文乃Ⅳ(後編)
「文乃さん、僕は隣の書斎にいるので、落ち着いたら声をかけてください」
独りになりたいのかもしれない、そんな風に考えて声をかけると、彼女が僕のジャケットの裾をそっと掴んだ。
僕は彼女の隣に座り、少し考えてから、彼女と僕の間の隔たりを宥めるようにソファの上に手を置いた。いつだっただろうか、彼女がそうしてくれたように。
呼吸を意識して心を落ち着けていると、まだ部屋の中には少年と少女の余韻が漂っているような気がした。
ソファに置いていた僕の手の小指に、何かが触れた。文乃さんの小指だった。ひどく華奢で、冷たい、ガラス細工のような小指。僕に今できるのは、そのまま指を動かさず、彼女の指に僕の火照りを伝えることくらいだった。
しばらくした頃、彼女はすっと腰を上げてどこかへ行ってしまった。でもそう待たずに、彼女は戻ってくる。涙に濡れた顔を見せたくなかったのかもしれない。僕もソファから腰を上げ、彼女と向き合った。
「ごめんなさい、恥ずかしいところを見せちゃって」
「何か、ありましたか?」
彼女は恥ずかしそうに体の前で手を揉みながら、また小さく、かぶりを振った。
「違うの、ただ、なんだろう――」
彼女が近づく。再びソファに二人で腰を下ろした。
「あれが、あなたの中の世界なのね……?」
「……」
僕は、胡椒の実一粒ほど考える必要があった。そして、答えた。
「今日聴いていただいた曲は、十代後半から二十代前半にかけて特に愛好したもので、自分の孤独感に寄り添ってくれた大事な曲であるのは確かです。でも段々と、感じ方が変わってきて、いつしか聴かなくなっていたんです。それは粗削りで、感傷的で、自己陶酔的で、おおげさに過ぎるという風に感じるようになってしまって」
僕が語り始め、彼女が僕の方を見つめたのが分かった。見なくても分かる。いつもの、柔らかな陽だまりのような眼差し。でも今日はそこに、霧のような雨が混じっている。
「仕事をするようになってからだと思います。単純な忙しさもあったかもしれませんが、日々の理不尽な現実に対して、そんなものは無為だと。その時思ったんです。感傷に浸るなどということは、ひどく贅沢なことだったんだなと。そうして自分を戒めるうち、どんどん心が固く、鈍くなっていって……気づけば僕はどんどんと、音楽そのものを聴かなくなっていきました」
その調べが美しければ美しいほど、僕には似つかわしくなかった。削り、すり減らされた醜い傷口には、音楽ですら苦痛だった。そんな僕が美しいはずの音楽に触れるのは、失礼な気がした。自分は汚れている。そういう感覚。無音。僕に許され、そして求めるのは、無音だけだ。摩擦係数ゼロ。何も、感じたくなかった。それは静寂とは違う。静寂は時に雄弁で、肌ざわりだってある。
「再び聴くようになったのは、妻を……紗季を亡くしてからです。僕は、彼女の後を追う代わりに、感傷に浸ることを、自分に許しました。そして今日貴女の前で奏でてみて、それらの楽曲を改めて美しいと思いました。僕は、退行してるんでしょうか」
文乃さんの、息遣いが聴こえた。息が、震えている。そして彼女が口を開く。
「印象主義音楽は――」
努めて冷静であろうとしている。そのことが伝わる語り口だった。
「曖昧で、流動的な音楽だと言われるわ。でもそれは、不確かな人生に似ている」
痛みを感じる話し方。
「でもあなたは、そういう曖昧さや不確実さが許されないビジネスの世界にいたのだものね。それに自分を合わせていった。身を削って。なのに――」
彼女の声が震えている。
「あなたは大切な奥様を、ある日、突然に失った。偶然に。そんな皮肉って、あっていいのかしら」
いけない。
「文乃さん、なにか、明るいナンバーを流していただけませんか?僕の根暗な曲で、あなたの表情を曇らすのは、本意ではありません」
彼女は僅かに無防備な表情をこぼし、しかしすぐに平素の微笑みをハンカチでも取り出すみたいにして見せてくれた。
