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若菜XII

 モーター音が静謐なアトリエの中に反響する。

 目の前には何やら厳めしい機械。周囲にもカメラのようなものが幾つも設置されている。それに繋がった専用の筆で、僕は数パターンの波磔を書くのを幾度となく繰り返す。

「オッケー!お疲れさま!」

 若菜のOKサインの声を合図に、一気に全身の力が抜ける。

 今日は若菜がどこからか調達してきた機材で、僕の運筆のキャプチャーを行っていた。

 僕は給湯室に移動し、古ぼけた革張りのソファに体を預けると、冷やしたジャスミンティーを飲んで一息ついた。

「もっと現役のちゃんとした人に依頼した方が良かったんじゃない?」

「いいんだよ、これで」

 僕は軽く肩をすくめて見せた。まぁ今はまだ実験段階だし、コストをかけたくないのもあるんだろう。

「バイト代もちゃんと出すからさ」

「いいよ、そんなの」

 そう、僕は若菜が隣で笑っていてくれるだけいい。……我ながら歯の浮くようなこと考えている。でも実際そうだ。絆を形成するためにお金が必要なことはあっても、絆自体は金では買えない。プライスレスだ。

「ダメ!こういうことはちゃんとしないと」

 そういうことなら仕方がない。彼女なりのけじめなのだろう。

「わかった」

 ぽすっと、隣に若菜が腰を下ろして僕にもたれ掛かってくる。

 最近の彼女は少し不安定に見えた。僕はそんな若菜の肩や髪をそっと撫でた。やがて彼女は僕のシャツの胸元に顔を埋めると大きく息を吸い込んだ。

「あ゙ーお゙ぢづぐー」

 なんとなく、大型犬にじゃれつかれているような気持になってくる。もちろん、そんなことは怒られる気がするので言わない。犬は獣臭い。若菜は甘く火照った匂いがする。全然違う。

「汗臭くない?」

「ちょっとくらいならそれもいい匂いなんだよ」

「そういうものか」

 僕も若菜の首筋に鼻先をつけてみる。頭の芯が痺れた。

「ちょっと!」

 頭を押し返される。

「なんで」

「結人さんはダメ!」

「不公平だな」

 それについては若菜は何も言わなかった。

 目を閉じる。ここは若菜のアトリエで、彼女の創った世界観で満たされ、すぐ隣には彼女がいて、匂いと、体温と、柔らかさと、彼女の息遣いがする。

 満たされていた。これ以上何を求めるというのだろうか。

「最近、何か焦ってる?」

 そんな風に、若菜に訊いてみた。

 しばらく、沈黙があった。その間、彼女は僕の存在を確かめるように、全身をくまなく撫でた。

「ボクはボクの好きに従ってやるだけだから、焦ることなんてないと思ってたんだけどさ、そんなことないんだなって……」

 見るからに弱気な表情という訳ではない、ただ少し遠くを見つめる、力強くも揺らいだ瞳がそこにはあった。

「もちろん、やることは変わらないよ。自分が届けたいものを、ただ真っすぐに、愚直に。でも、スゴッって思う人はやっぱりいるし」

 僕は気になったことを素直に訊いてみた。

「そういう人に、惹かれたりとかはしないの?」

 以前、文乃さんの手伝いで行く大学の学生には何も感じないと言っていたが、同じ方を向いている人間なら話は変わるのではないか、そんな風に思ったからだ。……僕は今更そんなことを気にしている。不安なのだろうか。

「んー……」

 いつものようにニヤついて悪戯な表情をするかと思ったが、若菜は至って真剣な表情で僕をじっと見つめた。僕は、自分の卑屈な問いに少し後悔した。

 彼女は折り畳んだ右手の中指の爪を親指で抑えるようにして、僕の顔に近づけてきた。これは――

(デコピンだ……)

 僕は身構え、思わず目を瞑ったが、次の瞬間に来たのは覚悟していた衝撃ではなかった。彼女のスベスベとした指が、僕の瞼や、眼の縁をゆっくりと撫で、なぞった。そして最後に、つんと頬を突かれた。目を開けると、いじらしい表情の彼女がいた。

