若菜Ⅺ(後編)
再び台所に立つ若菜に、今度は僕が語りかける番だった。
「そういえばさ」
「うーん?」
「化けの皮は剥がれてきた?」
僕にとっては肝心の話題だった。それは僕が言い出したことだ。「化けの皮を剥してくれ」と。その進捗を確認する必要がある。
「うーん、そうだねぇ。まぁー、それなりに?」
自分で尋ねておきながら、僕はなんだか塩を振られた青菜のような気分になった。なるべく苦しまないよう、ひと思いにやってくれ、と僕はどこか投げやりな気持ちになりかけていた。
「たとえば?」
できるだけ平静を装って僕は尋ねてみた。
「意外と、っていうか案の定、っていうか……エッチなとことか?」
想像していなかった指摘に僕は動揺した。
「え、ごめん、俺なんかしたかな?」
なにか落ち度があったろうか。スマートフォンやPCにはロックをかけているはずだ。その他の面でも基本的には紳士的な態度を貫いてきたつもりだった。
「結人さん……」
若菜はキッチンを離れると、ゆっくりと正面に腰を下ろし、テーブル越しに僕の頬を両手で挟んで見つめながら、嗜めるような口調で言葉をつづけた。
「女の子ってね、男の人が思ってるよりずっと視線に敏感なんだよ?」
「……」
心当たりが有るか無いかでいえば、確かにあった。沈黙は金だ。
「……」
しかし、僕の心もまた金のように軟だった。
「……ごめんなさい」
若菜は訝しそうに細めていた目をぱっと開き、いつもの笑みを作ると、僕の頬を犬にするようにぐりぐりとさすった。そして、自らの胸を抱くようなポーズでしなをつくり、流し目にこちらを見る。
「まぁボクとしては?そんな風に?熱い視線を送られるにやぶさかではないですけど?」
僕はテーブルに肘をついた片手で顔を覆うしかなかった。確かに僕は近頃、どこか油断していたのだと思う。
「素直になっちゃいなよ~?ねぇ~?べつに合法だよ?」
「だからそういう問題じゃないって何度も……」
では何が問題なんだろう。僕はだんだん分からなくなってきた。ふと頭に「コンテキスト」という言葉が浮かんだ。誰かがそう言っていた気がする。誰だったろうか。
「じゃあ、もうボクのカラダをいやらし~い目で舐めまわすように見るのやめてよね」
若菜は肉切り包丁で葱でも切るようにきっぱりと言った。
「別にそんないやらしい目で見ては――」
立ち上がった若菜を見上げる形となり、ショートパンツから覗く健康的な足につい視線を誘導される。まずいと思った時には既に遅く、ニマニマと笑っている若菜の顔に僕の表情は凍り付いた。偉そうに講釈を垂れていた結果がこれだ。僕は思わず自分の頬をしたたかに打った。
「ちょっちょっちょっ!なにしてんのー⁉えぇー」
ちょっと引いた表情で眉をハの字にしながら、若菜は僕の頬を撫でる。彼女の滑らかな手の感触が心地よかった。意図せず、二人の距離が近づく。
どちらからともなく見つめ合い、しかし僕はすかさず、その魅了の魔力を放つ若菜の瞳を手で覆った。
「う……」
「……」
若菜と接していると、そんなつもりはないのに、どこかコメディタッチになってしまう。そうしていつしか絆されていく。それも彼女の引力なのだ。
「結人さん、ボク、お婆ちゃんになっちゃうよ?」
「若菜ちゃんなら、きっと可愛いお婆ちゃんになるね」
僕は話を逸らすことにした。
「そういうことじゃなくて!」
「こういう家庭的な姿を見てると、意外と様になってるし、若菜ちゃんが望むかは分からないけど、子どもと一緒に過ごしてる情景も浮かぶ。何にだってなれるよ」
若菜はふと頬を赤らめると、俯き加減でぼそぼそと話し出した。
「その子どもは、どこからやってきたのさ」
話を逸らすつもりが妙な雲行きになってしまった。まずい。
「それは……若菜ちゃんのお腹からだろうね」
「ひとりじゃ、赤ちゃん、つくれませんけど?」
