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白木Ⅱ

 一年目の祭祀の約一週間前、和夫さんと稲葉さんとの定例で三十年前の内紛の存在を聞いた日の帰り際、巫女の伝統について、詳しく学べるような記録はないかと思い切って尋ねてみた。そうすると彼はしばらく考えたあと、翌日改めて家に来るように言われた。当日、白木邸に着くと、庭で池を眺めながら待っていた和夫さんは、僕についてくるようにいった。連れていかれた先は、以前整理を手伝った蔵とは別の、もう一棟の古い蔵だった。厳重に閉ざされた扉を開け、蜘蛛の巣をくぐると、中には確かに紐で綴られた書物の類がいくらかあった。気が済んだら呼んで欲しい。そう言って去っていった和夫さんの表情はこれまで見てきたどんなものよりも険しく、どこか憔悴して見えた。彼は何も言わなかった。でも、その目には、僕の覚悟を示すかのような昏く冷徹な光が宿っていた。もし生半可な気持ちであったなら、僕は言葉を翻していただろう。やはり、まだ必要ないと。新鮮な気持ちで少女らや村を眺めたい、そんな風に理由をつけて。でも今の僕には覚悟がある。

 しばしば虫に食われた書物の中身を紐解いていくと、僕のまだ知らなかった事実が、そこには記されていた。

 まず巫女の階級には「(ケン)」と「(エン)」の他に、「(ヨウ)」というものがある。その『妖』となる条件はふたつ、そのうちの何れかを満たすこと。

 ひとつは「媛」となってから十年が経過していること。そしてもうひとつ、()()()()()()()()()こと。

 「神婚儀式」または「神降ろしの交わり」と呼ばれるものがあるという。血筋の巫女は十分なお勤めを果たした頃に、神の花嫁として身を捧げる。そして血統などを元に選出された数人の男達に神を降ろし、神の代理としてまぐわい、子を成すのだと。

 僕の背を一筋の汗が伝った。僕は理解した。血筋の少女らに父親の影を感じなかったのは、恐らくこれが原因なのだと。だが、彼女らが生まれた時はもう既に和夫さんの治世になっていたはずだ。せめてその儀式が、燈子さんやすみれさん、文乃さんの意思決定の下に行われたものと信じたかったが、僕の呼吸は気がつくと浅くなっていた。

 ふと、ひとつの疑問が浮かんだ。現役の妖の巫女は存在しないのだろうか、と。燈子さん、すみれさん、文乃さんは先代の巫女だと聞いている。だがそれを聞いたのは千種の口からだ。巫女の伝統が現代化されようという中で、もし実際には現役でお勤めを続けていたとして、子どもにそのことを告げるだろうか?恐らくは、伏せるはずだ。

(あの三人は、現役の妖の巫女……?)

 確証はない。だが、考えるうちに甦った記憶があった。あれは確か祭祀の一週間後の夜、燈子さんと出会った。何人かの村民が集会所の方から現れ、その後に内侍の綾乃さんを伴った燈子さんが出てきた。さらに祭祀の日、巧二さんが僕に訊いてきた。来週末にある御祈祷のようなものに、僕は招待されているのか、と。符合した。恐らく、そこで行われていたのは、お勤めだ。それも、古い形の。

(『文乃ちゃんのことを助けてあげて欲しいの』)

 そうだ、あれは燈子さんの言葉だ。燈子さんとすみれさんの隠れ家のロッジで、彼女に頼まれたことだ。僕は結局、その意味するところが分からないままだった。 

 他にもうひとつ、僕は重要な記述を見つけた。それはたぶん、村の財源に関わることだ。僕が見つけたその帳簿には、お神乳のやり取りに関する記録が残っていた。やり取りの最小単位としては大体100mlほどで、ものにより百万から上は一千万円以上でやり取りされるケースまであるようだった。年間契約では一億から十億を超えることも。確かに考えてみれば、お神乳はその希少性、効能、秘密性、更に生産量が限られていることなどから考えても、高値がついてもおかしくない。僕のような庶民には到底想像できないが、遺伝子治療薬や希少疾患向けの薬は時に、そうしたかなり高額な価格設定がされると聞いたことがある。実際に不妊に大きな効果があるとすれば、単なる嗜好品や宗教的意味の枠を超えた価値がある。なお、お神乳の価格の違いは、それがブレンドなのか、特定の巫女から採取されたものなのか、巫女の血統、年齢、採取時期などにより生じるようだった。まるでウイスキーか何かのように。更には、そんな顧客から村への寄付も莫大な額にのぼっていた。

