文乃Ⅳ(中編)
社から帰ってくると、僕は紺のポロシャツに念入りにアイロンをかけていた。
僕は、悶々としていた。彼女から感じた親密なニュアンス。それを考えると、何か着るものを新調した方がいいのではないか?だが、気合を入れ過ぎるのも却って不快感を与えるかもしれない。それに僕の経済事情もある。とはいえ――
「……」
僕は腰を上げると、玄関まで行ってスニーカーを眺めた。長らく旅を共にしてきた 黒のレザーのスニーカー。白い廻しテープの部分はかなりみすぼらしい感じになっている。
「さすがに……か」
街に出て身なりを整えるものを買い足すことにした。
久々に街に出ると、やはり何か平衡感覚が狂うような気がした。現実に引き戻される、と言ってもいいかもしれない。平日の昼間だったが、それでもショッピングセンター内には多種多様な人がいた。若い学生風の集団や家族連れ、熟年女性のグループ。世界は、自分を置いてどんどんと流れていく。
(さて……)
トップスは今朝アイロンをかけたポロシャツを着るとして、まだ夜は冷え込むしジャケットがあってもいいかもしれない。僕は目星をつけていたセレクトショップに入ると、アウターから物色し始めた。整えた髭にハット姿の店員が中間的な笑顔でこっちを見ていたが、無理に何か勧めようという感じじゃなくて、安心した。
色味で迷った。僕が腕を組んで悩んでいると、さっきの店員が声をかけてきた。
「何か、お悩みですか?」
「ああ、いえ、色味で迷ってて」
「合わせるトップスとか、ボトムスの色とかはお決まりです?」
痛いところをつく。有り合わせのものでもいいが、そう言われると新調したい気持ちが出てしまう。
「トップスはネイビーのポロシャツでと思ってるんですが、ボトムスはいっそ、合わせて新調しても良いかなと思ってて」
「なるほどですね、よろしければ、ちょっと何本か見繕ってみますけど」
「じゃあ、お願いします」と僕は彼に頼んだ。
「ご希望のイメージとかあります?」彼がそう問うので、「ちょうどいい感じですかね。シックで、でも堅すぎず、オトナな感じで」そう伝えた。
彼は笑顔で「承知しました、少々お待ちください」と言ってパンツの陳列棚の前でいくつかピックアップし、ガラスケースの上に並べて見せた。
こういうショップ店員とのやりとりは実は結構好きだった。もちろん相性はあるのだが、彼のように……意外と四十台くらいなのだろうか?適切な距離を保ってくれる落ち着いた店員とのやりとりは心地良い。
彼がそれぞれのパンツのシルエットや、ストレッチ性などを説明してくれ、僕は最終的に紺のアウターとベージュのチノパンの組み合わせを選択した。
トップスとアウターで同じ紺だが素材感や色の違いでトーンを変えることでシックな印象が出そうだったし、ボトムスのベージュの軽さとのバランスも保てそうだった。季節感にも合っている。ベージュというのは結構難しい。下手をすると野暮ったくなる。だがそのパンツは適度なテーパードシルエットで、明るすぎないサンドベージュは好みの色味だった。結局、ブラウンのレザースニーカーと色味を合わせた革ベルトも同じショップで買ってしまった。
(散財だな……)
でもこういう機会でもないと、今は服なんて買う気にならなかった。良いとしよう。
バスの時間までをつぶすのにタリーズコーヒーでアイスコーヒーを飲んでいると、向かいのフラワーショップに目が行った。若い女性と男性のスタッフが見えた。「花か」と僕は思った。
(……いや、時期尚早だ……)
当日、約束の時間に小鳥遊邸へと向かう。いつもの畔道を下したての服で歩くのは、なんだか気恥ずかしかったが、みんな僕になど興味はない。ただ途中、子供に絡まれて遊ぼうとせがまれパンツを掴まれたりはした。今日はごめんねと言ってお別れした。サンドベージュにして正解だった。