「そうですね」
人類はいまのところ単為生殖不可だ。
「誰とつくるんですか?」
「さぁ、それはその時にならないとなんとも」
「結人さん!」
若菜の強い語気に、三十三歳になった僕は慄いていた。タイムループの影響でもはやあやふやだが、公式にはそのはずだ。
「ボクと赤ちゃんつくる未来は、ないの?」
直截的にすぎるその言葉に、僕もつい顔が熱くなるのを感じた。そんな風にストレートな感情を向けられることに慣れていない。
「若菜ちゃんこそ、あれから何か分かったの?どうして俺を選ぶのか……」
こうなったら徹底抗戦だ。
「分かんないよ。良いとこも悪いとこも見えてきたけど、もっと分かんなくなってきた。前よりもっと……好きな気持ちが大きくなって……隠してるけど、すっごく苦しいんだよ?……理屈じゃないんだってこと、すごく分かる……本当にどうしていいかわかんないよ……」
いずれ徐々に熱が冷めていくだろうという僕の楽観は見事に打ち砕かれていた。僕はいつだって悲観的なようでいて、楽観的だ。気づいたときには状況は悪化し、取り返しがつかなくなっている。PMとしては失格だ。
「最近は文乃さんの手伝いで外に出たりもするんでしょ?研究補助員だっけ?そこで出会いとかはないの?」
「確かにお母さんの大学の講義の手伝いで、大学生とかと話す機会は増えたけど」
「ほら、あるじゃない。そこでこう、なんかちょっとこの人いいかも?とか、そういう気持ちとかって――」
カッと目を見開いてこちらを見つめる若菜の鬼気迫る表情に僕は気圧された。
「それがさ、まっっったくないんだよ。自分でもビックリしちゃった」
言葉を溜めに溜めて彼女は言った。そんなに溜めなくてもいいのにと、僕は出会ったこともない大学生らに少しばかり同情した。
「正直、少しは期待してたんだよ?結人さんを好きになって、それでボクの心境も変わって、他の人にも好きとまではいかなくても、それのスーパープチ版みたいな感情が芽生えたりするのかなーって。結構ワクワクしてたんだよ」
若菜がまくし立てる。
「全っ然ない。どゆこと?デートとかにも誘われるんだけどさ、なんか面倒くさくて、いつも丁重にお断りしちゃってる」
やはり誘われはするのだなと、僕はやや複雑な気持ちになった。
「今の若菜ちゃんの状態はデミセクシュアル・デミロマンティック、みたいなことなのかな」
「それ!お母さんも言ってた」
さすが文乃さんだ。今の若菜であれば、そうした既存の概念を用いて自己を見つめていくのも手段としては有効だろうと思えた。
「でもそれって、別に悪いことじゃないんでしょ?」
「そうだね、悪いことじゃない」
あらゆることはスペクトラム上に位置する。良いも悪いもない。あるようにあるだけだ。それがどう自分の幸福に寄与するのか、考えていけばいい。
「……結人さんはさ、たぶんボクと男女の仲になっても、責任が取れないって思ってるんだよね?」
「そう、だね」
恐らくそういうことなのだと思う。
「でももしさ、この先やっぱり結人さんみたいに好きになれる人と出会えなくて、独り孤独なお婆ちゃんになっても、その責任はとれるの?」
「それは……」
男も女も五万といる、君はまだ十代なんだから焦ることなんてない、そんな一般論を、これだけ自分に真摯な想いを向け、そして少し変わった事情を持つ若菜に対して返すことは、なんだか不適切なことに思えた。
「責任をとるってことは、失敗しちゃいけないってこと?失敗しない恋愛ってなに?」
「……」
僕はその答えを持ち合わせていない。僕はなんだか自分が童貞のような気分になってきた。僕は何も知らない。
「お金持ちと結婚すること?偉い人と結婚すること?でもそういう人の年の差婚ってよく話題になるけど、若い女の人の方が批判されてたりするよねぇ?おかしくない?」
