日が来ることを恐怖しながら目を閉じました。