(神無月……)

 僕は頭を抱えながらよろよろと地に伏した。僕は甘く見ていたのかもしれない。この村が抱えていた、あるいは部分的に今も抱えている闇というものを。確かに今は現代化が成されつつある。しかしそれが極めて危うい均衡の上に成り立っているのだということを、改めて思い知らされた。今はまだ良いだろう。だが、やがて和夫さんや稲葉さんによる治世が終焉を迎えたとしても、今のこの平穏を守っていくことができるのだろうか。分かろうはずもない。

 ふと、首筋に冷たい感触が走る。

「暑くて、やられちまうっちゃ」

 房枝さんだった。深く、昏い瞳をしていた。深い井戸の底を覗き込んでいるような気持ちがした。その日は折角と言うことで蔵の清掃や整理を夜まで手伝って、和夫さんの晩酌に付き合った。酒は『越乃寒梅』だった。僕らは庭を眺めながら、しばらく互いに無言で酒を酌み交わし合った。

「よかったんですか?」

 僕がそう声を発すると、和夫さんが自分の盃に酒を足す。

「なにが、かね?」

 彼は恐らく分かっていて言っている。

「村の暗部とも言うべきものを、僕なんかに見せて。口外するとは、思わなかったんですか?」

 お猪口に並々と注がれた辛口の酒を、ずっ、とひと啜りすると彼は続けた。

「そんな人間であれば、あの池で出会うた時点で追い返すか、池に沈めておるよ」

 彼は笑っていたが、僕にはそれが冗談には思えなかった。僕でもそうするかもしれないと思ったからだ。メディアなどに嗅ぎ付けられれば、やつらは血の一滴まで彼女らを啜りつくすだろう。羽をもがれた蝶に群がる蟲のように。僕も自分の酒をぐいと呷ると、和夫さんがまた注いでくれた。

「ひとつだけ、訊いても良いですか?」

 和夫さんは何も答えなかったが、肯定と受け取って僕はそのまま続けた。

「若菜さんと、千種さん、琴音さんは、神婚儀式によって生を受けたとお見受けしましたが、合っていますか?」

 彼は庭を眺めている。

「合っておるよ。じゃがそれは、あの娘らの母親がそれぞれに望んだことじゃ。君が心配しておるようなことはなかった。儀式を行うか否か、相手の選定、すべて彼女らの意思決定に基づいておる」

 僕はじっと、その横顔を見つめながら話を聞いた。

「儂も何度も確認した。それでも彼女らの意思は固かった。なぜかは分からん。彼女ら自身も、父親というものがおらんかったから、そういう()()の家庭のイメージが湧かんかったんかもしれん。あるいは、経済的な安定が約束され、子を育てるにしても村のサポートが期待できる彼女らにとって、男などと言うもんは邪魔でしかなかったのやもしれぬ」

 ことりと、お猪口が板張りの縁側に置かれる。

「いや、今の時代に普通などと気やすく言うと、怒られるの。儂自身、普通とは程遠い人生じゃった」

 これは、彼の人生の物語だ。

「聞いてくださるかの?」

 僕はゆっくりと、しかし確かに頷いた。

「儂は、巫女の血筋の家に生まれた。母も、妹も、姉も、みんな巫女じゃった。家にはしょっちゅうよう分からん男が来ておった。儂はよく分からんなりに、妹だけは守ってやりたかったが、それすら叶わん無力な存在じゃった」

 キリギリスが鳴き始めていた。

「あれはもう五十年以上前になるか、儂は当時、一人の女性に憧れておった。もはや顔も思い出せんがの。二つばかり歳上で、優しい眼差しをしていたことだけは憶えておる。心を攫ってしまいそうなほどに」