「もちろん、すごく尊敬できるな、って人はいるよ?でも、ボクは結人さんの感性が好き。あったかさが、好き」

「どういう時に、そう感じるの……?特に、前者」

「はっきりいつって言われるとムズカシイけど……いつもの会話の端々っていうか……あ!あと小説とかぁ?」

 若菜がニヤニヤし始めた。僕は背筋に水を垂らされたような心地がした。そもそも彼女には見せたことがないし、書評の仕事の傍ら、こっそり書いていること自体言ったこともないはずだ。

「いつ……見たの?」

「いつだったかなー、結人さんが寝てる時。悪いかなとは思ったけど、画面ロックもかけないで開きっぱなしだったんだもん。気になるじゃん?」

 僕は顔を手で覆って、下を向いた。

「ご、ごめんって!でも、ボクけっこう好きだったよ?えーっと、なんだっけな――」

「ストップ!」

 恐らくどこかを引用しようとしたのだろう。正直、感想は気にはなる。だが心の準備が出来ていない。だがそうしているうちに、彼女が耳元で囁く。

「書いてたのと同じこと、してあげよっか?」

 なんということだ。僕は天を仰いだ。

「ウッソー、さすがにね、そういうシーンまで来たところでマズイと思って読むの止めたから、大丈夫。……ごめんね?勝手に見ちゃって」

「いや、いいよ。いつか感想はもらおうと思ってた。でも、別にそんな過激なシーンないよ」

「そうなの?」

「文学的品位を保つように意識してるからね」

「へー」

 そこからしばらく、若菜は喋らなくなった。だから僕も、喋らなかった。


「しみしみ」

 唐突に、若菜の口から謎の擬音が零れる。

「……しみじみ?」

「チガウ。し・み・し・み。結人さんがボクに染み込んでる音」

 独創的だ。

「お腹を壊さないといいけど」

「結人さんには、染み込んでないの……?」

 若菜が僕を見上げる。

 ああ。染み込んでいるとも。触れ合ったところから、しみしみと。乾き、ひび割れた心に、天気雨のように彼女は降り注ぎ、僕を(ほぐ)してくれた。

 でも僕が答えるより先、若菜は僕に跨る様に姿勢を変えると、こちらを正面から見つめる。

「結人さんさ、いつもなんか、ちょっと我慢してない……?」

「いや、そんなつもりはないけど……」

「いいからね?もっと、ボクにぶつけてくれて。ボク、千種みたいに女の子っぽくないかもしれないけど、結人さんのことはほんとに――」

 今度は僕が、彼女の言葉を塞いだ。若菜の手が僕の背に回り、背骨の上をなぞる。水平線の上を往くヨットみたいに。

「千種さんは、若菜のことを羨んでるかもしれないよ?みんな、若菜みたいな娘が好きなんじゃないかって」

「千種は、分かってないんだよ。あ、これ、ナイショね」

「若菜だって、分かってない」

 そんな若菜の瞳の奥に、あの熱が灯る。

「あの……さ……」

 若菜がおずおずと、口を開く。彼女にだって羞恥心がある。だから、僕が言う。彼女の情動を引き受けて、確認する。

「ここだと安定しないから、ベッドでいい?」

 

 彼女は言う。

「ボクのこと選んでくれて……アリガト」

 選択肢なんて、ない。

 それを証明するように、何も隔てることなく僕らは互いを求め、感じる。

「フツーに幸せになれると思ってるの?」

 時折、幻聴が聴こえた。

 若菜が口にするはずのない言葉、知るはずのない事実が、僕に跨る若菜の顔をして吐きかけられた。

「薄汚れた愛人の子どものクセに」

 ……。

 

 母がその事実を僕に告げたのは、父が世を去ってしばらく経ち、彼女の精神が安定した頃だった。

 僕は「そうか、別にどうってことない」そんな風に返したし、実際そう思っていた。むしろ、思春期に感じていた彼女から僕への強迫的な側面に合点がいってスッキリとしさえした。本当になんとも思ってなかった。今の今まで。

