村Ⅴ(後編)
「こういうことがあると、狭い村じゃ、噂はすぐに広まる。千種はオミチの通いがあるらしい、既に一度奉仕をしたらしい……事実かどうかに関わらず、噂にはしばしば尾ひれがついて、川の魚のように自由に泳いでいきおる」
僕ら二人はじっと固唾をのんで、彼の話に耳を傾ける。夜でもじめじめとした夏の空気がまとわりつき、汗が耳の裏から首筋へと流れる。
「しばらく様子を見る手もあるが、もし先んじて手を打つのであれば、選択肢はふたつじゃ」
和夫さんが告げる。それはまるで預言のようだった。
「千種ちゃんは巫女にはならん、今後一切、期待の眼差しを向けるようなことはあってはならん……と、儂が早々に御触れを出して皆を抑えること。その上で、村の中で別の役割を見つけるなり、ソトに出るなり、それは千種ちゃんの自由じゃ」
「もうひとつは、なんですか……?」
羽衣石さんの声が微かに震えている。
「正式にエンの巫女になるかどうかはともかくとして、まずは適性を見る意味でも、ケンとして祭りの日までホウシュウをやってみるという手じゃ」
和夫さんの言葉が広間に静かに響く。和夫さんは胸ポケットからメモ帳とペンを出すと、『媛』、『妍』、そして『奉習』の文字を書いて、僕に示してくれた。
僕は羽衣石さんの表情を窺った。
「奉習……」
彼女は小さく呟いた。その声には迷いと緊張が滲んでいた。玉露を淹れた湯気がまだふわりと立ち昇る中で、羽衣石さんの白い指先が湯呑みの縁をなぞっている。
「わたしが……妍として、奉習を……」
羽衣石さんは言葉を反芻するようにゆっくりと呟いた。彼女の瞳は、まるで霞の中の道を探すかのような不安を湛えていた。
「巫女になれば、この村での立場は保証される。成り行きに任せてしまうと暴走するかもしれん村の者を、適度にガス抜きしつつ、抑えることもできるじゃろう。あの二人と違うてお前さんはまだ決めかねておるのじゃろ?巫女を継ぐかどうか」
まだほとんど事情を知らないとはいえ、十八歳になったばかりの少女には荷が重い決断のように思えた。彼女を守るための措置でもあるというのは分かる。
(でも――)
そこまで考えたところで、僕の頭の中ではまた別の考えも過っていた。一般的なキャリア形成もまた、メリトクラシーだハイパーメリトクラシーだと称される社会の中で、結局は雇用サイドのしばしば不条理な都合に左右される。そこに違いがあるのか、僕にはよく分からなくなってきた。
「念のため言っておくが、妍になったからと言うて媛になれということではない。インターンのようなものじゃな。妍としての期間中に問題が生じたら、そこで終わりにしてもよい。じゃが、逆に言えば、その間に千種ちゃん自身が己の在り方を見極める機会にもなる」
虫の声が遠くから微かに聞こえている。羽衣石さんの瞳が揺らいでいた。伏し目がちにじっと考え込んでいるように見えた。
「あとは奉習といっても、千種ちゃんの場合は既にオミチの通いはあるようじゃし、最初の方の段階は既に終えておるがの」
彼女が顔を赤らめる。そして恨めし気に和夫さんの方を見つめていたが、やがて小さく溜息した。
「さて、千種ちゃんはどうしたいかね?」
羽衣石さんの瞼が閉じられる。その端正な横顔に僕の意識は吸い寄せられ、世界から音が消えていった。
「……少しだけ、考える時間をいただけますか?」
僕の頭の中で、鹿威しが雅な音を立てた。
「もちろんじゃ。少しと言わず、じっくり考えれば良い」
そう言葉をかける和夫さんからはやはり、父親か、祖父のような雰囲気が感じ取れた。
「やってみたい気持ちはあります……わたしにも、できることがあるか、確かめてみたい」
彼女の声は静かだったが、微かに揺れていた。それは決意なのか、それとも何かに押し流されてのものなのか――僕には分からなかった。
和夫さんの目が細められる。
「千種ちゃん、それが前向きな決定ならば、儂が言うべきことは何もない。じゃがひとつだけ、もし巫女になるとしても、それを代償行為のようにはせんと、そのことは約束しておくれ」
