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結人Ⅹ

 虫の声が変わり、秋の訪れを感じさせる頃、僕は同じ頃に過去の世界で何をしていたか、ほとんど思い出せないことに気づいた。彼女たちも学校が始まり進路選択に向けて本格的に邁進する。恐らく交流が減ったのだろう。当然と言えば当然だ。

 きっと精神の摩耗とは別の問題だ。僕はそう思うことにした。落ち着くべきだ。すべきことをして、あとは結果を待つ。それはなんだか受験みたいだ。

(受験か……)

 正にいま、彼女たちもそれに向き合っているだろう。僕自身に関して言えば、あまり良い思い出はない。まぁそういう人間は多いかもしれない。あの時がんばったから今がある、いい思い出だ、そんな風にさっぱりとばかりはいかないだろう。

 大学受験に関しては、そこそこにやった。その割には上手くいった。それは中学受験から学習した結果だった。ほどほどにやるくらいの方がいいのだ、と。無論、結果論だが。

 「お受験」という表現は苦手だ。大仰に喧伝している感じもするし、一方で揶揄するようなニュアンスも感じる。受験を巡る状況を象徴しているかもしれない。

 受験戦争という表現がある。冷静に考えれば戦争に喩えられる時点で異常だ。それは誰のための戦争なんだろう。特に小学校受験や中学受験のように当事者が幼い場合、なんだかそれは親同士の子による代理戦争か、あるいは教育産業同士の戦争に思えることが少なくなかった。その場合、当事者の子どもらは兵隊同然だ。鉢巻を締め、鬨の声を上げ、日々教科ごとのテストで上位三名と下位三名の名前が黒板に晒され、帰り道に送迎の車中という閉鎖空間で大本営にその結果を報告する。まぁ今がどうかは分からないが、当時はそうだった。

 塾講師にある日言われたことがある。「お前らに人間性は期待してへんから」と。僕は当時その言葉に随分と傷つき怒りを覚えた記憶があるが、それは彼の罪悪感や虚無感の表れかもしれず、今となっては責める気になれない。

 進学塾に通い始めたのは小学四年生の頃だった。そこは自分が望んだ空間だった。学校ではやらないような難問と、それをすらすらと解く生徒達。初めての授業で僕の頓珍漢な解法が笑われたりしたが、そんなことすら嬉しかった。わくわくした。でも小学五年生の夏がピークだった。そのあたりまでは成績も鰻上りで兵庫の有名私学にも余裕で手が届く範囲だった。でもそのあたりからもう僕はまともに授業の内容が頭に入ってこなくなった。理解できないといったことではない。苦しかったからだ。僕の成績に気をよくした両親は、どんどんと追加の高レベルコースに僕を通わせ、受験が終わるまでの向こう一年半まで一時間単位でスケジュールが決まっていた。

 僕は授業中、時計の針ばかり見るようになった。歩く時は、足下だけ見るようになった。未来を想像するのが苦痛だったから。そうやって痛みに耐えることだけを考えるうち、授業の内容も、歩いた距離も、すべては曖昧になり、僕は身も心も頭の中も、軽石のようにスカスカになった。成績が落ちた。髪を洗わなくなった。鉛筆を折った。ボールペンを折った。椅子の足で踏んで物を壊した。ある時は学校で黒板に頭を叩きつけた。頭をもっとスカスカにしたかったのかもしれない。どん、どん、と衝撃が走るだけで、何の音もしなかった。周りは奇異の目で僕を見た。「君、上手かったやろ」そう言われて、音楽の授業で重要パートを任されそうになると、「自分の頭はスカスカなのでできません、腐ってるんで」、と言った。もちろん、誰も笑わなかった。その頃の僕にとって、音楽という美しいものを扱うには、僕は醜すぎた。でも、「なんでそんなこと言うねん」と言って笑って欲しかったのかもしれない。教師は、「ほんまや、性根が腐っとるわ」、と無感情にそう言うと、すぐに別の誰かを指名した。音がしなくなった。やはり、僕は醜かった。そうだ、僕は自分がやるのが面倒臭くて、あんな風に言っただけなんだ。そういうことなんだ。後でクラスメイトの誰かが言っているのが聴こえた。「あいつなんであんなこと言うねん、頭おかしいんとちゃうか」、と。

