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結人Ⅸ

 くすんだ天井が、視線の先にあった。

「……」

 体を起こす。

(ここは……?)

 それは()()()()()()()()だった。

 何かがおかしい。

(全部……夢?)

 僕は一縷の望みを胸に、スマートフォンを見る。

 二〇二四年八月七日。

 やはりおかしい。本当なら、僕は二〇二四年の七月三十一日に戻ってくるはずだ。異常が起きている。

(落ち着け)

 まずは状況を把握しないといけない。確かにヌァルーはどこか消耗しているように見えた。前回、若菜が奴の憑代となってしまったことの影響があるのかもしれない。

 スマートフォンに登録されている連絡先を見ると、既に若菜の連絡先があった。

「……」

 メッセージを送ろうとして、でも僕の手は止まった。もし、彼女が前回の記憶を保持していたら?そう思うと、手が震えた。

 台所を見ると、違和感があった。何かが、まな板に突き立てられている。

 僕は鉛のような体を起こし、のろのろと近づいた。

 ペティナイフだ。破壊されたはずの、罪と弱さの象徴が、そこにあった。

 まな板から引き抜く。艶やかに光沢を放つそれに僕の眼が奪われた。

 そっと首筋に添える。冷やりとした感触が脳髄へと駆け昇る。

 ひどく、心地よかった。

 息を吸い込む。

 刃先を押し当てる。

 だが指先に力が入る前に、カラリと音を立て、ナイフは足下に落ちた。

(なにをやってるんだ……)

 僕は、その場に(うずくま)った。

 正直、限界だった。

 僕はどうして生きてるんだ?何のために?誰を幸せにできる?

 無駄だ。なにもかも。

 消えてしまいたい。

 一度は追い払ったはずの弱さが蟲のように全身にたかり、僕を蝕んでいた。

「役目は……果たさないと……」

 どうやって……?わからない。

 もう、これで最後にしよう……これでダメなら……僕はもう――

「舞台を降りよう」

 

 SNSで若菜から連絡が来ていることに気付いた僕は、彼女の指示通りバス停にいた。軽やかな文面を見る限り、それはいつもの若菜だった。多分、なんらかヌァルーが上手くやってくれたのだと信じたい。

 虚ろな目で陽炎を眺めていると、勝手に記憶が蘇り、その場で嘔吐しそうになった。強烈な罪悪感を伴う、おぞましい記憶が、頭にこびりついている。思い出したくもないのに、勝手に脳内を占有し、どんどん鮮明になる。若菜の絶望した表情。吐瀉物の臭い。文乃さんの怒りと軽蔑に満ちた眼差し。それを忘れることは、許されないのだろう。

 深く深呼吸をする。千種はいつも、深呼吸して気持ちを整えていた。琴音も、過去を克服し、這い上がった。若菜も、人の繋がりを尊び、こんな僕を受け入れてくれた。

「……」 

 僕がここで負けるわけにはいかない。

「わっ!」

 気付くと、目の前にいた。あまりにもいつも通りで、僕は本当にあの惨劇が夢なのではないかと思いさえした。

「初めて先越されちゃったね。……どったの?変な顔して。そんなにボクが恋しかった?」

 ああ、そうだ。君が恋しかった。その気持ちだって、嘘ではないんだ。僕が涙腺の決壊をどうにか堪えているうちに、彼女が隣にふわりと腰を下ろす。

「どこまで、憶えてる?」

 僕は率直に尋ねてみた。

「んー、それがあんまり憶えてなくてさぁ。たぶん、また失敗したんだよね……ボク、なんかやっちゃった?」

「いや、若菜ちゃんのせいとかでは全然ないよ……俺の……問題だ」

 若菜が怪訝な顔をする。

「『俺』?」

「あ。いや、ごめん、ちょっと間違えただけだよ」

 若菜がけらけらと笑う。

「えー、結人さん、心の中だと一人称『俺』だったりするの?ぽくなーい」

 言われてみれば、若菜に対して一人称を変えたのは半分無意識だった。彼女の自分探しに付き合うと決めた時、なぜか自然、僕の一人称は『俺』になった。ちなみに僕の一人称が『僕』になったのは、紗季を亡くしてからだ。はっきりとした自覚的な理由はないが、気づけばそうなっていた。ではなぜ、『俺』になったのか。若い彼女に目線を合わせようとして、自分も今より若い時分の心持ちになったのだろうか。あるいは若菜の一人称が「ボク」だからバランスを取ろうとしたのかもしれない。一人称がアイデンティティと結びついているというのは、日本文化に固有の事象なのかは分からないが、一種独特だ。

 だが僕の一人称に違和感を覚えるということは、最期の瞬間だけでなく、もっと前から記憶がないのだろうか。

「記憶があるのはいつ頃まで?」

「二年目の春くらい……?」

 自分探しを始めるより前だ。これは、ヌァルーなりの配慮なのだろうか?だとして、一つの疑問があった。若菜はいつから僕のことを意識していたのだろうか、と。そもそも、彼女の言ったことを鵜吞みにしていいのか?相手はあの若菜だ。