「そうね、ちょっと待っててね」
彼女はオーディオシステムまで歩み、些かの逡巡の後、ジャジーなナンバーを流す。クラシックで、軽快なメロディー。
"Cheek to Cheek"
文乃さんが僕の方に手を差し伸べた。
「踊りましょ、結人さん」
想定していなかった展開だった。
「文乃さん、僕はダンスは、まったく経験が無くて――」
彼女はそんな僕の話を無視して手を引いた。
「リズム感はあるんだから、勿体ないわ。大丈夫、わたしがリードするから」
僕は、抵抗できなかった。恥を晒すかもしれないという恐怖以上に、彼女の手の感触の甘美な誘惑に抗えなかった。
もっともダンスといっても、最初僕はそれが各々にリズムに乗る程度のことかと思った。彼女を真似ておけばいいだろう、と。でも文乃さんは僕をソファから引き寄せた流れのままに右手を取ると、自分の左肩に置いた。そして彼女の右手は僕の背中に回る。空気が薄くなったように感じる。
(そうだ、僕は彼女にとっては、意識すべき存在などではない。僕が自意識過剰なだけだ。こんなのはただの手解きだ)
そんな風に、僕は己に言い聞かせた。
「リズムに身を委ねて。リズムと、わたしの動きに。ゆっくり。そう、大丈夫よ」
文乃さんの動きに合わせて軽いステップを踏む。
「慣れてきたわね。少し動きをつけていくわよ」
そう言うと、彼女が左足を後ろに引く。僕もやや遅れて右足を前に出す。
「そう、次は右足」
絹のような声に導かれ、僕は彼女の動きに倣う。危うく足を踏みそうになり、何度も謝った。「気にしない」彼女はただ、それだけを答えた。
そうするうち、段々とパターンを掴んでくる。
「さすが、覚えが早いわ。今度は回るわよ」
文乃さんが僕の手を軽く引くと、身を寄せるようにしてゆっくりと回転する。目が奪われる。いけない、僕も彼女の動きに合わせる。
「リズムを感じて、動きはちょっとくらい崩れてもいいの、止まらないで、1、2、3、4……素敵よ」
肯定的バイアス。職業病。……いや、そんな考えは彼女に失礼だ。僕は、もっと素直になるべきだ。そう思うと、動きも軽くなった。
そんな僕の様子に気付いたのか、彼女が微笑む。「楽しい」文乃さんが言う。もっと、彼女に楽しんで欲しい。彼女のリズムを感じ、いつしか僕たちは部屋の中を滑るように回っていた。
音に、彼女の匂いが溶け込んでいる。さっきまで冷ややかだったその手も、今は温かい。柔らかな手の感触。感覚が開いていく。自分が解放される。
やがて音楽は止んだ。
「楽しい?」
「すごいです。これは、ちょっと癖になりそうです」
文乃さんは満足そうだった。
「わたしで良ければ、いつでもお相手するわよ……もう一曲どう?」
「是非」
次にかかったナンバーは"Havana"だった。エキゾチックなテイストに乗って、文乃さんがくるくると回る。自分が女性とダンスを踊る日が来るなどとは露ほども考えたことがなかった。
だからきっと、調子に乗ったのだと思う。僕から、ナンバーをひとつ、リクエストした。
SIRUP "Thinkin about us"――
今度は僕から彼女の手を取る。文乃さんに薄い膜のような動揺が見えた。でも、不快そうな感じではなかった。それが、たぶん僕を侵した。毒のように。
ゆったりと、メロウなメロディに合わせて、リズムを取る。さっきよりも濃密に、一体感を覚える。
そこに性的なニュアンスなんてない。先生に稽古をつけてもらうだけだ。そんな風に、言い訳をして。
曲が止むと、僕は身の上話をした。僕の過去。かつて傷つけてきた人のことや、両親のこと。つまらない話なのは承知の上だったが、文乃さんであれば興味深く耳を傾けてくれるだろうと思われ、僕はつい甘えてしまった。
デジャヴ――どこかで誰かに同じ話をした気がした。どうして、思い出せないんだろう。それはきっと、大切な記憶だったはずなのに。
「そう……なるほどね」