 トイレで自慰をする時間だけが、癒しだった。それは現在の僕の性的な渇きの原点なのかもしれない。

 知的でユーモアのあった塾の友達も雰囲気が変わっていった。常にピリピリとしてすぐ舌打ちをし、会話が成り立たなくなっていった。

 一度、我慢の限界が来たことがあった。親の帰りが遅いタイミングを狙って、学校の友達を家に呼んで少しだけ遊ぼうとした。でも帰ると両親はいた。「もう帰ってたん?」と僕が問う。思ったより早く終わったのだ、とにこやかに母が答えた。玄関に待たせていた友達の姿を見つけると、その顔が一気に冷めていくのが分かった。母は友人を応接室に待たせると、隣接していた僕の部屋で烈火のごとく怒り狂った。いつものように部屋の中のものを投げつけ、壁を叩き、床を踏み鳴らして大きな音を立てながら、感情的に怒鳴り散らす。何を言っていたかなんて覚えていない。ただただ怒鳴る時の、息継ぎするような不快な息遣いと、軽蔑しきったようなような眼と、醜く歪んだ頬を思い出すだけだ。ひとしきり言いたいことを言った後、「謝ってき」と言われ、友達を玄関まで見送る僕の青ざめた顔を見て、彼は苦笑いを浮かべながら「お前たいへんやな」と言った。

 受験勉強をさせてもらってるだけ幸せだろう。そう言われるかもしれない。贅沢な悩みだと呆れられるかもしれない。別にそれも否定しない。ただ僕からすれば、もっと分かりやすく愛されない方が、素直に母を憎めた。あんな、お為ごかしたやり方をされるより、ずっと。その方がストーリーとして分かりやすい。共感されやすい。寄り添いやすい。

 最新の受験動向は分からない。子どもはどんどん減っている。僕の受験に対する見方は、僕のごく個人的な経験に基づいた、偏っていて、感情的な見方かもしれない。システムどうこうはさて置いても、個々人の努力は評価されるべきだ。

(そうだ……)

 だからこそつらかった。学校生活に関する悩みを口にすれば、それはすぐに第一志望に合格できなかった故だと片づけて話にならなかった。あるいは、自分の血が混じっているのがいけないのだ、と母の自己否定に巻き込まれた。僕にとっての第一志望はただの目標であって終わってみればどうでも良かった。そこそこ勉学に集中して気の置けない仲間と青春できる環境があればそれでよかった。それがいつの間にか、すり替えられていた。真実を知った今となっては、それは父の元愛人だった母が自分の正当性を証明するためだったのかもしれないとも思う。そもそも悩みは主に交友関係に関することだった。それは僕にとって、学習性無気力の原因となった。

 受験を含めた教育パイプラインという全体の大きなシステムを変えることは容易ではない。それはメリトクラシーを構成する政財界も含めた極めて大きな流れを捉え、高度に政治的なやりとり含めで改革していく必要のあることだ。それこそ冷戦だ。最終的には各家庭がセーフティネットとなって、どうにかしていくのが最も現実的。

 大学の教育学のグループディスカッションで、僕は何かの流れで言ったことがあった。受験における子供は、見方によっては学校のネームバリューの為に争う兵隊なのだと。皆、顔を見合わせ苦笑いするだけだった。否定すらされなかった。僕だけが、違う世界に生きていた。僕は間違ったことを言っただろうか。そうなのだろう。コンテキストに合っていなかったのだ。彼ら彼女らにとっての教育というのは、常に光り輝き、キラキラしているべきなのだ。そういう教育にポジティブな思い出のある者だけが、教師になれるのだと後に分かった。

 だからこそ、僕は一応の人生の先輩として彼女らに寄り添っていく程度のことしかできない。過干渉になって失敗したこともあったが、基本的にはそうしてきたつもりだ。燈子さんや文乃さん、すみれさんが親であれば何も問題なんて起きなさそうなものだが、家庭の中で何が起きているかなんて誰にも分からない。万が一なにかあった時、僕が逃げ道になれればそれでいい。喩えそれが、僕にとっての代償行為であったとしても。彼女らを救えるのは、彼女ら自身でしかないのだから。

 