小鳥遊邸が近づいてくる。いつ見ても、その庭は僕の心を落ち着かせてくれた。いくら見ても飽きがこない。不思議だった。庭はいくら僕が見惚れても不快になったりはしない。たぶん。
深呼吸してから呼び鈴を鳴らすと、ほどなくしてドアが開く。
「いらっしゃい。お待ちしてました」
淡いセージグリーンのワンピース。七分袖、膝下丈で、リネンっぽいリラックスした生地感の、軽やかなAラインシルエット。スクエアネックでデコルテには彼女好みの上品な刺繍。シルバーの華奢なネックレスと、今日は小ぶりのピアスをつけていた。ブレスレットのあの光沢は、白蝶貝だろうか。
「何から褒めていいか、迷います」
「そういうのはマッチョなんじゃなかったの?」
「コンテクストが、重要です」
文乃さんは微笑みながら、「入って」といって僕を中に促した。いつもの、落ち着いた匂いに中に、食欲をそそるフレーバーが織り込まれていた。
「結人さんの今日のスタイルも、素敵よ」
その一言だけで、散財の罪悪感はどこかで吹き飛ばされてしまった。
「良かったです。せっかくご招待いただいたので、失礼のないように、と。ショップで服を買うのなんて、随分と久々でした」
「いつも通りでもよかったのに。……でもそういうの、嬉しい」
僕は思わず、自分の首筋を撫でた。
「照れてるの?」
「そりゃあ」
今日の彼女は開幕からそういうモードらしかった。機嫌がいいのなら、それでいい。
「そういえば、今日、若菜さんは?」
「街に出てるわ。大丈夫よ、あの子の分も取ってあるから」
良かった。でないと、あとで二人だけずるいと恨み言を並べられかねない。
ダイニングに足を踏み入れると、リビングの方から聞き覚えのある旋律が聴こえた。優雅で、切なく、やさしい旋律。
「ノクターン」
「……好きなの。特別な時に、聴くの」
単調だという批評もあるらしいが、価値観の相違だ。単調さが安心感をくれることもある。そして、細部の繊細さを意識することができる。複雑で、緩急が激しければ良いというものではない。コミュニケーションと同じだ。
「……父も、好きでした」
彼女が引いてくれた席に、腰を下ろす。
「お父様は、ショパンが好きだったの?」
彼女も自分の席につき、食前酒のスパークリングワインを注ぎながら僕にそう尋ねた。
「彼はオーソドックスなクラシック愛好家でした。モーツァルトにベートーヴェン、バッハ、シューベルト、ショパン……そういう感じです。ダンディなんですよ」
「そういうお話、今日はたくさん聞かせて」
彼女がグラスを手にする。僕も、それに合わせる。
「今日は……いえ、卑屈なのはなしにしましょう。素直に、嬉しいです。文乃さんのお気持ちが」
文乃さんの目尻が下がる。そしてふたりで、「乾杯」を交わす。
ひとりでは酒類を嗜まなくなった僕の体が、発泡酒の泡に敏感に反応する。彼女の創りだした空間に酔って、なんでも話してしまいそうだった。
前菜は冷製グリーンアスパラガスのスープと地産のものと思しき初夏野菜のサラダに柑橘のドレッシングがかかっていた。
「すごいですね、これ全部、文乃さんが……?」
「今日は、ね。でも、こんなの、一年に一回あるかどうか。いつもこういうわけじゃないわよ。まぁ、結人さんはもう分かってるでしょうけど」
確かに、時々若菜も交えて夕食をご一緒させてもらうことはあった。
「美味しいです。すごく」
「まだ前菜よ?」
「前菜にはその人の繊細さが出る気がします」
微かに、睫毛が揺れた気がした。
「……ありがとう」
文乃さんの料理はお世辞ではなく美味だった。勢い、夢中になりそうなところを抑え、彼女のペースを見ながらゆっくりと味わった。といっても文乃さんは食の細いタイプではなかった。彼女はよく食べる。上品に、するすると、食べる。だから僕としても、特別にペースを落とす必要はなかった。
「文乃さんは、いつも美味しそうに食事をされますよね」
「よく言われるわ」
