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文乃Ⅳ(前編)

 月日は流れ、二年目の六月。その日は、何か良い予感のようなものがあった。

 僕はまだ気が早いように感じながらも、朝から冷たい水に身を浸し、和夫さんから村の暗部を知らされた日の、彼の言葉を思い出していた。

(『結人さんは変わらず人の良い面を見つめてくだされ』)

 これは重要なことだ。

 善意はエゴの隣人。でもだからといって、究極的に諸悪の根源を人のエゴと断定してエゴそのものを否定してしまえば、この世は闇だ。そんなことは、人生経験を積んだダイナーの主人であれば知っている。

 壮大なフィクションのオチとして、ヴィランが人間の自由意志に失望し、自由意志を否定した社会構造を作ったり、(あまね)く人に強制的なアセンションを促すというのは今やよくあるトロープだ。あるいはそれは社会主義と資本主義の争いの一種のメタファーなのかもしれないが、そこまで極端化してしまっては重要な議論が抜け落ちてしまう。

 それにそういう理想主義的なヴィランというのはある意味では過剰な善人なのだ。現実の悪というのは、もっと狡猾で、時に無自覚で、実際的だ。それらに対し、結局僕らは小さくみっともなく抗っていくことしか出来ない。

 でもそれでいい。僕は救いたい身近な人を守ることに全力を投じ、搾取的な構造に抗いながら、同時に当たり前に自分の幸福を求めてエゴを持つ人間としての当事者性とも向き合い続けなければならない。

 極限まで澄んだ水に魚は住めない。醜く美しく生きるしかない。その事実から逃げてはならない。1か0のいずれかに逃げた途端、僕は恐らくあの闇に絡めとられる。


 昼からは、いつものように文乃さんのお宅で夕方頃まで彼女の仕事を手伝った。そして玄関での別れ際、ふと彼女の端末に着信が入ったらしく、何やら通話を始めた。

 仕事絡みの話のようだったので、僕は彼女から少し距離を離し、庭先に咲いていたセンニチコウを眺めていた。

 やがて通話を終えた文乃さんがゆっくりと、どこか意味ありげなテンポを刻みながら、僕に近寄ってきた。僕と彼女の目が合う。

「結人さん」と彼女が僕の名前を呼ぶので、「はい」と返事をした。それから弾んだ声が鳥が飛びたつみたいにして彼女の喉から奏でられる。

「あなたの書いた書評、正式採用されるって!」

 僕は呆気に取られていた。彼女が推薦してみると言ってくれた時、僕はもちろん嬉しかった。彼女の監修も入っていることを考えれば、採用の可能性は決して夢物語ではなかった。でも最近、僕の書くものに対して文乃さんはあまりフィードバックを返してくれなくなった。それは僕の成長の裏返しにも思えたが、一方で、程度が知れたことでもはや指摘することに彼女が疲れてしまったのではないか、そんな不安もあった。

「信じられません」

 僕は率直にそう告げた。でも、そんな僕の戸惑いをよそに、文乃さんは興奮していた。

「編集者の方はもちろん、執筆者の方もすごく気に入られてるって!」

 彼女が一歩、僕の方に踏み出す。

「わたしも鼻が高いわ」

 満面の笑みだった。そのあまりの屈託のなさに、僕の鼓動が速くなる。瞳に吸い込まれそうだった。自分事のように喜んでくれている彼女に、僕は言葉が出なかった。

 すると彼女はふと冷静になったのか、少し僕から距離を取ると、恥ずかしそうに眼を泳がせた。

「ご、ごめんなさい、すごく嬉しかったものだから、つい……」

 彼女の胸の上でもどかし気に糸を手繰る指先は、いつにも増して美しかった。

「いえ、そんなに喜んでいただけて、僕も嬉しいです。文乃さんの指導の賜物です。僕一人の力では無理でした」

 彼女が顔を上げる。少し、ムキになったような、そんな表情だった。

「そんなことないわ!もうっ、またそうやって自分を卑下して。悪い癖よ?」

 そんな文乃さんに、僕はつい声を上げて笑ってしまった。温かい。

「も、もうっ!なにがそんなに可笑しいの?……ふっ……フフッ」

 そうして二人して声を上げて笑った。道行く人が見たら、何事かと思われただろう。可笑しな二人だ、と。

「おめでとう、結人さん」

「ありがとうございます」

 するとふと、文乃さんの表情に逡巡するような色が差した。何か、気になることでもあるのだろうか。

「どうか、しましたか?」

「ううん、なんでも、ないの……あっ……」

 やや俯いて何かを考えているようだった。やがて顔を上げた時、彼女の表情はどこか寂しげだった。

「また――」

 そう、彼女が恐らくは別れの言葉を告げようとしたとき、ふと遠い昔に分かれた兄弟か姉妹にでも会ったような、動揺した表情をした。

 僕は周囲を見回したが、特に変わったことはない。それから彼女は懐かしむように目を伏せた。

「どうか、されましたか?」

「ううん、なんでもない。ちょっとね、()が聴こえたような気がしたの」

 夕日が彼女の横顔を照らし、ぬるい風がほつれた髪をさらう。そんな彼女の表情に僕が意識を取られていると、やがて文乃さんは再び目を伏せ、前で組んだ手を揉み合わせている。

