約束
暖かくて気持ちが良い。
まだこの心地良さに揺蕩っていたい気持ちと、そろそろ起きなくてはという理性が葛藤する。
頭を柔らかく撫でられる感覚がある。
この優しい撫で方は…。
ゆっくり目を開けると、はたしてその人がいた。
「おはよう、イノリ。」
「…おはよう、スイ。」
スイの朗らかな笑みも、陽の光に透ける水色の髪も、頭を撫でる柔らかい手も…、こんなに温かかったんだと改めて気付いた。
身支度を整えて寝室を出ると、そこには皆がいた。
扉のそばにいたエンがわたしをエスコートしてソファに座らせ、彼も隣に座った。
反対側の隣にはライが座り、わたしの手を握った。片手はエンに、もう片方の手はライに握られ、二人の温かい手が心地良い。
頭を撫でられる感覚がして見上げると、ソファの後ろ側にトウが立ち、目が合うと優しく微笑んでくれる。
スイもトウの隣からソファに寄りかかるように立ち、わたしの髪を一房持ち上げた。
穏やかで幸せな空間に泣きそうになる。
侍女のサーラが淹れたお茶を飲みながら、わたし達は今までのことを話していった。
四神は聖職者に触れて力を分け与え労う。その時に四神に流れた聖職者の力を、わたしが四神に触れたときに残渣となって感じ取った。
普段なら気にはならなかったそれを、いつからかわたしは疎ましいと思うようになってしまった。…そう、嫉妬するようになったのだ。
自分ではなぜ疎ましく思うようになったのか分からなかった。
なぜならわたしは神子。神子として教育を受け、心を磨いたのにも関わらず、大切な聖職者を疎ましく思うなんて通常ではあり得ない。
…そう、わたしは通常の状態ではなかったのだ。
侍女の一人がわたしの口にする物に毒を入れていた。厳重な警戒の中でそれを持ち込むことができたのは、それが正確には毒の分類ではなかったからだ。
一見すると丸薬のような見た目で、俗に"妬みの種"と呼ばれるイタズラグッズの一種だった。
細かく砕いて使用されるそれは体に取り込んでも多少気分の波を起こすくらいの代物だが、長期間、常用的に取り込んだことにより、わたしは心の不調をきたしてしまった。
いや、それだけが心の不調の原因では無い。
妬みの種を使用した侍女は、わたしに負の感情を抱いていたのだろう。
わたしが美味しいと好んで飲んでいた彼女のお茶は、妬みの種ととも黒い感情が溶け出したものだった。
誘拐される時にお茶に混ぜられたのは、不眠を訴えて処方された薬を悪用したものだったらしい。
そして、慰労会で出会った綺麗な女性。
彼女はただの敬虔な聖職者だった。神子であるわたしも他とは違うと感じるほどの清廉な力があり、それはとても好ましいものだ。
慰労会に呼ばれるほど高い立場にあり、四神の誰かが彼女の管轄を訪れた際に労うことは不自然ではなかった。彼女自身に問題はない。問題があったのは、彼女の信奉者だった。
力も容姿も優れた彼女を唯一と信じる者がいたのだ。彼女こそ、四神とともにあるべき人物だと。
そんな信奉者達と神子の侍女がたまたま出会い、神子をすげ替えるという両者の意見の一致が、今回の事態を引き起こしたのだ。
悪事を働いた者は皆、然るべき処罰を下されるという。…神子を害そうとした罪に対する罰は、一体どれほどのものだろうか。
暗い感情を言葉にはしなかったが、顔には出てしまっていたようでエンが握る手に力を込めた。
わたしは大丈夫だと言おうとしたが、エンの目が淡く光っていることに気付いた。
慌てて周りを見れば、ライもスイもトウも、その目は力を宿し淡く光っている。
「このままイノリを隠してしまおうか。」
ポツリとトウが呟いた。
「痴れ者が今後も出ないとは限らない。それらは愚かにもイノリを傷つけようとするだろう。」
エンがわたしの手をその大きな両手で包み込みながら言う。ライは何も言わないが、エンの言葉に頷き、もう片方のわたしの手にキスをして同意を示した。
頭を撫でられて振り向くと、スイが優しく微笑んでいる。
「イノリも僕達と同じになろうか。」
ああ、怒っている。
みんな優しく穏やかにわたしへ話しかけているが、力を抑えきれないほど怒っている。
ドタッと音がして、おそらく侍女の一人が倒れた。ビリビリと肌に感じる圧に耐えきれなかったのだろう。
「"約束"を破ったら私達は一緒にいられなくなってしまうわ。」
「だからイノリを私達と同じように神にしてしまえばいいんだよ。」
このままではいけない。そう思って訴えたが、スイはなんでもないことのようにそう言って笑う。
初めの神子は、四神と魂を結ぶ契約をした。神子は時を巡って生まれ変わり、その度に人生を四神と共にすることを誓った。その時に条件をつけた。
神子は必ず人間として生まれ、生きること。
神子が生まれ変わったことを感じ取った四神はその足で神子を探し出さなければいけないこと。
そして、神子が生まれるこの国を守ること。
わたし達はこの決まりの下に生き、役割を全うしている。
この"約束"を破れば魂の契約は無効となり、今のわたしの最期をもって四神と神子が共にあることは無くなる。
しかし彼らは、わたしを人間とは別の存在にすることで生死の概念から脱却させ、永遠に一緒にいることを叶えようとしている。
でもそんなことをしようとすれば彼らは…。