 僕が鏡渕池に投げた石がポチャリと虚ろな音を立てて空気を震わせる。こうやってみんなが石を投げ入れていたら、そのうち池が浅くなってしまうかもしれない。僕は靴と靴下を脱ぐと石を投げた辺りに向け、ざぶざぶと池に入っていった。ひんやりとした感触が僕の幼い怒りを冷ましてくれた。些末なこと、仕方ないこととして鉛の箱の中にしまって蓋をしてあるだけで、ふとしたきっかけで蓋が開けば、そこには当時のままの感情が残っているものだ。下を向くと、冴えない僕の顔が映っている。それに手を伸ばし、石をひとつ手に取って岸に向かって投げると、僕の頭も少し軽くなったような気がした。

 

 その後、偶然若菜に出会って、小鳥遊邸へと誘われた。そして文乃さんと会った。

 そうだ、文乃さんだ。僕はこの頃からいつも、文乃さんから仕事を貰うようになっていたはずだ。過去の世界で彼女が僕にかけてくれた言葉の数々を、僕はきちんと憶えていた。


 月日は流れ、翌年の五月。

 季節は梅雨時になっていた。

 文乃さんとの仕事は、相も変わらず楽しかった。

 その日の夕方も、僕は小鳥遊邸から家に帰る途中だった。

 道端に人影が見えた。紫陽花色のワンピースが、大きな傘のように壁にもたれ掛かっていた。

「いい夕暮れですね、結人さん」

「今日も良い色だね。千種さん」

 千種だった。

 彼女はいま、村に残って巫女を務めながら、燈子さんの服飾の仕事を手伝っている。だからそんな彼女のファッションを褒めるのは、ごく自然なことだ。

「誰かと、待ち合わせ?」

 千種が一歩、僕に歩み寄る。

「少し、一緒に歩きませんか?」

 僕たちは近況を話しながらゆっくりと並んで歩いた。

 思えば、三人の少女の中で最も雰囲気が変わったのは千種かもしれない。話していて、そう感じた。

 気づけば僕らは、初めて出会った麦畑の前まで来ていた。麦は青々とし、あの幻想的な黄金色の海が現出するのはまだ先だ。

 千種は歩みを止め、麦畑を眺める。青い麦の前に千種が立つと、麦は小さな子ども達のように見えた。

「ごめんなさい、急にお誘いして」

 麦の方を向いたまま、彼女はそう言った。

「いや、僕も最近話せていないなと思ってたから。嬉しいよ」

 その瞳が、僕を捉える。湿り気を帯びた風が舞う。雨が近いのかもしれない。彼女の唇が、小さく動く。何か呟いたようだったが、聴き取れなかった。僕がそれを問う前に、彼女の声が制する。

「じゃあ今夜、つきあってくれます?」

 意味ありげに細められた双眸に、僕はつい身を固くしてしまった。僕は図書室での一件以来、どこかで彼女のことを恐れているのかもしれない。

「なにか、あるの……?」

 いたずらな笑み。

「肝試し。……興味あります?」


(肝試しか……)

 夜、村の人から分けてもらったシロヌメリイグチでキノコ汁を作りながら、鍋が煮える音と雨音をBGMに、ぼんやりと考えていた。

 創作などでは定番のイベントだ。しかし、いざ自分が体験したことがあるかと言えば、記憶の限りではなかった。僕は明らかに「陰キャ」の部類だから、もっと活動的な「陽キャ」の友人でもいれば話は違ったかもしれない。

 そして七月や八月の盛夏に行うイメージがあった。五月にやるというのもなんだか不思議だ。でもジトジトとした梅雨時にやるというのは、確かに雰囲気がある。通な感じだ。

(なにか、悩み事だろうか)

 いまや若菜以上に表情が読み取れなくなった千種の誘いの意味を、僕は考えた。もちろん、ただの気まぐれかもしれない。考え過ぎだろうか。

 椀を片手に汁を啜りながら窓の外を見ると、雨は上がっていた。(すが)めるような細い月に、朧が掛かっている。

(これじゃあ、『雨月物語』だな)

 約束の時間、午後十一時に僕は麦畑の前に向かった。ぬかるんだ畦道を踏む自分の足音が、まるで後ろからついて来るかのように響き、既に怖気づいている自分に気づく。ホラー映画は好きな方だが、実際におどろおどろしい状況に自分が身を置くのは、別問題だ。