誰に言われるのだろうか。僕は、たぶんちょっと嫉妬したと思う。
「見ていて、幸せな気持ちになります」
「今日は特にそうなのかも……以前、話したでしょう?誰と食べるかが、大切なのよ」
僕はほんの一秒ほど、瞼を閉じた。
「それなら、良かったです。食べっぷりの良い女性は、魅力的です。それを引き出せたなら、本望です」
躱したつもりだった。
「それって、何かのメタファーかしら……?」
彼女が皿に向けていた視線をやや上げ、結果として上目遣いに僕を見ていた。
「とんでもない。言葉通りですよ」
メインの料理は真鯛のポワレだった。香草を使ったバターソースに、付け合わせはじゃがいものローストとインゲン豆のソテー。新じゃがなのだと、文乃さんが教えてくれた。
脂の乗った白身魚には、シャブリがよく合った。
「お父様のご趣味は聞いたけど、結人さんは?どういう音楽が好きなの?」
「クラシックは結構好きですよ。ただ元々は印象主義やそれに近い音楽が好きでした。サティ、ドビュッシー、ラヴェル、セヴラック……そのあたりです」
「あなたのイメージに、よく合うわ」
文乃さんには、僕の如きはなんだってお見通しだ。
「でも今日久々にノクターンを聴いて、ちょっと驚きました」
「驚いた?」と彼女は素直な疑問の表情を顔に浮かべた。
「はい。こんなに情感豊かで、美しい曲だったんだな、と」
彼女がカトラリーを置く音がした。
「正直、昔……といっても小学生くらいの時分だから当然かもしれませんが、なんだか大仰で、気取った曲だと思っていました。でも――」
文乃さんと視線を合わせる。
「きっと貴女が好きな曲だということが、新しい意味を与えてくれたのかもしれません」
文乃さんというフィルタを通すことで、あらゆる音楽は純粋になった。余計なイメージが削ぎ落され、それらは彼女が好きな音楽として、聴き入る彼女の知的で艶美な眼差しとともに、僕の中に流れ込んできた。そのようにして聴く夜想曲第二番は、これまでに聴いたどんな音楽よりも美しく甘美に僕の心を震わせた。それが、事実だ。
「いつもそんな風にして、女の人を口説くの?」
僕は些か自嘲的な気分になった。きっと防衛機制だ。
「言ったでしょう?僕は言語的不能を脱したばかりです。口説くなんて、とても……ちなみに、フジ子・ヘミングさんですか?」
彼女が目を見開く。
「そう。よく分かるのね」
「僕の耳なんてアマチュア未満もいいところですが、彼女の奏でる旋律は特徴的ですし、僕も好きです。無論、気分にも依りますけど。もっとさらっとした奏者が良い時もあります」
「また、卑屈なところが出てるわよ」
デザートは、フレッシュベリーを添えたレモンタルトだった。ベリーは庭で採れたものを使っているということだった。
「タルトって、個人的には積極的に選ばないデザートなんですが、これはすごくさっぱりしてて好きです。酸味と甘さのバランスが、絶妙ですね、口当たりも滑らかで、やさしさを感じます」
「そんなに褒めても何も出てこないわよ。でも、結人さん好きかなと思ったから、喜んでくれたなら嬉しいわ」
確かに、今日のメニューはどれも、僕の好みだった。彼女が僕のことを考えて用意してくれたメニュー。望外。まさに、そうとしか表現できなかった。
彼女は食後のジンジャーフレーバーティーを出してくれた。よく冷えていた。
「ご馳走様でした。本当に、どれもすごく美味しかったです。なんだか、夢のようです」
彼女は、大袈裟だと言う代わりに少し目を泳がせた。
「洗い物は僕がします」
「いいのよ、今日はわたしが招待したんだから」
僕が言葉を選んでいると、文乃さんはこう続けた。
「でも……もし結人さんの気が済まないようなら、一緒にやってくれる?あの時間、わたし好きなの」
若菜と三人で食事を取るような時、そういう場面はあった。僕が洗い、文乃さんや若菜がそれを拭いたり、食洗機に入れたりする。
「もちろんです」