 彼女はしばしば僕に問うた。「あんたは自分のことを幸せやと思う?」、あるいは、「不幸やと思う?」そんな風に。彼女は自分が不幸であることを確かめずにはいられなかった。そしてそのことは、僕をいつも苛立たせた。

 彼女は自分の元の家族と縁を切っていた。数回だけ会ったことのある彼女の父はアルコール依存症で、ほとんど会話が成立しなかった。彼女はよく、彼女自身が戸籍上の父の子どもではないに違いない、と言った。そこには怨嗟の感情が横たわっていた。よく冬に冷水のシャワーを浴びせられたという話をしていたが、もしかすると、もっととても口には出来ないような虐待があったのかもしれない。そのくらい、彼女は、僕を使って、強迫的に自身が不幸であることを確認した。

 『あんたには最高のもんを与えてるんやから最高の人間にならなアカン』

 一見和やかな口調だったが、その言葉は僕の中に()()()のように残った。

 彼女は言った。自分の息子は前妻の子どもを凌駕せねばならなかったのだと。そんなことを思い出すうち、僕はある考えに囚われ始めた。

(僕は今でも、傷ついた人間を求めているんじゃないのか?)

 学生時代に付き合ったある女性は思春期に父を亡くした傷を抱えていたし、同じく母子家庭だった別の女性も時々ひどく不安定になり、ひどく心細い顔をして僕を突き放し、殴った。でもそのまま彼女を独りにしてはいけないと分かっていた。僕はいくら彼女に殴られようと、落ち着くまで抱きすくめる必要があった。それは彼女を落ち着かせ、僕に仄暗い温かさをくれた。僕がそんな風に傷みを抱える女性達と同じ時間を過ごすことになったのは偶然のはずだった。ありふれたことのはずだった。

 でも僕の中の虚ろが彼女達を惹きつけたのではないか、いまそんな風に考えてしまう。ありもしない意味を捏造する。

 でもいずれにせよ、僕はそんな風に互いをすり減らし合うような日々に疲れ、紗季に癒され、ごく普通の家庭と人生を手に入れたはずだった。

(なんなんだこの渇きは)

 僕は更におかしな考えに憑りつかれ始めようとしていた。僕は自分の孤独に対して、自分で選択して、自分が求める温かさや包容力を内面化してきたと思っていた。それは僕の防衛機制だと思っていた。でも、それは母が僕をそういう風に使っていたから、その通りになっただけじゃないのか、と。彼女たちを慰めるためのもの。愛玩物、あるいはディルドー。そんな間違った考えが生まれた時、僕の脳裏にジュルジュルという湿った音が甦った。あれは何歳の頃だったろうか。憶えていないくらい昔の記憶、あれは母が僕の耳を口に含んでしゃぶる音だ。なんのことはない、不快ではあったが、ただのスキンシップだと思っていた。でも僕の頭に生まれたイメージがそこに別の意味を持たせ始めた。僕は段々と、自分の記憶に自信がなくなってきた。

「冷静になれ」

 僕は声に出して、そう言った。静寂の中、部屋の時計の音が嫌に耳についた。隣では若菜が寝息を立てている。守ってあげないといけない。

 そうだ、そんなことと今の僕の飢餓感にはなんの関連性もない。僕の中の邪な何かが無理矢理に関連付けようとしているだけだ。母には母の過去と人生があり、懸命に生きてきた。僕には僕の人生がある。それらは影響し合うが、コントロール可能なものだ。もう何も問題はないんだ。僕は夢のように軽やかでキラキラと眩い若菜とこれからの人生を創っていくんだ。

 そこまで考えてから、僕は倒れ込むようにして給湯室の錆びたシンクに向かい、コップに水を注いで飲んだ。蝉が鳴いている。汗が喉を伝う。いつもと何も変わらない。これからも変わらない。むしろ良くなっていくんだ。そうするべきだ。

 

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