異変
「神子様?どうされました?」
侍女に呼びかけられてハッとする。あれ、なんだかボーッとしていたみたい。
今日も民の祈りを聞き終えて、自室で着替えていたところだった。
「すぐにお茶をお持ちいたしますね。」
わたしの様子を見て疲れていると思ったのだろう、着替えを終えてソファに座ると、温かいお茶が目の前に置かれた。
野いちごが描かれたお気に入りのティーカップ。そっと持ち口をつけると、甘いフルーツの香りが広がった。
「神子様、何かが心配なことがあるなら私達に…。」
「過ぎた口を。神子様、申し訳ございません。」
お茶を淹れてくれた侍女のマリが声をかけてきたが、同じく侍女のサーラがぴしゃりと遮った。マリはばつが悪そうに口をつぐみ、サーラはそんな彼女を窘めるように見る。
この二人はわたしと同じ施設出身だ。四神に見初められる前は一緒に遊んで一緒に学んだ仲であり、わたしが四神の御所に来るにあたって侍女としてついて来てくれた。
今は立場こそ違えど、幼い頃から慣れ親しんだ彼女達を大切に思っている。
マリは人があまり見ていないところでこっそり話しかけてきてくれることもあって、同じ施設にいた頃の懐かしさを感じる。それに、彼女が淹れてくれるお茶はおいしい。
サーラは生真面目で責任感がある。今マリを窘めたのは、侍女が自分から主人に話しかけるなんてという思いからだろう。
「大丈夫よ。おいしい、ありがとう。」
お茶を淹れてくれたマリにお礼を言うと、彼女はにこりと微笑んだ。
最近、自分でも気付かないうちにボーッとしていることが増えた気がする。いつも変わらない生活を送っているから、別に疲労がたまっているわけではないと思うのだけれど。
…それに、少し前までは気にならなかったのに、最近になって気になるようになったことがある。
………………………
「イノリ。」
大好きな声に応えるように上を向くと、深紅の瞳がわたしを映している。
微笑めば、同じように微笑んでくれる甘い瞳。
夕食をとって湯浴みも済ませ、今は寝る前の穏やかな時間だ。今日はエンが一緒にいてくれるみたい。
大きな温かい手で頭を撫でられ、そのまま額にキスが落とされる。
触れた唇の温かさと、流れ込んでくるエンの力が心地よい。
しかしその時、四神とは違う別の誰かの力も流れ込んできた。
そう、気になるようになったのは、まさにこれなのだ。
四神が現れたとき、わたしを含め聖なる力を持った子ども達が集められたが、力を持った人間は少なからず存在する。そういった人達は各地の教会で聖職者として勤めている。
その教会を巡り労うことは四神の務めでもあるのだが、労いとは言葉を交わすことだけではない。
聖職者に四神が触れて力を分け与えることで、聖職者は心安らぎ信仰心を高めていく。そして聖職者が一般の民に力を分けたり四神のことを説いたりすることによって、民の心が豊かになっていく。そういう仕組みなのだ。
触れあったときに四神の力が聖職者に流れるが、聖職者の力が四神側に流れることもある。それが、わたしが四神に触れたときに残渣となって感じ取れる。
ここに来た当初も、四神が地方の教会に行って帰ってきた後に触れることで、他の人の力の残渣を感じ取ることはあった。でも、気にはならなかった。
それは、四神と聖職者が触れあう必要性と仕組みを白百合の宮で学んできたし、理解しているから。
しかし最近になって、他の誰かの力の残渣を気にするようになってしまった。…少し疎ましいとさえ感じるようになってしまっている。
…いいえ、疎ましいなんて、思ってはいけないわ。
四神を愛し、仕える聖職者を愛し、民を愛するのが神子なのに。
エンの口付けを受けながら、ツキツキと痛む胸に知らないふりをした。
_________
どうしよう、どうしよう。
こんなはずじゃなかったのに。
わたしはなんてことを。神子として最低なことをしてしまった。
後悔ばかりが募り、胸がドキドキと嫌なくらいうるさい。苦いものが喉を上がってきそうな感覚に、口に手あてて耐える。
今日はいつもと変わらない日だった。朝起きて、民の祈りを聞いて、休憩と食事を摂って、湯浴みをして寝室に入った。
今日来てくれたのはスイだった。
いつもと変わらない柔らかい笑みで優しく話を聞いてくれた。大好きな笑顔に、声に、癒されるのを感じていた。
そして、もう寝ようかと触れた瞬間だった。
スイにまとわりついた気配がわたしを襲ってくるように感じたのだ。
嫌、嫌、気持ち悪い…!
「…イノリ?」
スイの声にハッとする。
気が付くとわたしは、両手を張ってスイを突き飛ばしていたのだ。
その瞬間のスイの顔。
目を見開いて心の底から驚いた顔でわたしを見たあの表情。
「…っ、あ…!」
わたしは、とんでもないことをしてしまったと気付いた。
「ご、ごめんなさい。ちがっ、わたし…、ごめん、なさ…。」
自分がやってしまったことの重大さに血の気が引く。震えて言葉が上手く出てこない。
四神のためにある神子が、あろうことか四神を拒絶したのだ。
スイを、拒絶してしまった。
「イノリ、大丈夫だから落ち着いて。ゆっくり呼吸してごらん。」
口に手を当てて震えることしかできないわたしに、スイは優しく声をかけてくれる。
「大丈夫、大丈夫だよ。…そう、上手。深呼吸を繰り返して。」
とん、とん、と背中を優しく叩きながら温かい力を流してくれる。
触れられたことに少しビックリしてしまったけど、スイの声と温かさに少しずつ落ち着いてくる。
深呼吸を繰り返しながらやっとスイの顔を見れた。
穏やかな湖面のような、澄んだ水色の瞳がわたしを見つめていた。
わたしがやっと顔を上げたからか、スイはほっと息を吐いた。そして。
「ごめんね、今日はもうお休み。」
額に手をあてられたかと思うと、急激な睡魔に襲われたのだった。
スイが、力を使ったのだ。
遠退く意識のなか、何度もごめんさないと呟いた。
……………………………
強制的に眠りに落ちたイノリをそっとベッドに横たえる。
規則正しく呼吸しているが、その顔はまだ青白い。
「…イノリ。………イノリ…。」
返事は来ないと分かっていても、繰り返し名前を呼ぶ。自分を落ち着かせるためにも、そうせずにはいられなかった。
声も仕草も表情も全てが愛しくて、いつものように触れた瞬間、小さな両手に胸を押された。
一瞬何が起きたか分からなかったが、彼女を見て理解した。拒絶されたのだと。
血の気を失ってひどく震える彼女を落ち着かせている間、イノリに拒絶されたという事実に胸が張り裂けそうだった。
それでも平静を取り繕って声をかけ、落ち着いた頃に、これ以上負担をかけるわけにはいかないと眠らせた。
「イノリ…。」
意識のない彼女の白い頬を撫でながら、何度も名前を呼ぶ。
何がいけなかった?何に怯えた?何が嫌だった?触れた瞬間に突き飛ばされ、落ち着けようと背中に手をあてた時も怯えるようにビクリとしていた。
僕に触れられることが嫌だった?…僕のことが嫌いになった?
ナイフを刺し込まれるように胸が痛い。イノリを撫でる手と逆の手をキツく握り絞める。
…イノリに離れられることが耐えられない。
「僕には…、僕達にはイノリが必要なんだよ。だからどうか…。」
懇願するように、眠るイノリを抱きしめた。