若菜XIII
朝目が覚めると、頭の芯がずっしりと重かった。いつもと変わらないはずの蝉の声が、妙に耳にこびりついて不快だった。そして、しばらくぼんやりと天井を眺めていた。
(あんなところに、染みなんてあったか?)
ベッドの上の天井に、黴のような黒い染みがあるのが目に入った。古い建物だし、見逃していただけかもしれないが、嫌な感じだ。
意を決して体を起こすと、台所に行き、コップに水を注いで一息に呷ったが、それでも一向に頭の中のもやもやとして嫌な感覚は去ってくれなかった。
シンクからはドブのような臭いがした。今日は若菜が文乃さんを連れて来訪することになっていた。きちんと掃除しておかなければ。
一通りの掃除を終えて待つ間、部屋に備え付けの時計の無機質な音がいやに耳についた。もう、若菜たちが来る時間だ。ほら、足音が聞こえる。
不服そうなチャイムの音が聴こえてドアを開けると、いつもの笑顔の若菜と、どこか申し訳なさそうな文乃さんが立っていた。
「来ちゃった」
「予定時刻通りのご到着で」
「結人さんごめんなさい、なんだか、二人で押しかけちゃって」
「全然です。狭いし、むさくるしいところで申し訳ないですが……」
今日は僕が昼食を作ることになっていた。文乃さんとは、若菜と今の関係になった際に報告に行ったとき以来だ。
『若菜のこと、よろしくお願いね』
その時の文乃さんの表情が想い起される。何かに思いきりをつけるような、そんな雰囲気があった。
年の離れた、それでいて定職にもついていない僕が相手とあっては、不安なのは当たり前かもしれなかった。 相変わらず文乃さんの仕事はお手伝いさせてもらっているが、独り立ちするにはまだ時間がかかるし仮に上手くいったとしても、しばらくは収入は安定しないかもしれない。
「結人さん、意外と料理上手いんだよねぇ」
「なら期待しちゃおうかしら」
「あの、独身の男の料理ですし、キッチンが文乃さんのお宅とは雲泥の差なので、あまり期待しないでくださいね……適当にくつろいでいてください」
その日は簡単にパスタを作ることにした。僕はパスタが好きだった。クリーム系やトマトソース系も良いが、素材の味が引き立つオイル系のパスタが好きだ。オリーブオイルとニンニクの香りは官能的ですらある。しかしその日はブーロ・エ・パルミジャーノに地産のキノコを加えたものを作ることにした。バターを焦がさないようにうまくはしばみ色に出来るかどうかが勝負だ。大切な食事は、無難にこなすのもいいが、こういった緊張感があってもいい。
「セヴラック……好きなの?あとは村上春樹と……『悪童日記』?」
閑散とした棚にある数少ない思い出の品が目についたのか、文乃さんが僕に尋ねた。
「そうですね、最近はあまり聴かないんですが、それは昔友人にもらったものなんです。僕が印象主義音楽が好きだと言ったら、それを別れの折にプレゼントしてくれました」
文乃さんはそれをまるで自分の宝物のように手に取ると、やさしい眼差しで眺めていた。
「実は同じものを既に持ってたんですが、なんだか妙に嬉しくて、旅に出るときもそれは捨てられなかったんです」
「そう……そういうの、素敵ね」
文乃さんが微笑む。頭の奥が鈍く痛んだ。
「村上春樹は、『ねじまき鳥クロニクル』と『ダンス・ダンス・ダンス』が特に好きで、『悪童日記』は件の友人に薦められて買ったものです。それらもまぁ、お守りみたいなものです」
文乃さんは『泥棒かささぎ編』を手に取って、時々ページを捲りながら、視線を本に落としていた。僕は彼女のそんな仕草が好きだった。やがてのたくる蛇が絡むかのように胸が締め付けられ、僕は意識を逸らす為にもひとつの話をすることにした。