 早めに出たためか、約束の場所にまだ千種はいなかった。若菜にはいつも先を越されていたから、むしろほっとした。それでもそう間を置かず、彼女は現れた。

「先、越されちゃいましたね」

 声に振り向くと、彼女が立っていた。淡いブルーのミディ丈のワンピースに、黒のブーツ姿。影が長く伸びていた。

 彼女を先頭に北へと歩く。白木邸の前を右へ横切り、さらに北上する。あまり来たことのない場所だった。というのも、その先は柵で塞がれた立ち入り禁止区域だったからだ。

 ふと左手を見上げると、背の高い建造物があった。それは村で最も背が高く、楼閣と呼ぶに相応しい、一種独特の雰囲気を纏っていた。和夫さんの家の敷地のちょうど裏手にある。あるいは、そこも和夫さんの敷地なのだろうか。

「結人さん、入ったことあります?」

 僕の視線に目ざとく気がついた千種が、そう尋ねた。

「いや、ないよ」

「ここは、特別な寄り合いなんかで使われるんです」

 特別な寄り合い。

「わたしもほとんど入ったことはないんですけど、今は村から出て成功された方なんかが宿泊するのに使われたりもするそうです。ちょっとした迎賓館ですね。あとは――」

 千種が小さく言葉を溜めた。

「昔は奉習やお勤めに使われたりもしたそうです」

 かつての巫女の勤め。今とは有り様が違ったであろう因習。僕は、その建物が纏う空気が、急に重苦しいものに見えた。もう既に、肝試しは始まっているのかもしれない。

 そして僕らは、例の柵の前に立っていた。千種はさも当たり前のように、釘の緩んだ柵板の一枚をくるりと回すと、柵の向こうへと踏み込んだ。

 勝手に入っても大丈夫なのか?そう思いながらも、千種が手招きするままに同じように柵を越えた。僕はなぜか、言葉を発することを忘れていた。

 ライトを頼りに鬱蒼とした森の奥へと進んでいくと、右手に浮かび上がるものがあった。照らすと、それは木造の診療所のように見えた。

(僕は、ここを知っている……?)

 強烈な既視感があった。でも少なくとも、()()の記憶ではない。いつだったか。僕はなぜここに立ち入った?何も、思い出せなかった。

 千種は診療所の軒の下、雨に濡れていないベンチの上に腰を下ろした。彼女がまた、手招きをする。吸い寄せられるかのようにふらふらと、僕も隣に座った。

「ここ、昔の診療所なんです。わたしが小さい頃は、よくお世話になりました」

 今では打ち捨てられ、ペンキの剥げたこの場所も、かつては白と緑のコントラストの美しい、憩いの場だったのかもしれない。

「ここと、もうちょっと行った先に、畜舎があるんです」

 千種の視線の先、闇の奥を見つめる。

「人影がね、目撃されてるんです」

 彼女の声のトーンが変わった。

「もう何もない、誰も用のない場所のはずなのに」

 千種の静かな語りのせいだろうか。よくある「怖い話」に過ぎない内容が、妙に真実味を帯びて聴こえ、全身が粟立った。

「それは大人の男の人だったり、小学生くらいの女の子だったり」

 大丈夫。よくある話だ。

「それからね?時々聴こえるらしいんです」

 千種の声が、心なしか艶めいていた。

「女の人の悲鳴」

 意図せず、膝に乗せていた手が強張る。僕の隣でいま噺をしているのは、本当に千種なのだろうか?つと、首筋に触れるものを感じた。心臓が、背が、跳ねる。声を上げることすら、出来なかった。