「それはまぁ、たしかに」
結局はどちらの方が搾取的に見えるのか、という問題なのかもしれない。男性が年下の女性を性的に搾取しているのか、女性が年上の男性を経済的に搾取しているのか。いずれにせよ、そうした搾取構造になりやすい関係性への警句として、恋愛は近い年齢の男女で行われるべきという規範意識があり、それ自体は必要なものなのだ。しかし、それはあくまで規範意識に過ぎないものとも言える。その他にも色んな歪みの誘因となることも、他ならぬ僕自身がよく分かっていることだが、結局はリスクを天秤にかけ、個々別々に当事者が考えていくしかない。
「若菜ちゃんは、凄いな。俺に色んな気づきをくれる」
「結人さんはさ、自意識過剰なんだよ。ずっと年下の女の子と付き合う男が碌でもないっていうなら、その碌でもないところをボクに見せてよ。失敗させてよ。それとも、結人さんが失敗したくない?」
若菜は母とは違う。今でもこれだけ自立した考え方が出来るのだ。同じになりようはずがない。では僕に簡単に搾取されるような柔な女の子なのか?それも恐らく違う。そこで、僕は一つの可能性にはたと気づく。
「確かに、怖がってたのは俺の方なのかもしれない。若菜ちゃんみたいに素敵な女の子の相手が自分に務まるわけがない、いつか捨てられるのは自分の方だって、無意識にそんな風に、恐れていたのかもしれない」
そういう恐怖は確かにあるのだ。それ以前の問題があまりにも山積していて、目を向けられていなかっただけで。
「……ごめんね、ボク、意地悪だよね」
若菜は俯く。絵筆で線を引いたような、その美しい睫毛が、微かに震えていた。
「謝ることはないよ、俺がそうさせたから」
「……」
カタカタと、何かが蓋をこじ開けて溢れようとしていた。
「無くなっちゃったよ」
「え?」
畳の上に視線を投げた僕の視界の端で、若菜が顔を上げたのが分かった。
「無くなっちゃった」
「なにが?」
喪失が真新しい余白を生む。あとから思えばこの時、僕はその余白の鮮烈な瑞々しさに心を奪われ、冷静さを欠いていたのかもしれない。
「若菜ちゃんを拒む理由が」
目を合わせなくとも、若菜が顔を赤らめているのが気配で伝わってくる。
「無くなると、どうなるんですか?」
敬語なんて、初めて出会った時ですら、使わなかったじゃないか。
そのどこかしおらしい声は、僕の心の中にあるドアをノックする。彼女らしく軽快に、挑発的に。えいえい、と。
「俺の自制が効かなくなるかもしれません」
彼女に触発され、つい僕も敬語になる。
「そうなると……どう……なる……の?」
若菜の声には淡い桜色をした期待の色が滲んでいた。
「若菜ちゃん、鍋」
「ナベ?」
「鍋の火、まだ大丈夫?」
「……!?ヤバっ!!」
それから僕らは二人で夕食をとった。どことなく気まずい空気の中、僕は彼女の料理の出来栄えを褒め、彼女が工夫のポイントを雄弁に語り、徐々にいつもの調子を取り戻していった。パッとしない蛍光灯の光の下で僕が皿を洗い、彼女が布巾でそれを拭く。時折訪れるデコボコとした沈黙も、まるでその歪さが背を揉みほぐすかのように心地よかった。そんな風に穏やかな時間が過ぎ、片付けを終えると、やがて別れの時間がやってくる。若菜が支度を終え、玄関の前に立ったところでふと彼女が立ち止まる。
「今日はこのまま、帰されちゃうんだよね、ボク」
「……そのつもりだけど」
僕は出来るだけぶっきらぼうにそう答えた。
「そういうものですか」
「若菜ちゃん、俺の理性に敬意を払ってくれないか」
ここが分水嶺だ。でも僕はいつの間にか大人を気取れなくなっていた。もっと諭すような言い方も出来たかもしれない。君はここで帰るべきだよ、と。
「ストイックすぎやしませんかね」
「現実はエロ漫画じゃないからね」
