若菜Ⅺ(前編)
その日は、珍しく若菜が夕食を作ると言い出した。普段彼女がどの程度料理をするのか分からなかったが、それが彼女の未来の糧となるのであれば、喜んで礎になろうと、僕は心に決めた。
そうしてヒグラシの鳴く声が部屋の中にまで染み渡る夕暮れ時、エプロン姿で台所に立つ姿を後ろから眺めながら、僕は感慨のようなものに耽っていた。
「ねぇ、ちょっと訊いてもいいかな」
「なに、藪から棒に」
出し抜けな若菜の問いかけに、僕は少し身構えた。
「結人さんはさ、なんで最初、あんなにもボクと一緒にいることに抵抗したの?」
「……今でも抵抗はしてるよ」
そう、そのつもりだ。部屋に入れたからといって、その事実を過大評価してはいけない。
「はいはい、そうですねー。でもあの時はこんな風にボクを部屋に上げたりなんかしてくれなかったでしょ、きっと」
「そうだね」
過大評価はしないが、それは様々なニュアンスの土台となる。
「結人さんがちゃんとした大人だから、っていうのは分かったよ。でもそれだけじゃないような気がしてる。ちがう?」
若菜は鍋の火を弱火にして、テーブルを挟んで向かい合うように、僕の前に座った。一度何かを言い出した若菜の好奇心を止めることは出来ない。そして今は、好奇心だけではない。彼女はもっと深いところで、僕を知ろうとしてくれている。
「長い話になるし、その割につまらないと思うけど」
「知りたいな。ボクの足りない想像力を育てるために」
彼女は両手で頭を支えるようにして、前のめりに僕に向き合う。僕の心を覗き込むかのように。やれやれ、まったく僕は一回り以上も年下の少女の完全に手の平の上だ。僕がどういう態度や言葉に弱いのか知り尽くしている。
「……理由はふたつあるかな。でも、本当になんてことない理由だよ。些細で、歪で、生々しいばかりで、何のドラマ性も、文学性もない。そんなことを主人公が気に病んでいると連載で明かされたら、すぐにでも破り捨てられて大炎上するような種類のことだ」
若菜が目で僕に催促をする。観念しよう。僕の矮小さや下らなさを知るのは、彼女には良いクスリかもしれない。
「ひとつは、まぁよくある学生時代の話で、割と年下の女性を傷つけちゃうことが多かったんだよ」
「え、結人さんそんなにモテたの?」
若菜が二足歩行する猫でも見たかのような顔で僕を見た。
「そこに食いつかないでよ。たまたまだよ」
人生にはモテ期というものがあるのだ。多分、今が二回目だ。だがそれも問題だったのだと思う。僕は分かりやすくモテるようなタイプじゃない。だから、何かの拍子で急に次々と好意を向けられると、どう処理していいか分からなくなった。突然ステージに上げられても困る。複雑な感情が絡む繊細な場面で、自分のことを客観視したり、相手の気持ちを想像したり、また自分の中の深淵を覗くような経験が圧倒的に不足していた。性的な面でも関係性においても常に飢餓状態にある普通の男である僕が、そんな状況で器用に振舞えるわけもなかったのかもしれない。
「ふぅん……まぁでも、浮気はダメだよねぇ」
若菜が見透かしたかのようにカマをかけてきた。
「浮気か。あながち間違いとも言えないな」
「……」
若菜は真剣な眼差しで僕を見つめていた。これは誤魔化せない雰囲気だ。
「当時付き合っていた女性がいたんだけど、なんていうか、肉体的な貞操を守っていれば、他の女性とはある程度どんな付き合い方をしてもいいだろう、って当時は思ってた」
そうした姿勢は、一方で存在する「精神的な貞操を守っていれば肉体的な貞操に大した価値はない」というスタイルに対するアンチテーゼとして僕の中で密かに強化されていたかもしれず、その意味ではむしろタチが悪かった。そんな単純なことではないのに。僕たちは肉体から逃れ得ないが、当然それが全てでもない。カラダも、心ですら、ある時は間違いなく僕らの一部として悦びをくれるが、ある時は非常に冷淡だ。それに抗わなければならない時もある。人間として。
「だから今思えば、むやみやたらと思わせぶりな態度をとってたんだと思う。でもそれって、なんていうんだろう、感情の搾取と言えばいいのかな。自分は安全なところから、美味しいところだけ味わうというか」
僕は久々に当時の愚かな自分を思い出して、口の中が酸っぱくなった。
「それで、彼女さんを怒らせちゃった?」