「なーんて……」

 千種の指だった。思わず、大きく嘆息した。

「怖かったですか……?」

「君にはストーリーテリングの才能があるよ」

 ふふっ、とその声が綻ぶ。

「ごめんなさい。つい、入り込んじゃいました」

「何かに憑かれたのかと思ったよ」

 さっきまでの緊張感が、湿気を孕んだ空気に霧散する。

「ちょっと遊びたかっただけなんです。その……結人さんと。あの頃みたいに」

 確かに、ある時期から僕は彼女に対していくらか距離を置くようになった。お互いのために。

「君はもう、僕なんかがいなくても大丈夫に見えた。それに、あまり構っていると琴音さんに怒られるしね」

 僕は、琴音を言い訳にした。そんな僕を、彼女は古い写真でも見るような目で見つめた。

「結人さんは、いつまでこの村に居てくれるんですか?」

 僕は一拍考え、冷やりとした夜気を吸い込んだ。

「以前は、いつまでも居座るわけにはいかない、そう思ってた」

 それは誰の為にもならないだろう、と。

「でも最近は、ここに根を下ろすのも悪くないかもしれないと、思う時もある。もちろん、皆さんが受け入れてくださるなら、だけどね」

 彼女は、僅かに意外そうな顔をした。でもすぐにまた、微笑んだ。

「受け入れますよ。結人さんなら。わたしが推します」

 思わず、頬が緩む。

「それはなにより、心強いね」

「文乃さんがいるから……ですか?」

 出し抜けなその問いかけに、僕は動揺した。千種の口から、文乃さんの名前が出るとは思っていなかった。

「……いや、確かに文乃さんとの仕事はすごく楽しいし、やりがいを感じられるけど……たぶんもっと、根本的なことなんだ」

 空を見上げる。相変わらず、刃で撫でつけたような薄い月が、闇にぶら下がっている。

「この村が、段々と馴染んできた。そういうことなんだと思う」

 隣を見ると、千種は視線を斜めに下げ、何処かを見つめていた。

「そうですか」

 そう一言だけ、零した。


 千種を家まで送る帰り道、何かの音が耳に届いた。音――否、声?

 先刻の千種の怪談が脳裏を過り、自然僕の足は速まった。そんな僕の後を、千種は何も言わずについてきた。

 彼女を無事に家まで送り届ける。ファサードの前、街灯に照らされた陰影の中で彼女は言った。

 

『わたしたち、共犯関係ですね』

 

 それから、昏く笑った。

 

 僕の足は、(いざな)われるように、さっきの声がした辺りに戻っていた。

 あれは、()()()()だった気がする。胸騒ぎがした。

 楼閣の前まで着く。近づき、腰を下ろす。耳を澄ます。

 やはり聴こえる。女性の声だ。ただ、悲鳴ではなかった。それは――嬌声だ。

 少なくとも、知っている誰かの声ではないと思った。もっとも、嬌声を聴いて昼の声の主との同定が出来るかと言えば、怪しいものではあった。これ以上ここにいるのは、出歯亀根性というものだ。僕は一度は腰を上げた。

「……」

 熱のこもった声だった。その場の熱気が、情念が、外にいる僕まで伝わってくるかのような。

 僕は知らず、その建物へと侵入していた。特に鍵のようなものはなかった。沓脱で靴を脱ぎ、影に隠すと、音を立てないように階段を上る。声が段々と大きくなる。肉と肉がぶつかる生々しい音に、雨でぬかるんだ土を踏むような湿った音が混ざった。

 そしてあの忘れ得ぬ、暴力的に理性を融かす(かぐわ)しさが漂ってくる。でもそれは、これまで嗅いだどれとも違った。そこには間違いなく、濃厚な雄の精と、雌の甘酸たる匂いが混じり合い、眩暈(めまい)すら(もよお)した。それこそが、本来の(かお)りだと言わんばかりに。条件反射のようにして、口の中に生唾が溜まる。

 手すりの隙間から、僕はその情欲の渦を目撃した。

 そこには六人ほどの男性と、一人の女性がいた。男性は皆、見覚えがあった。男性のうち四人は社で見た顔だった。一人は稀に村内で見かけたことがあるが、ほとんど関わったことのない人物だった。一人は女性のナカに入っていた。二人は彼女の肌を美味(うま)そうに啜り、一人は男根を咥えさせ、一人はそんな狂宴を前に自ら(しご)いていた。そしてもう一人、彼は独り離れた位置で椅子に座り、じっとただ状況を睨みつけていた。その表情には一片の悦びもなければ、怒りも、哀しみもなかった。何の感情も読み取れないその相貌は、虚ろだった。僕は彼のそんな表情を知らなかった。和夫さんだった。