「なるほど?」
彼女の長い睫毛が微かに震えていた。
「あなたの思慮深さの理由の一端が、わかったような気がしたから」
「僕は思慮深くなんて、ありません。いつも想像力が足りなくて……後悔してばかりです」
文乃さんは、哀しそうな顔で僕を見た。どうしてそんな顔をするんだろう。
「あなたが経験したこと自体はありふれた学生の若気の至りというようなものなのかも知れない。だから、あなたの痛みや罪悪感は、ある人にとっては酷く大げさに感じられるでしょうね」
僕は文乃さんの声のもつ不思議な響きに心を掴まれ、ほんの一握りの意識をも他に向けることが出来なくなっていた。
「でも一方で、もっと感受性の豊かな人からすれば、あなたの態度は軽薄で、もっと傷つくべきだというかもしれない。あるいは傷つく資格すらない、あなたの抱いている罪悪感なんて、ファッションのようなものだと切り捨てるかも知れない」
遠くの山で鐘が鳴ったような気がした。
「そして、あなたはその両方の言い分を無視することが出来ない。実際にそう言われた訳でもないのに」
耳鳴りがした。高い音ではない。深い洞窟の奥にいるかのような、そんな耳鳴り。文乃さんは僕の隣に来ると、僕の強張った手を柔らかく握りながら、落ち着いた、しかし芯のある声で言葉を紡いでくれた。
「あなたはもっと文章を書くべきよ。言葉を紡ぐべきよ。あなたにはその資格、いえ使命があるわ。もっともっと感性を開いて。恐れないで。そのお手伝いならいくらでもする。きっとそれがあなたを癒すし、その言葉が誰かを救うはず」
買い被りだと、僕は叫びそうになった。僕は多分、これ以上自分に失望したくなかったんだと思う。傷つきたくなかったんだと思う。でも文乃さんの瞳を見つめた時、僕はそこに宿る篝火の如き熱に身を灼かれた。
「わたしは……救われてる」
僕の呼吸は浅くなり、零れる感情の雫をもはや止めることができなくなっていた。僕という小さな器に文乃さんが注いでくれた感情が、溢れ出していた。奔流だ。正直、溢れ出すことはこれまで何度もあった。でも、もうダメだった。これまでの比ではない。不思議なことに、その感情が溢れれば溢れるほどに僕は渇いた。砂漠の大地がひび割れるが如く僕を苛んだ。僕はその度に、膝に杭を打つような気持ちで渇きを癒そうとする自分を押し止め、その感情に土を覆いかぶせて否定してきたのに。久しぶりの感情だった。こんな理不尽で強烈で暴力的な感情があることを、僕はもう忘れていた。あるいはここまでの強さは初めてかもしれない。むしろ知りたくなかった。こんな感情を。どう扱えばいいのか分からない。見えざる手によって胸が締め付けられる。いっそそのまま息の根を止めてくれればいいのに。心臓を抉り出して窓から投げ捨ててしまいたい。僕は体裁を保てなくなって、乱暴に袖で涙を拭って立ち上がると、この場を立ち去ろうとした。でも目の前には文乃さんが立ち塞がっている。
「文乃さん、僕には……貴女の魅力は毒です」
僕はなんとかそんな台詞を吐くので精一杯だった。
「そんなの……わたしだって同じだわ」
文乃さんの熱っぽい表情には、同時にいくばくかの怒りと恨めしさのようなものが混じり、複雑な色を帯びていた。
「毒を食らわば皿までって言葉も……あるわよ?」
それは花だった。芳香を放つ大輪の艶美な花。その前では僕は小さな羽虫に過ぎなかった。僕を捉えた文乃さんの瞳から目が離せない。
「もうすぐ、若菜さんが帰って来ます」
文乃さんが僕の胸に手を当てる。早鐘を打っているのはバレてしまったろう。彼女は俯いて、色褪せた僕の紺のポロシャツを親指と人差し指でつねる様にした。
「もう替え時ね……」
文乃さんは僕から身を離すと背を向け、後手に組んだ手をもどかしそうに揉んでいた。
「今度、普段のお礼に、何か一枚プレゼントさせて?……カモミールティーを淹れるけど、飲んでいく?」
「是非、いただきます」