「『悪童日記』を読む度に思うんです。そこで描かれているのは真の過酷のひとつであり、その中で少年らは強さを得る代償として感受性を押し殺すことを余儀なくされた。人間的な感性を守るために。誰にも渡さないために。その哀切を想うと、いまの僕らの社会の中でいとも容易く感受性を放棄させ歯車にせんとする権力や構造に、果たして本当にそれだけの切実さや正当性があるのだろうか、と。実際にはそんなものはなくて、ただの薄汚れた欲得と怠慢の結果でしかないのじゃないか、と。……ごめんなさい、暗い話は止しましょう」
すると文乃さんは僅かに顎を上げるようにして言った。
「あなたにセヴラックをプレゼントして『悪童日記』を推薦したご友人というのは、女性の方なのかしら……?」
「ええ、そうですね。女性でした。少し、年下の。彼女はなんというか、心の友とでも言うべき存在です。知的で花の香りがするところは貴女に似ているかもしれません。彼女は……ダリアのような女性でした」
幻聴だろうか。高い2点の「シ」の音が聴こえたような気がした。
「そう……なんだか少し、妬けるわね」
僕とその友人の間にそういったニュアンスは全くなかったが、それでも文乃さんの瞳に差した宵闇色の気配に動揺し、僕は咄嗟に若菜に話を振った。
「若菜……さんは小説とか読む?」
「んー、最近『乳と卵』ってのを読み始めたくらい。お母さんと娘のやり取りは共感するところもあるし、結構面白いかな。文体は斬新な感じもするけど、時々つんのめりそうになるかも」
「今度、貸してもらおうかな」
そんな風に話しているうちに、パスタの茹で上がる時間になった。
「ウマー!」
「ブーロ・エ・パルミジャーノだったかしら?初めて食べたけど、すごく美味しいわ」
ご満足いただけたようだ。僕はほっとした。
「お母さんはカルボナーラとか好きだよね」
「カルボナーラもいいですよね、僕は生クリームを使わない方が好きですが」
「わかってるじゃない」
楽しいはずの団欒の時間、それなのに僕はどこか上の空だった。何かが頭の奥に引っかかっている。あれはいつかの夢?闇の奥で男が何か話している。内容は全く思い出せないのに、何か、不吉なものだった気がする。
そんな中、なぜだか僕は文乃さんが食事をするその唇から目が離せなくなっていた。
「炭酸水、おかわり要りますか?」
「ありがとう、いただくわ」
「ボクもー」
コップから水を口にし、脈打つ文乃さんの喉の動きが妙に艶めかしく感じる。耳元から流れる汗が、その豊満な胸元へと吸い込まれていく。
「暑いですよね、エアコンの効きが悪くて……いま温度……を……」
僕は眩暈がして、膝をつく。
「結人さん……?」
「ごめん、ちょっと、ふらついただけ……」
ふわりと、遊離感を覚える。
「大丈夫?顔、真っ青だよ?」
「熱中症かしら――」
おかしい、何かが。自分の体が自分のものでないように感じる。視野が狭窄し、窓越しに世界を眺めているような、そんな感覚に陥る。
「ちがうよなぁ?お前が当てられたものがあるとすれば、それは彼女の熱だ」
どこかで聞いたことのある声が、突然僕に語り掛けてきた。気づくと僕はまた椅子に腰かけ、あの闇の中にいた。
そいつは向かいの椅子に座り、肘を膝に乗せて前かがみに僕を覗き込むようにしながら、ニタニタと薄気味の悪い笑みを浮かべていた。顔は見えないが、声色と気配でそれが分かった。
「しつこいぞ……いい加減にしろよ。お前と話すことはない」
「安心しろ。別に何もしない。俺はな。ただ、念のため確認したかっただけだよ。お前の本心を」
意識が朦朧として、手に汗をかいているのが分かった。早く用件を済ませて欲しい。
「お前が好いているのは、母親の方だろう?」
だったらどうだっていうんだ。僕の本心なんて、そんな曖昧で、不安定で、理不尽なもの……今この場では何の意味もない。
「どうなんだ?」
僕はその時、そいつを追い払いたい一心だった。
「そうだ、確かに僕は文乃さんに惹かれている。でももうそんなことは関係ないんだ、だって――」
舌を鳴らすような音と共に、目の前に現出していたはずの闇も、椅子も、気配も、全ては消え去っていた。そして代わりに、若菜が目を見開いていた。
(……どこまでが僕の幻覚だ……?)