 僕は状況を検めたらすぐにその場を去る心づもりだった。でも、僕は凍り付いたようにその場から動けなくなった。意識ではすぐさま去るべきだと思いながらも、体が動かなかった。女性は、もっともっとと媚び、慰みを乞うていた。彼女に入っていた男が震える。女がひと際大きな声を上げ、ゆばりを垂れ流す。獣のような声。すぐさま、独りで(しご)いていた男が、女に侵入する。すりこぎで里芋を潰すような音がする。彼らは避妊具を使っていないようだった。診療所のポスターを思い出す。この村ではSTI検査が月一回まで無料だ。ピルにも補助が出ているようだった。僕はそれを見て、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 僕はようやく釘で打たれたように硬直していた足を動かし、気づかれないようにその場を去った。いつ終わるか知れなかったし、最後まで見届ける勇気もなかった。

 外に出ると、頬を雨粒が打った。豪雨――時刻は二十五時を回っているかと思われたが、もはや時間の感覚は判然としなかった。

 僕は軋む体を引き摺って、のろのろと家路を辿った。服が雨を吸い、泥のように重くなる。途中、何度もさっきの光景が甦るのを、かぶりを振って追い払った。

 今にも壊れそうな嫌な音を立てて閉まるドアに身を滑り込ませると、僕はそこから一歩も動けなくなっていた。トイレまで這うように移動し、便器を抱えて少し吐いた。結局、その夜は一睡も出来なかった。予定していた農作業の手伝いに体調不良を理由に断りを入れ、文乃さんの家を訪問する予定もキャンセルした。

 

 夕方、不意に呼び鈴がなった。僕の部屋の呼び鈴が鳴ることは、滅多にない。だから、一応は出ることにした。鏡の前で顔を見ると、熟れ過ぎたジャガイモみたいな色をしていた。それでもなんとか、ドアを開けた。

「……」

 そこには、文乃さんが立っていた。驚いた顔。僕は口を開けた。でも言葉が出なかった。虚ろな黒い穴を(さら)しただけだった。

 彼女が困ったように微笑む。

「大丈夫……?ごめんなさい、何度も鳴らしちゃって。こんなこと今までなかったし、文面もすごく簡素だったから、倒れたりしてないか心配になっちゃって……」

「いえ……すみません。珍しく……頭痛が酷くて……」

 文乃さんが小首を傾げる。チャーミングだ。手にしていた麻のバッグを僕に差し出す。中を見ると、ゼリーと、栄養補給用の清涼飲料水が入っていた。

「わたしの独断で桃のゼリーなんだけど、もし胃に何か入れられそうだったら、食べて」

 ありがたい。

「食欲がありそうなら、適当にお粥か雑炊でも作ろうかと思ってたんだけど……」

 その手にはもうひとつ、材料が入っていると思しきトートバッグがあった。

「あ……。お気持ちはすごく嬉しいんですが、その、散らかってますし……」

「……そうよね!ごめんなさい、急に押しかけちゃって。これ、材料だけでも受け取って?元気になったら、また作りに来ても良いし――」

 その時の彼女は、どこか不安定に見えた。だからだろうか。バッグとともに差し出された彼女の手を、僕は、思わず握っていた。

 僕の手が微かに震える。「ごめんなさい」その震えを彼女に伝えるまいと、僕は謝罪してすぐに手を放した。そしてバッグだけを受け取った。彼女は夕暮れを背景に、呆然としていた。不快の色はない。たぶん。

「明日は、必ずお伺いします」

 文乃さんの目尻が下がる。穏やかで、知的な、いつもの彼女だ。

「わかった。待ってる」

 ぬるい風が僕らの間を流れた。

「でも、本当に無理はしないでね?何かあったらすぐに言って?……最近はあなたがいないと、仕事も張り合いがないもの」

 僕は彼女に必要とされている。例えそれが僕のための嘘だとしても、期待に応えたい。

 そして、僕が彼女を敬愛する気持ちは、何ひとつ変わらない。それが分かった。

 

 文乃さんを見送ってドアを閉めた後、僕はもう一度、トイレで吐いた。脆弱なものだ。

 あの夜、楼閣にいた女性。あそこで起きていた一部始終は、彼女の望んだことなのだろうか。男達に己を与え、好き放題に貪らせていた。凌辱的な雰囲気ではなかったと思う。でも、和夫さんの表情からしても、異常な空間だった。事はそう単純ではないのだろう。

 ただひとつ、僕が受け止めなければならないことがあった。彼女は――

 文乃さんと同じ(かお)をしていた。

 

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