僕はジャケットの袖を捲ると、食器をキッチンに移動させ、ひとつひとつ丁寧に洗う。文乃さんに食器を手渡す時、手が触れ合う。体の芯が痺れる。ふたりきりの状況が、僕の神経を過敏にしている。
隣を見れば彼女のどこか憂いを帯びた横顔。逃げ場がない。僕は視線を上げ、リビングにあるピアノを見た。グランドピアノだ。これまでも仕事の合間を見て触れさせてもらっていた。なんなら文乃さんのご厚意を良いことに、厚かましくも練習のためにお邪魔することも増えていた。かつて処分してしまったスコアを買い直し、ヘッドホンで消音して練習した。サイレントピアノという技術らしく、ハンマーの動きを制御する消音バーでハンマーに弦が触れないようにした上で、鍵盤の動きや強さをセンサーで感知して元気信号に変換するのだという。純粋な電子ピアノでしか実現できないものだと思ってた僕からすれば、驚きだった。
「今日は、聴かせてくれるのかしら……?」
彼女は目ざとい。自然、背筋が伸びた。
「もちろん、無理にとは言わないけど、誰かに披露するのもいい練習になるわよ?」
一通りの洗い物を終えた僕は、手を拭きながら考えてみた。
「……おつきあい、いただけますか?」
「もちろん。チャージは必要かしら?」
「お代はもう、頂いてます」
今日の料理や、メニューを考えてくれた思いやり、これまで僕にかけてくれた言葉、眼差し。たぶん、すべて返すのには、相当に時間がかかる。
ピアノの椅子の位置を調整し、姿勢を正す。僕は、人の眼差しには敏感な方かも知れなかった。よく授業で、教師が机間巡視をすることがあるが、ああいう時、彼らが近くに着た瞬間、僕の頭は真っ白になった。何も、考えられなくなる。
でも、いま僕を見ているのは、文乃さんだ。それは僕をリラックスさせ、同時に、緊張させた。
深呼吸する。静かに、深く、二回。大丈夫だ、と思った。僕はそれを制することが出来る。僕を、穏やかな気持ちにさせてくれる彼女のために、虚飾を払い、鍵盤だけに意識を集中する。右手は「シ」と「ソ」に、左手は「ソ」に添え、指に力を込める。鍵盤に繋がる弦。その上には彼女が座っている。そんな子供じみた想像をしながら。
音が空間を震わせる。自身、その心地良さに身を委ねる。それはこのピアノのパフォーマンスに僕があやかっているだけだ。追いつかなければ。音を、追いかける。そうするうち、余計なものが消えていく。
"亡き王女のためのパヴァーヌ"
それは僕が印象主義音楽を好きになった、きっかけの曲。僕の孤独に、そっと寄り添ってくれた、そんな曲。それを、文乃さんと共有する。
そうだ、僕は、彼女にいつか披露したくて、ずっと練習していた。でも、そんなことは恥ずかしくて言えない。結婚し、電子ピアノを買ったばかりの頃に夢中になって練習した。そんなかつての感覚を取り戻すのには時間がかかったが、今日という日があって良かった。
長い余韻を引く最後の音を大切に捧げ、そっとペダルから足を抜く。振り返ると、文乃さんは目を閉じていた。眠っているように見えて、でもその表情には意思が宿っていた。瞼が開く。世界が色づく。それは魔法だ。彼女の睫毛の震えひとつで、僕の世界の均衡が崩れる。
「言葉って、不自由ね」
普段から言葉を生業としている彼女のその表現と、慈しむような表情は、どのような賛辞よりも僕をほっとさせてくれた。
「でも、知ってるのよ?あなたが練習してたのが、一曲じゃないこと」
その通りだ。だがここからは僕の趣味性の強い世界になってくる。
「あまり文乃さんのご趣味に合う曲じゃないかもしれません」
「でも、結人さんが好きな曲なんでしょ?だったら……聴かせて欲しい。あなたのこと、もっと教えて」
敵わない。僕はひとつ息をすると、髪を撫で上げ、再び鍵盤に向かった。
「三曲ほど、あります。子供じみた曲かもしれません。最初は、ちょっと寒々しい曲ですが、ご容赦ください」