「だめよ、お願い。」
わたしの拒絶の言葉に、手を握る力が強くなった。
「イノリは何も心配することはない。大丈夫、俺達はずっと一緒にいられる。」
エンは努めて冷静にわたしを説得しようとするが、そんなにうまくいくはずがない。
人間を神になんて、理を超えるようなことをすれば彼らは。
「みんな悪鬼に戻ってしまうわ。」
わたしの言葉に、皆ピタリと動きを止めた。
…………………………
四神と神子に守られてこの国の豊かさが保たれている。それはこの国の誰もが知っている話であり事実だ。
しかし、この話が語り継がれるずっと前の、四神と神子の出会いについては誰も知らない。始まりの時から存在している四神以外は。
かつてこの国は荒れ果て痩せた土地だった。災害も多く、人々の生活は厳しいものだった。
それは、この国に巣食う悪鬼のせい。満たされない渇きを持て余す悪鬼は気まぐれに災いをふりかけていた。
困窮した人々は悪鬼を打ち倒そうと、聖なる力を持つ者を送り出した。それが最初の神子だった。
神子はみんなのために悪鬼を倒さなければと覚悟を決めていたが、いざ悪鬼を目の前にすると、自分達が考えていたものと違うことに驚いた。
四体の悪鬼はまだ小さな子どもだったのだ。
人間ならば親に保護されて当たり前の見た目。悪鬼と人間の寿命は違うだろうし、見た目の年齢が実際のものとは異なるだろうが、神子は悪鬼を傷付けることを考えられなかった。
「大丈夫よ。わたしは誓ってあなた達を傷付けることはしないわ。」
はじめは攻撃しようとした悪鬼達だったが、優しく笑い手を差し伸べる神子を見て、襲い掛かろうとしたその手を止めた。
四体の悪鬼は神子の優しさに触れながら成長していった。少年から青年へ成長する頃には、かつての禍々しさはなくなっていた。代わりに、神子がずっとそばにいた影響からか、聖なる力を宿すようになった。神子の教えのもとでその力を振るえば、気候は穏やかになり土地は肥えていく。
彼らはもう、悪鬼ではなくなっていたのだ。
母のように姉のように、愛情をかけてくれる神子は四人にとってかけがえのない存在だ。愛を受けて愛を返し、満たされるのを感じていた。
しかし、神子は人間であり、必然的に四人よりも早く寿命がやってきた。
神子の最期が近づくと四人はひどく悲しんだ。そして、自分達のような存在になればずっと一緒にいられると神子に持ちかけたのだ。しかし、理を外れるようなことをすればどうなるか分からない。
「わたしはあなた達が豊かにするこの国が好きよ。必ずまたここに生まれる。だからその時はわたしを探して。」
神子と四人は互いの聖なる力を使い、神子の魂を自分達と巡り会わせる契約をしたのだ。
…………………………
「わたしはもう、みんなに愛を知らない者に戻ってほしくない。」
「…イノリには、あの時の記憶があるのか?」
ライがわたしに問いかける。その瞳からは動揺の色がみてとれた。エンも、スイも、トウも、驚いたように動きを止めている。
生まれた時も、神子として見初められた時も、かつての記憶を思い出すことはなかった。白百合の宮で四神について学び、わたしの魂が巡っていることを知っても、今より前のわたしを思い出すことはなかった。
でも、誘拐された時にエンの怒り…四神の怒りを目にした時に、始まりの記憶が蘇ったのだ。
「覚えているわ。かつてのあなたたちも、約束も。」
ソファから立ちあがり、四人を見る。
「この先、今回みたいに怖いことがあるかもしれない。それでもわたしは、またここに生まれてみんなのところに帰ってくるわ。…だから、だからどうか愛を忘れないで。」
目頭が熱い。わたしはきっと泣いているのだろう。
泣けばみんなが心配する。それは分かっていても、涙がこぼれ落ちるのを止められなかった。
わたしのせいで悪鬼に戻らないで。数え切れないほどの時間の中で育んだ愛を忘れないで。…わたしを、忘れないで。
その時、強く抱きしめられた。それはエンだった。冷静なエンがこんなに感情を出すことは珍しい。名前を呼ぶと、名残惜しそうにゆっくりと離れた。
改めて四人を見れば、悲しそうな、嬉しそうな複雑な表情をしていた。
彼らの目には、もう怒りの色はなかった。
「もう一度ここに約束しよう。」
エンがわたしの手を取ると、ライもスイもトウもわたしの手にそれぞれの手で触れた。そして、エンが続ける。
「私達はこの国を守りながらイノリを待つ。イノリが生まれたら必ず探し出して、一緒にいよう。こらから先も、永遠に。」
わたしは一人一人の目を見て、しっかりと頷いた。
その日、わたし達は改めて魂の契約を結んだ。
これからもずっと一緒にいられるように。
何があっても、もう愛を知らない者に戻らないように。
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神子が誘拐され害されようとした大きな事件があったものの、この時代も人々は豊かに暮らした。
神子が亡くなり、四神が眠りについた後も、穏やかな気候と大地で、人も動物も作物も育っていった。民の間で四神と神子の話が語り継がれ、子や孫に受け継がれていく。お互いを想い合い、愛し合う彼らの話。
そうして今も、この国を守る四神と神子の訪れを誰もが待ち望んでいるのだ。