「あの……ね?」

 彼女が、何か重要な秘密を打ち明けるかのように口を開いていた。

「書評が正式採用されたお祝いに、今度……夕食会に招待させてもらえないかしら?」

 「招待」ということは以前のような外食ではなく、文乃さんのお宅で、ということだろうか。それ自体は素直に嬉しい提案だった。

 だが彼女のもったいつけるような言い方から、僕はそこに何か親密で微妙なニュアンスを感じ取り、思わず緊張してしまった。でも、断る理由もない。

「嬉しいです、是非」

 僕はこんなにも遠慮がなかっただろうか。

「よかった……」

 彼女のいじらしい笑顔が眩しい。少女のような、そんな儚い表情。

「外で食べるのでもいいかとも思ったんだけど、でも……時間や人目を気にせずゆっくり、結人さんとお話したいと思って、お家の方がいいかな、って。いつもは仕事の話が中心になっちゃうでしょ?だから……」

 はっきり言ってこの時、僕は舞い上がっていた。色々と考えるべきことはある気がしたが、それ以上に彼女の誘いがもつ魅力が、僕から余計な体裁を洗いざらい流してしまった。

「僕も、ずっとそう思っていました」

 彼女の目と口が開かれる。僕はいま、けっこう大胆なことを言っている。

「そ、そうなのね?よかった……じゃあ、えっと明後日の夕方なんて、どうかしら?」

 文乃さんが動揺している。初めて出会った頃からは考えられない。

 でもよく考えてみると最初から彼女は、時折少女のような初心な一面が顔を覗かせることがあった。そんなところもまた、僕の気持ちを捕らえて離さないのかもしれない。僕はまるで恋について語っている。

「……」

 実際のところ、僕は彼女にどう接するべきなのだろうか。それは今回の時間の旅路の中で、幾度となく自問してきたことだった。かつての世界で、禍々しい力によって吐露された僕の()()。でもそれを僕自身、認められずに来た。

 受け入れていいのか、分からなかった。僕が彼女を思う時、いつもそこにはプライベートジェットのイメージが付いて回った。彼女は到底、僕などの手が届く存在ではない。そう思っていた。思うようにしていた。そして彼女は若菜の母であり、恐らく現役の妖の巫女だ。

「結人さん……大丈夫?」

 文乃さんが心配そうに僕の表情を窺っている。

「あ、ごめんなさい、明後日の夕方ですよね?全然大丈夫です。全力で空けておきます」

 彼女がふっと吹き出した。

「ありがとう……じゃあ……楽しみにしてるわね。帰り道、気をつけて」

「文乃さんも、少しでも休んでくださいね。僕も、楽しみにしています。それでは」

 そうして手を振って、いつものように別れた。

 

 帰り道、僕はずっと彼女のことを考え続けた。

 文乃さんと話している時、僕は自分のことが好きになれた。彼女の穏やかで温かく知的な部分が、僕の中のそうした良い面を共起させ引き出してくれた。僕はこんなにも冷静で思慮深かっただろうか、彼女と話していると時折そんな風に感じた。

 でもそれはきっと文乃さんという鏡があってのことだった。僕は人の感情の機微に疎いという自覚があった。一方でそれは共感し過ぎてしまうためかもしれなかった。相手の感情に呑まれてしまいそうになり、距離を置いたり、拒絶したりしてしまう。

 それが多分、僕が子どもを恐れる理由だ。そういう意味では、この村で十代の少女たちと触れ合うのは、人との適切な距離感を学び試行錯誤する上で、良い機会となった。でも、文乃さんと話していると、僕は自然体でいられた。そこには不思議な一体感があった。

 

 翌日、僕は早朝から社に足を向けていた。一歩一歩、今や慣れ親しんだ石段を上り、拝殿へと向かう。

 賽銭を投げ入れ、手を合わせ、一通りの儀礼的手順を踏み、僕は心の中でヌァルーに語り掛けた。

(なぁ、ヌァルー。僕は、本当はここに来て、君に相談するつもりだった。彼女の誘いに乗って、関係を進めるのが果たして正しいことなのか、どうかと。いっそまたあの崖から飛び降りてやり直すべきなのではないかと。でも、彼女の笑顔を見て、少なくともそれは君に相談するようなことじゃないと悟った。僕が選ぶべきことだ。今日は、その宣言のためにきた。祈っていてくれ)

 拝殿に背を向け、二の鳥居に向かって歩いていた際、手水舎へと舞う白い蝶の姿が目に入った。そういえば、初めてこの社に来た時も、同じ蝶がいたような気がする。どうしてそんな些細なことを憶えているのか分からなかったが、それは吉兆に思えた。


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