イメージする。昏く、深く、冷たい、雪の降り積もる闇の底の情景を。それは、通常より1オクターブ高い2点の「ミ」の音から始まる。ふっと寒空の下で息を吐くような、ピアニッシモで。
"極北の民"
この曲もまた、僕の孤独に寄り添ってくれた曲だ。ただ、"亡き王女のためのパヴァーヌ"が仔犬のように僕に寄り添ってくれたとすれば、この曲は、冷たく、鋭く、氷の腕で抱きしめるようにして僕の痛みに寄り添った。コーヒーと同じだ。甘さや柔らかさばかりが、辛苦を癒すわけではない。
音と共に情景が浮かぶ。そこにはひとりの少年がいた。静かな曲の序盤、彼はダッフルコートに身を包み、雪の中で自己の存在を感じている。凍てつく寒さだけが、彼を理解かってくれた。
でも苦難が訪れる。メゾピアノからメゾフォルテに至る、彼の葛藤。そして再びのピアニッシモは彼の静かな決意を表現し、強く踏み出すようなフォルテを迎える。少年は何かを求め、はるか遠くへ旅立った。雪の中の、それはまるで行軍だ。
何が彼にそうさせるのだろう。何もない、果てのない道を、ただまっすぐ、彼は歩んでいく。
最後、ピアニッシッシモ、2点の「ド」で終える余韻が意味するものが、安らかで、希望に満ちた何かであることを、僕は祈った。
僕はそのまま流れるように、次の演奏に移った。僕はそのとき、ある種ゾーンのようなものに入っていたような気がする。
それまで別々の、単一の楽曲だったものが一連の物語となって絡み合おうとしていた。音が、意味を欲している。
右手は2点の「ソ」のフラット、左手はマイナス2点の「ラ」のフラットに。ピアニッシモで。
その曲は静かに、繊細に、少女が少年をそっと指先で慰撫するようにして始まる。でも、少年はそのことを知らない。彼は眠っている。
"風紋~3つの軌跡~"
少年と少女の、本のページを繰るような、穏やかな日々。そこには微かだが変化があった。風が水面に波紋を立てるような、そんな、僅かな揺れで破綻しかねない波動。
この曲もやはりピアニッシモやピアノによる揺れ動きの後、フォルテに至り、またピアニッシモにて幕を下ろすという構成は同じだ。
ただそのフォルテは過酷さというよりは抑え込まれた感情の爆発を予感させた。
それはどんな感情だろう。少年の?あるいは少女の?
でも不思議とそこに悲壮感はなかった。不安はある。いまのこの穏やかさは仮初。いつまでも続きはしない。そういう歪さの下で、しかしそんな心細さを凌駕する歓びのようなものを感じた。
最後の一曲は最難関だ。僕は一度また、深く呼吸をする。
不協和音とも捉えられる、ピアノから始まる。
それは物語のエピローグを思わせた。
"久遠~光と波の記憶~"
美しい旋律。でも、なぜだろう。少女が泣いている気がした。そこにはもう、少年の気配はない。しゃにむで、身勝手で、おおげさで、孤独で、憐れな少年の気配は、失われていた。彼は多分、何かを間違った。
やがて、雨が降り出す。すべてを洗い流す雨だ。罪も、汚れも、愛おしさも、憧憬も、なにもかも。そして最後に残るもの。それはなんだろうか。思い出?そんな美しいものではないかもしれない。約束?感傷的に過ぎる。それでも――
僕は少年が善意だと信じたものを、僕だけは信じてあげたかった。君は、少しだけ、やさしかったんだって。それは君が想っていた少女を確かに変えた。光のある方向へ。色のある方向へと。
すべてを弾き終えた時、僕は自分の頬の生温かさに気付いた。なんだ、また泣いているのか。僕は泣き虫だ。
啜るような音に肩を叩かれ、振り返ると文乃さんが泣いていた。
僕は焦った。僕が自分の世界に浸っている間に、彼女の身に何かあったのではないかと思った。
弾かれるようにして僕は彼女に駆け寄った。「文乃さん、大丈夫ですか?」「なにかあったんですか?」僕がそう尋ねても、彼女はかぶりを振るばかりだった。僕の手が空を掻く。僕は、彼女に触れてはならない。