「え……なに……急に……?お母さんが……なんて……?」
「ちがう!ちがうんだ……僕は若菜を選んだ。それに嘘はない!僕は君と――」
若菜が動揺している。見たことがないくらいに。
「ひ、惹かれてるっていうのは、あれだよね?仕事のパートナーとしてっていうか、敬愛……的な……?」
なんとか軌道修正しなければならない。
「そうだよ。もちろんだ。尊敬してるし、いつもお世話になってる。そして若菜のお母さんなんだ、魅力的なのは当然だよ。僕が若菜を魅力的に想ってるんだから、自然なことだ……それは確かだ……間違いない……」
グイと首を掴まれるような感覚。再び、意識が剥される。深く、昏い水の中に投げ落とされ、水面の向こうの現実をただ眺めることしか出来ない。
「でも――」
僕の言葉が、僕を裏切ろうとしている。
「も、もう、やめてよ!でも?年の差の話とか、その話はもう決着がついたじゃん!結人さんはもう変なやせ我慢しなくていいんだよ?だって――」
「俺が心の奥底で求めてるのは、若菜……君じゃない……」
何者かが僕の口で勝手に言葉を発していた。でもその内容は……嘘ではない。何かの呪いのようだった。嘘ではないと思った瞬間、僕の理性と肉体を繋ぐ回路が遮断される。
「……なに……いってるの……?」
やめろ。若菜のそんな顔、僕は見たくない。そんな僕に気を利かせてか、僕の顔がゆっくりと文乃さんの方を向く。
「…………え?」
文乃さんの顔が動揺している。わずかに後ずさり、ゆっくりとかぶりを振っている。
「俺が本当に欲してるのは……」
「やめて」
文乃さんの声が震えている。
「文乃さん……貴女です」
不思議なほど何も聞こえなかった。蝉も、時計も、どこかに消えてしまった。
「ウソ……ウソだよ、そんなの……だって――」
「君を感じる時、俺はいつも、文乃さんの面影を重ねて――」
「やめて!」
窓ガラスを割らんばかりの声が反響する。若菜が立ち上がる。目を見開き、両手で耳を塞いでいる。いつものオーバーな演技ではない。
「なんで……そんなこと言うの?嘘だよね……?結人さんがそんなこと言うわけ……ない……え、何かのドッキリ?だとしたら、センス最悪だよ……」
「結人さん、あなた――」
「ねぇお母さん嘘だよね?結人さんがお母さんのこと好きなんて…………え?なに……その顔」
文乃さんの表情に差した僅かな焦りの表情を、若菜は見逃さなかった。
「ふたりで、ボクのこと騙してたの?……嗤ってたんだ?」
「ちがうの、若菜ちがうのよ!わたしと結人さんの間には何もない!若菜が心配するようなことなんてなにも――」
「でも……じゃあ……なんでそんな顔するの?……好きなの?」
「ちがう、ちがうわ!わたしは……彼のことなんてなんとも……」
若菜の眼から急速に光が失われていく。いつも眩く輝いていたその瞳が、濁り、塗りつぶされていく。
「ウソじゃん……」
鴉が鳴いている。
「もう……何も信じられない……初めての気持ちだったのに……!ぜんぶ初めてだったのに!……う……ゔぅ……」
若菜が先ほどまで食べていたものを全てぼたぼたとその場にぶちまけ、そのまま壁を這うようにして外に飛び出していった。胃液の饐えた臭いが部屋中に充満し、それは僕の全身の穴という穴から侵入してきて責め立てた。
僕が自分の肉体のコントロールを取り戻した頃には、全てがもう取り返しがつかなくなっていた。そのことは若菜が吐き出した吐瀉物が象徴的に示していた。美しさも、温かさも、想いも、全てが台無しになってそこに存在していた。
見上げると、僕を見下ろす文乃さんと目が合う。
「最低」
文乃さんから聴いたこともない、低い声だった。そしてまた僕は、人間のそんな冷たい目を、見たことがなかった。僕は割れんばかりの強さで奥歯を噛みしめた。
「……若菜……若菜ァ!」
僕が彼女の名を叫びながら外に出ると、空は墨色の雲に覆われていた。暗い廊下に並ぶドアが一斉に開き、中からあらゆる悪意が怨嗟の声を上げながら這い出してくるのが分かった。
空から赤黒い光が差し、見えない何かが降臨すると、若菜の体に吸い込まれていくのが分かった。
「若菜……?」
階段を駆け下り、彼女に駆け寄る。
だが、ゆっくりと振り返った若菜は、既にもう若菜ではなかった。姿形は若菜だとしても、その内に宿るものの禍々しさを、僕はよく知っていた。
「おまえ!っ――」
若菜の下半身から伸びた人の太腿ほどの太さの触手が僕の胸を抉り貫いていた。息が出来ない。口から、歯の隙間から、赤黒い血が噴きこぼれる。
僕を否定しようとしているもの。それは邪な力によって具現化した彼女の怒りと絶望そのものだ。一瞬で意識が遠くなる。世界中の皆が僕を嗤っているような気がした。最期の瞬間、耳元で声がした。
「ダイキライ」
――
――
――
酷い"演劇"だ。




