図書館Ⅶ ~フィンランディア~
目を覚ますと、視線の先には見慣れたマントルピースがあった。
体を起こそうと身動きすると、全身がブリキの人形みたいに強張り、悲鳴を上げた。それでもなんとか起き上がり、周囲を見渡す。
(あの娘が、運んでくれたのかな……?)
そうであるなら、お礼を言わなければならない。
(コアカミゴケ……)
足元に、リュックがあった。中を検めると、それはちゃんとあった。ほっとした。
子器はまだ形成されていない。どこか光の当たるところに置いておいた方が良いだろう。そう思って僕はケースを携え、少女の居場所へと向かった。
耳慣れない音がした。
ぐちゅぐちゅと、何か湿ったものを攪拌するかのような、不快な音。それは、少女がいつもいる場所から聴こえてきた。
僕はケースを足下に置くと、音の出どころに駆け寄った。
(なんだ……あれ……)
薄闇の中、昏い色をしたゼリー状の何かが、彼女がいつも寝ているソファーの辺りに折り重なるようにして蠢いていた。彼女の足が見える。覆いかぶさっているんだ。それは、良くないもののような気がした。
僕は傍にあったライトスタンドを両手で掴んで持ち上げると、重量に任せて振り下ろし、そいつらを何度も叩いた。
「この!どっかいけ!」
ぶにょぶにょと、肉を打つような嫌な感触が伝わってくる。最初、少女にまで衝撃が及ばないか心配だったが、その体には厚みが感じられた。やがて壊れた手風琴みたいな音を立てながら、そいつらはどこか影の中へと去っていった。
急いで彼女の無事を確認しに駆け寄ると、 彼女は安らかな表情で寝息を立て、眠っていた。何事もなかったように。
ほっとした途端、全身の筋肉や腱が軋むような痛みが走り、へなへなとその場にへたり込んだ。火事場の馬鹿力というやつだろうか。反動が来たのだろう。
彼女の寝息を聞いていると僕もまた急激な眠気に襲われ、そのままソファーにもたれるようにして眠り込んだ。
本のページを繰る音で、目が覚める。
気づくと、体には毛布がかけられていた。
目の前では、彼女が『ツァラトゥストラ』を読んでいた。
低く唸るような音がする。外を見ると、吹雪だった。
「あ……あの……」
「目が覚めた?なんでこんなところで寝てたの?」
伝えたいことは色々あったが、まずは状況を説明しようと思った。
「なんか、黒い変なのが君に覆いかぶさってて、それを追い払って、気がついたら――」
「ああ……彼らね……大丈夫よ、害はないから……」
拍子抜けした。
「知ってたの?その、『彼ら』のこと」
「よくは分からないけど、時々気配を感じるの。わたしも、彼らが何なのか、詳しいことは知らない」
なんと言っていいか分からなかった。そんなよく分からない存在に群がられて、不快ではないのだろうか。彼女は、まるで興味が無いようだった。僕に対してと、同じように。
「叩いちゃったの、悪かったかな」
「いいんじゃない?だって、そうすべきだって思ったんでしょ?」
「そうだけど」
「害はないって言ったけど……本当のところはわからないし……気づかないところで、悪さをしてるとも限らない……考えるだけ……無駄……」
彼女の瞳には今日も光が無かった。
「あ、そうだ」
僕は床に置きっぱなしになっていたケースを取ってきて、蓋を開け、彼女に見せた。でも反応は予想できるから、期待はしない。
「なに、このコケみたいなの?」
「コアカミゴケっていうんだ。君が以前、花が好きだって言ってたでしょ?コケみたいに見えるけど正確には地衣類で、これ、紅い子器をつけるんだ。いつ付くかは分からないし、花とは厳密には違うものかもしれないけど……ごめん、これしか見つけられなくて……」
彼女はその白く華奢な指で、コアカミゴケを撫でていた。一瞥して手に取ってすらもらえない可能性も考えていたから、なんだかそれだけでも嬉しかった。
「これを探して、ずっと出かけてたの?」
「う……うん……」
「変なの」そう、言われるかと思った。でも、違った。
「……そっか……ありがとう……」
笑ったとまでは言えないかもしれない。でも微かに、彼女の唇の端が緩んだように見えた。呆れただけかもしれない。それでも僕は涙が出そうになって、何度も眉間を拳で叩いた。
「どうしたの?変なことして。だいじょうぶ?」
「ごめん、だいじょうぶだよ。光のあたるところに置いていくと、良いと思う」
「わかった」
彼女は、思ったよりその地衣類が気に入ったようだった。じっと、眺めていた。
「あ、それと、もしかして僕のこと、運んでくれた……?」
途端、いつもの表情に戻った。いや、少し、怒ってる?
「そうよ。重かったんだから……」
「ごめん、もう、限界だったみたいで……」
なんと弁解していいか分からず、目を伏せる。
「ゆるしてあげる」
相変わらず笑ってはいない。でも、その眼差しは、どこか優しいような気がした。僕が、そう思いたいだけかもしれないけど。




