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第42話 愛が重すぎて、世界から「私」が消える時



「……見えない」


第28階層。

霧はさらに濃くなり、私たちは完全に視界を奪われていました。

それだけではありません。

音も、臭いも、魔力反応さえも。

この階層に潜む魔物は、あらゆる知覚を欺く**『ファントム・ストーカー(幻影の追跡者)』**です。


「カイル! 右だ!」

「遅ぇよッ!」


カイルさんが大剣を振るいますが、手応えはありません。

霧が切れただけ。

その直後、死角から伸びた影の刃が、カイルさんの肩を浅く切り裂きました。


「ぐっ……! クソッ、気配がねえ! 攻撃が当たる瞬間まで、そこに敵がいることすら分からねえぞ!」

「私のパリィも、気配を感じなければ合わせようがない……!」


カイルさんとエレナさんが焦りの色を見せます。

敵は姿を見せず、一方的にこちらを削ってくる。

そして私は――。


「ああっ、ダメです! 私のフェロモンにも反応しません! この敵、性欲がないのですか!?」


私の『挑発のチョーカー』すら無視されています。

彼らは本能ではなく、冷徹な殺意のみで動く暗殺者。

私の「存在感」すらスルーして、確実に弱っているカイルさんやエレナさんを狙ってくるのです。


「(マズいですね……。このままではジリ貧です)」


私が回復魔法の準備をした、その時でした。


「……そこにいます」


リンさんが、虚空に向かって短剣を投げました。

キィン!

金属音が響き、何もない空間から火花が散りました。


「チッ、外れましたか」


リンさんは舌打ちしましたが、私たちには見えていない敵を、彼女だけが捉えているようです。


「リン、敵の場所がわかるのか?」

「はい。空気の揺らぎ、殺気の指向性、そして何より……」


リンさんは、エレナさんの背後にピタリと張り付きながら、冷徹な瞳で霧を睨みました。


「**『エレナ様に害をなそうとする悪意』**だけは、どんなに隠しても私には悪臭のように感じられます」


恐ろしい感知能力です。

ですが、感知できても攻撃が当たりません。

敵の動きは速く、そしてリンさんの攻撃動作(殺気)を察知して回避してしまうからです。


「速い……。今の私では、捉えきれない」


リンさんが悔しそうに唇を噛みました。

彼女の技術は「隠密」に特化していますが、攻撃の瞬間にはどうしても「殺気」が漏れてしまう。

超一流の暗殺者同士の戦いでは、そのわずかな殺気が致命的な隙となります。


「(どうすれば……。どうすれば、エレナ様を傷つけずにあの影を殺せる?)」


リンさんの脳裏に、これまでの記憶が走りました。

彼女には師匠がいません。

誰かに剣を教わったことも、暗殺術を習ったこともない。

あるのはただ、エレナさんへの執着のみ。


彼女は思い出しました。

エレナさんをストーキングしていた日々を。

街角で、戦場で、あるいは寝室の天井裏で。

彼女は常にエレナさんを見ていました。

気づかれないように。邪魔にならないように。ただの空気のように。


「……ああ、そうか」


リンさんは、ふと気づきました。

なぜ今、攻撃が当たらないのか。

それは、自分が「敵を殺そう」としているからです。

「殺そう」とする意志は、「私」という存在を強く主張してしまう。


「私が目立ってはいけません。主役はあくまでエレナ様」


リンさんは力を抜きました。

殺気を消すのではありません。

「自分自身」を消すのです。


「私は影。私は空気。私は、エレナ様を輝かせるための背景モブ


スゥ……。

リンさんの存在感が、急速に薄れていきました。

目の前にいるのに、意識しないと見えなくなるような感覚。

物理的に消えたわけではありません。認識の枠外へとスライドしたのです。


「リン……? どこへ行った?」


エレナさんが周囲を見回しました。

リンさんは、すぐ後ろに立っているのに。


「(……すごい。これは魔法ではありません。純粋な『虚無』への没入)」


私だけが、かろうじてその異様さに気づいていました。

彼女は今、世界から自分というノイズを完全に遮断しました。

呼吸も、心拍も、そして殺意さえも。


「……」


リンさんが動きました。

歩くのではなく、景色の一部がスライドするように。

彼女は霧の中へと溶け込み、そして――。


ドスッ。


湿った音が響きました。

霧の中から、ドサリと何かが倒れる音がします。

『ファントム・ストーカー』の死体です。

首を一突き。防御反応すら取らせない、完全なる不意打ち。


「なっ……!?」


残りの敵が動揺しました。

仲間が殺されたのに、誰がやったのか、どこから攻撃されたのか分からないからです。


ドスッ。ザシュッ。


次々と敵が倒れていきます。

リンさんの姿は見えません。

攻撃の瞬間に発生するはずの殺気すら感じません。

なぜなら、彼女にとってそれは「攻撃」ではないからです。

ただ、「エレナ様の進路にあるゴミを拾う」のと同じ、無感情な作業。


「……掃除完了です」


いつの間にか、リンさんはエレナさんの背後に戻っていました。

その短剣には鮮血が滴っていますが、彼女の服には返り血一つ付いていません。


「リ、リンか? 今の全部、君がやったのか?」

「はい。少し『お掃除』させていただきました」


リンさんは何事もなかったかのように微笑みました。

誰に教わるでもなく、ただ愛だけで到達した**『無音殺サイレント・キル』**の極致。

天才という言葉すら生ぬるい、狂気の才能です。


「すげぇな……。お前、いつの間にそんな技を……」

「技ではありません。ただ、エレナ様以外にとっての『私』を消しただけです」


リンさんは頬を染め、エレナさんのマントの裾を握りました。


「私という存在は、エレナ様に認識していただければそれで十分ですので」

「……よくわからんが、すごい執念だな」


エレナさんは苦笑し、リンさんの頭を撫でました。

リンさんが「ふぎゃっ」と変な声を上げて喜びます。


「(……このパーティ、本当にバケモノ揃いになってきましたね)」


カイルさんの『脱力』。

エレナさんの『循環』。

そしてリンさんの『虚無』。


それぞれの才能が開花しつつあります。

第30階層『中継地点』は、もう目の前です。

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