「……」

 若菜がこちらをじっと見つめている。たぶん、考え過ぎだ。

「だいじょうぶ、今度は、なんとかしてみせる。あと一歩だったんだ。神崎君のことだって、一応は救えた」

「そうなの⁉」

 若菜は嬉しそうだった。そうだ、君が救ったんだ。

 

 若菜に、当面は今まで通りでいいはずだと伝え、別れた後、僕は鬱蒼とした村の西側の木漏れ日の中を、ふらふらと散歩しながら思索に耽った。

(文乃さん)

 僕は彼女が好きなのだろうか?前回の世界の最後、()は言った。彼女を欲していると。その可能性はあると思う。可能性……なぜそんな曖昧な言い方なのか。もはやそんな無垢ではいられないからだ。自分に色んな嘘をついているうちに、何が真実かなんて分からなくなる。それこそ本質主義者と構築主義者の諍いだ。もちろん、雷に打たれたような気持ちになることはある。でもそれだけではどうにもならない。そこから、積み重ねが必要なんだ。あるものが自分の生き方に馴染むかどうか、それは実際に手に取り、匂いを嗅ぎ、傍においてしばらく過ごしてみて初めて分かることもある。人間関係も同じだ。僕は確かに、心の底で彼女を求めているような気がする。あの夜、彼女の家の庭で話して以来、僕の心の中には彼女の居場所が出来ていた。でも、なるべく気づかないようにしていたのかもしれない。それはたぶん、防衛機制だ。

 彼女と共に過ごすほどに、強く惹かれていった。そんなことは、分かっていたことだ。でも、彼女は若菜の母親で、そうでなくともあれだけの魅力だ、同僚や皆が放っておかないだろう。見えないところでパートナーがいるに決まっている。一人や二人ではないかもしれない。僕などが釣り合うはずがない。僕は、多分もう、傷つきたくなかったんだろうと思う。だから見ないようにしていた。目の前の役目に集中し、千種や、琴音や、若菜と向き合うことで意識のリソースを彼女に割かないようにした。彼女と会う際もあくまで仕事上のパートナーなのだと自分に言い聞かせた。僕が新たなキャリアを形成していくために、必要なことなのだと。だから、多分、若菜に気持ちを向けられた時、僕は心のどこかでほっとしたのだと思う。僕は、表面上彼女を遠ざけながら、実際には無意識に若菜の気持ちを利用して、ちょうどいい落としどころを探った。文乃さんの面影を宿した彼女を使って。最低だ。だからあの結末は、そんな僕の卑劣さが招いたのかもしれない。

 

『文乃ちゃんのことを助けてあげて欲しいの』

 

 誰かが、薄闇の向こうで僕にそう告げている。誰だったろうか。彼女を助ける?

 それが何を意味するのか、僕は手掛かりを求めて歩き始めようとした。

 だがそうして記憶を整理しようとした時、僕は僅かに違和感を覚えた。記憶が、曖昧になり始めているような気がしたからだ。

 記憶なんてそもそもが曖昧なものだ。明確な根拠などない。でも、なんとなく漠然と、もっと色々なことを以前は憶えていた気がする。

 僕はいま何回目のやり直しをしている?落ち着いて思い出すことで、今はまだなんとか記憶を手繰り寄せることは出来る。でもそのうち、曖昧になっている可能性にすら気づけなくなるのではないかと考えると、怖かった。

 僕はここに来てようやく、ヌァルーの言っていた「精神の摩耗」の意味を理解した。

 ただでさえ曖昧な記憶が度重なるループでどんどんと煩雑さを増す。何が正解で、何が間違いだったか。パターンは膨大にある。そして、膨大な出来事という変数に対して、的確に立ち回って最適解を手にするなどということは、不可能なのだ。僕はいま、そのことを思い知らされている。だって手段以前に、そもそも何が最適解かということすら、分からなくなっているのだから。

 精神の摩耗というのはSF的な何かではなく、もっと至極当たり前のことだったんだ。

 人の、自分の、誰かの人生を思うように操作するなどということは、狂気の沙汰なのだと。

 何ら魔術的な影響を受けるまでもなく、僕の感情や感性は擦り減っていく。ごく自然な、防衛機制として。

 まして、僕のように曖昧なものを曖昧なまま受け止めようなどというのは、ほとんど曲芸なのかもしれない。

 あるいは奴の言うように、シンプルに、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 でも僕はやはり、そうなるくらいなら、再びあのナイフの力を借りることになるだろう。何度でも。

 それは僕の罪と弱さの象徴であると同時に、存在証明だ。

 

 僕の意思とは関係なく、本当にもう猶予はないのかもしれない。これが最後のチャンスかもしれない。

 僕は――前を向いた。

 

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