その通りだ。異論は認めない。例え状況がエロ漫画的だとしても、そこで文学的に品位を保った行動をとることに意味がある。エロ漫画的な状況でエロ漫画的なことをしたら、それはただのエロ漫画だ。
「エロ漫画だったら、どうなるんですか?」
「エロ漫画だったら……多分夕食前の勢いのまま突入してる」
象徴的に噴きこぼれる鍋と同じに、僕らの情欲も溢れ出していただろう。火を止めに走った若菜をキッチンで後ろからそっと抱きしめ、耳元で「君を先に食べたい」と囁く。ナンセンスだ。
「なんで……そうしなかったの?」
僕は考えた。でも、考えるまでもなかった。
「それは、せっかく若菜ちゃんが作ってくれたご飯、温かいうちに食べないと勿体無いと思っ……て……⁉」
気づくと、若菜の唇が僕の口を塞いでいた。どれくらいの間そうしていただろう。唇から伝わる彼女の柔らかさが僕を支配しようとしていた。眠っていた細胞が目を醒ます。やがてゆっくりと惜しむように、彼女の踵も地に着いた。
「好き……そういうところも……ダイスキ……」
彼女らしい素直な言葉が溢れ出していた。その熱い吐息が、僕の首元をくすぐった。
「今すぐ……結人さんの素直な気持ち、全部ぶつけて欲しい……結人さんの気持ちの証が欲しい……」
僕の……気持ち。何を選び取るべきか。それは僕にしか分からない。
「お願い……」
若菜が僕を見つめる。玄関の薄闇の中でも、その全身から立ち上る熱と、瞳の奥で蕩けた情念は、闇夜の蛍のように光って見えた。
「若菜ちゃん」
もう、覚悟を決めよう。きっとこれが最適解だ。
「若菜って、呼んで?」
初めて出会った雑貨屋を思い出す。
「……若菜」
あれからたくさんの時間を共に過ごした。色んな表情を見てきた。
「なぁに?」
でも、まだ足りない。
「好きだ」
次の朝、ツクツクボウシの声で目を覚ますと、僕の世界には既に若菜がいた。艶やかな瞳や、髪や、肩が、僕のくすんでいた世界を彩っていた。
「寝顔、ごちそうさま」
「どうも……あっ、ちょっとごめん」
寝起きの自分の口臭が気になり洗面台に向かおうとする僕を若菜が抱き止める。
「ダメー。あっ……」
若菜が何かに気づいたように動きを止める。つと、背中をなぞる指の感触があった。
「ごめんね、ボクがいっぱい爪立てちゃったから……」
昨夜の記憶が蘇る。僕は若菜の方に向き直ると、彼女を抱きしめた。
「若菜の気持ちの証だから、大丈夫だよ。男の勲章だなんて言い回しは、この歳で口にするにはマッチョなだけで好きじゃない。もっと若い男性が言うなら、可愛げがあるかもしれないけどね。でも……この痛みが愛おしいのは確かだ。って、こういうのは普通女性のセリフか……」
「ぷっ、結人さん、乙女〜」
一見、いつも通りの若菜だ。
「若菜は、平気?その……」
若菜が額をコツンと僕の肩に当てる。
「大丈夫だよ……なんか、ムズムズするけど」
僕は彼女のさらりとした髪を撫でる。
「後悔してない?」
彼女の気持ちにカラダが追い付いているのか、僕は少し心配だった。
「結人さんこそ、どうなのさ」
伏し目がちに、彼女が僕に問う。
「してないよ」
若菜が僕を見上げた。
「ほんとに……?」
「そんな余裕、もうないよ。若菜との時間を一秒も無駄にしたくない」
若菜の目から感情が溢れる。
「よかったぁ……」
若菜がぐすぐすと涙ぐんでいた。彼女は最近涙もろい。そうさせたのが僕ならば、責任をとらねばならない。
「不安にさせて、ごめん」
「ううんっ……だいじょうぶっ」
僕はもう一度強く、若菜を抱き寄せた。
「……あの、ナニカ当たってるんですけど」
若菜のお神乳の効能だろうか。僕の体は活力に満ち満ちていた。そして今は寝起きだ。
「これは……朝特有のこういう生理現象で……俺の気持ちとは関係なくて……その、ごめん」
「いいよ……朝ごはん、食べよっか」