「だいしょうこうい……」
そんな僕の懸念を代弁するかのような言葉に、僕は益々彼が分からなくなった。
「何らかの満たされない欲求を、別の行動で埋めようとすること、とでも言えばいいのかな」
兎も角も、僕も少しは会話に参加した方がいいかと思って補足した。視界の端で和夫さんが頷いていた。
「もちろん、儂らとしては千種ちゃんが媛となって村の伝統を継いでくれるのであれば、それは嬉しく思う。じゃが、繰り返しになるがそれは前向きな決断であって欲しいんじゃ」
和夫さんの目に仄暗い光が灯り、表情が険しくなる。
「昔は巫女本人の意思を無視して、奉仕を強いていたような暗い時代があった」
急激にあたりの空気が、黒い水を吸ったように重くなる。
「それを儂や、燈子さんや、皆で協力して変えてきた……」
和夫さんがさり気なく語ったそれは、村の暗部に関わることだ。彼の顔の皴はあんなにも深かっただろうか。
そこへ房枝さんが新たに冷やした玉露を運んできた。和夫さんは笑顔で礼を告げると、ずずと啜った。二人の間の絆が感じられた。
「伝統がこのまま廃れるなら、それも時の流れじゃろうて。一度はそうなるはずじゃったしの……。じゃが、こんな村でも、巫女になれば千種ちゃんには何ら不自由のない暮らしは提供できる」
巫女としての禍福。どんな物事にも良い面と悪い面がある。もっとも、そのどちらも、今の僕にはまだよく分かっていない。
「それを目当てに打算的に巫女をやるというのならそれでもええ。業に貴賎なしじゃ」
違和感があった。彼があくまで行政の立場ということはあるかもしれないが、それでも巫女の役目を語るのであれば、その神聖性を前面に押し出しても良さそうなものだ。
ふと隣を見ると、羽衣石さんは和夫さんの方を向いて目を見開いていたが、やがて唇を嚙むようにしていた。そこからは驚きが読み取れたが、彼女が元々どこまで知っていたのか、何に驚いているのか、僕には見当もつかない。
「もし悩むようであれば、明日、志保さんと一緒に具体的な奉習の進め方も相談した上で決断するという手もあるが、どうじゃろう?」
羽衣石さんは意外そうな表情をしていた。
「それでも、いいんですか?」
和夫さんは力強く頷いた。
「もちろんじゃ。昔はわしら政の側の人間や社の方で方針を決めとったり、そもそも奉習自体なかった時代もあるがの?巫女の大事な体が関わることじゃ、説明を受けるにしても、決断にあたっての相談をするにしても、同性のスペシャリストの方が適任じゃろうて」
話からするに『志保さん』というのはベテランの巫女か、あるいは医師か何かだろうか。
「その上で、やはり奉習をやってみるというのであれば、止めはせん。儂としても、是非とも千種ちゃんのオミチは飲んでみたいしのぉ」
「…………」
羽衣石さんの表情からは、色が失われ、塩砂漠のごとき乾ききった気配がした。和夫さんのユーモアには現代化の余地がありそうだ。
「それでは明日の午前中、十時頃がいいかのう、迎えを遣るから、まずは内侍の巫女と一緒に志保さんのところへ行っておいで」
「はい、色々と、ありがとうございます」
羽衣石さんは深々と頭を下げた。
「あと、燈子さんにも儂から話は通しておく」
彼女の表情に僅かに影が落ちたように見えた。
「結人さん、すまんが千種ちゃんを家まで送って行ってくれんかの」
含みのある表情だ。これはまた僕を試そうとしているのだろう。
「はい、僕で良ければ喜んで」
そう言いながら羽衣石さんの方を見ると、穏やかに微笑んでいた。
「送り狼になってくれるなよ」
和夫さんが意地の悪い笑みを浮かべる。
「そんなことをすれば、僕の儚い人生は今日明日にでも幕を下ろすでしょうね。彼女にはファンが多そうだ」
羽衣石さんはまたも赤面している。僕が脳裏に浮かんだ『キュートアグレッション』というワードを手で振り払うようにしていると、彼女はそんな僕を怪訝な表情で見つめていた。