 彼の手が震えたような気がした。

「お察しの通り、彼女も巫女の血筋じゃった。あの頃はまだたくさん巫女がおった。巫女の血筋は、表面上は敬意を払われながらも、しばしば疎まれ、蔑まれ、妬まれることも少なくなかった。そんな孤独な儂を、いつも彼女は励ましてくれとった」

 不吉な予感に、月が血を流し始めていた。

「じゃが、彼女が二十歳になったその日、彼女は()()(まぐわ)わされた。その時はじめて知ったんじゃが、彼女は儂のことを好いてくれとったそうじゃ。男どもは彼女を儂の前で嬲った。昔はそうやって反抗的な娘の心を折ったんじゃ。やがて儂も裸に剥かれて、彼女と交わされた。見世物のようにの」

 月から流れ出した血は、池を染め、地を侵し、僕らの足元まで流れてきた。

「儂はそんな状況でも彼女の中に精を放った。哀しい生き物じゃ」

 僕はもはや震えを隠せなくなっていた和夫さんの手を握った。そうするうち、しかしやがて石のように、彼の震えは止まった。

「そんなことがあってから間もなく、彼女は冷とうなった。文字通り、冷たく、硬くなった。通夜で彼女の頬に触れた時に思った。儂はこれまでこんなに冷たいものに触れたことはないと。それは魂を、地の底から伸びてきた青白い手によって鷲掴まれ、引きずり込まれるような心地じゃった」

 彼はその時、嗤っていた。

「それからこれはどうでもいいことじゃが、儂は何年も勃たんようになった」

 遅れて今度は僕の身が震え始めた。

「そうして儂は決めたんじゃ。こんな、糞溜めのような因習は儂が壊してやるとな。それが、儂が今の地位を追い求め、歩んできた最初の動機じゃ」

 彼がこちらを向いたとき、眼鏡に月の光が反射して、その瞳の表情を伺い知ることは出来なかった。

 五十年前の日本といえばちょうど高度経済成長期でウーマン・リブ運動が活性化していた時期のはずだ。だが、地方の村落においてはその影響はまだまだ波及していなかったかもしれない。つまり、和夫さんが経験してきたような地獄は、この村の因習により強化されていた側面はあれど、もしかすると、もっと広い範囲で()()()()()()()のかもしれない、そう思ったのだ。僕は彼を慰めるべきだったかもしれない。でも、口をついて出たのは、違う言葉だった。

「人間なんてものは、今の時代の僕らが普段考えているよりよっぽど、野蛮で、醜いものなのかもしれませんね」

「結人さん、儂の話を聞いて勘違いされては困る」

 彼の方を見ると、そこにはもう、いつもの柔和で威厳を秘めた表情の和夫さんがいた。

「儂が見てきたものは人間のひとつの可能性に過ぎん。以前も言うた通り、結人さんは変わらず人の良い面を見つめてくだされ」

 そこまで言うと、彼は前を向いた。

「そうじゃ、儂もまた彼女らの信じる可能性に救われてきた」

 再び彼の体に余震の如く震えが走る。彼が揺らいでいる。安定性を欠いている。

「本当は儂が為すべきことじゃったのに、()()()があんな咎を負う必要なぞなかった。なのに儂は……」

 彼の乾いた頬を涙が伝っていた。僕には彼が何のことを言っているのか分からなかった。でも、彼は誰かのために泣いていた。

「結人さん、千種らを見守ってやって欲しいというのはこれまで通りじゃ。じゃがもしあなたにその意思がおありなら、あの娘のこともどうか()()()やってください。何をどうとは言わん。できる限りで良い。あなたの想像力の及ぶ範囲で、善き可能性を探ってください」

 彼が頭を下げる。彼は「あの娘」と言った。具体的に誰とは言わず。それは、僕が突き止めるべきことなのだろう。そしてまた「救ってくれ」と言った。為政者としての体裁を捨て、僕にそう言った。ユーモアには現代化の余地がありつつも、極めて先進的な視座を持つ彼が、そんな古典的な表現を使ったことの重さを、僕は考えなければならない。

 彼もまた、孤独で不安な一人の人間に過ぎない。そんな当たり前のことを、僕は受け止めていた。

 

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