「いや、怒らせたというか、傷つけたのは他の娘たちの方だったよ……特に、憶えている人がいる」
彼女の無垢な笑顔が想い起こされる。春の微熱のような、可憐な女性だった。
「彼女は俺よりふたつ年下で、二人で会ったりすることに、俺が気づかないうちに強い罪悪感を覚えていた。結果的に、もう会わないようにしようって、向こうからそう告げられた」
最後に彼女と食事をした次の日、別れは電子メッセージで伝えられた。
僕にとっては唐突だった。でも、彼女はずっと悩んでいたんだろう。
だから僕が思い出す彼女はいつも笑っていて、涙も、軽蔑の眼差しすら、僕には課せられなかった。そんな文学なんて、そこにはなかった。
罪悪感というのは人に無力感を与える最たるもののひとつだ。僕はそれを彼女に課してしまった。その重みに、僕は改めて胸の奥に重い石を積まれるような気持ちがした。
「なるほどねぇ、そういうものか……」
若菜は難しい顔をしていた。彼女なりに何とかイメージしようとしているのだろう。
「若菜ちゃんには、まだうまく分かんないか」
「ボクは恋愛に関しては、赤ちゃんみたいなもんだからねぇ」
若菜は自嘲的な笑みを浮かべながら、肩をすくめて見せた。もっとも僕だって、恋愛偏差値的なことを言えば、彼女と大差ないかもしれない。
「でもとにかく、俺は自分の中の無意識の悪意のようなものに、結構打ちのめされちゃったんだよ。自分なりに大切に想っていたはずの娘が、自分のせいで深く傷ついたことに……いや、違うな。俺はまだ自分のことを良い風に言おうとしている。あの時の俺は、肉体的な接触を伴わない浮気をしてたんだよ。どう言い訳したって、傍から見れば事実としてはそう。自分の想像力不足が招いたことだ。それは自覚的な悪意ではなく、自分なりの善悪の線引きの中でちょっと良い思いをしてやろう、程度のことだったかもしれない。でもそのエゴが想像力を鈍らせていたとすれば、それは悪として断罪されて仕方のないものだ」
すべてを吐き出してしまうと、むしろいくらか楽な気持ちになった。でもそのこと自体が僕に自己嫌悪を課す。こうなると無限ループなのだ。贖罪に終わりはない。だからもうあまり、考えないようにしてきた。
「ふぅむ」
「幻滅した?」
若菜は穏やかに微笑んだ。
「ううん、そもそもボクにはまだよく分かんない領域のことだし。でも、今の結人さんが反省してるのは分かるし」
「……ありがとう」
僕は正直、ほっとしていた。彼女が僕を責めたとしても、僕にはそれを受け止めるしかなかった。だが、どこかで分かっていたのかもしれない。彼女は僕を責めないと。狡猾だ。
「でも……その女性が本当に結人さんのことが好きで、結人さんのことだから、きっと優しい言葉をかけてあげてたんだよね?触れ合ったり、エッチなことはしなかったのかもしれないけど、一緒にご飯食べたり、笑い合ったりして……でも結人さんには彼女さんがいて…………結構、キツイかもね」
彼女は、成長している。いや、むしろ彼女だから、分かるのか?
「だからこそ、結人さんもつらいんだよね」
僕は、音がするくらい手を握りしめた。彼女は、分かっているんだ。
「……でも、こうやって俺が話すと、多くの場合、反応はふたつに割れるような気がするんだ」
「というと?」
「ある人は、そんなのは有り触れたことで気にしていたらキリがないと言い、ある人は、最低だと罵る。でもそんな風に考えていると、世の中には人を平気で傷つける人間と、傷つけられて怒っている人間の二種類しかいないような気がしてくる。おかしな話だ。その世界では、傷ついて声も上げられない人間や、傷つけたことを悔いながら生きている人間は透明なんだ。お前はどっちなんだと問われる。どっちの配役なんだと。善良で無垢な人間か、悪辣で鬼畜な人間か。二者択一。そんなのは戦争の理屈だ。どっちも暴力だ……ごめん、話が飛躍したね」
そう言って僕が笑顔を作って若菜を見ると、彼女は目を細め、テーブルの上に置いた僕の手に滑らかでさらりとした作りたてのような手をそっと添えてくれた。そして微笑む。
「もうひとつは?」
僕は一度、目を閉じた。それでスイッチが切り替わる。
「もうひとつは……前提として、俺の父と母は三十離れてたんだ」
「三十……」
若菜は見たことのない数式を見るみたいな顔をしていた。
「それはまた……なかなかだね」
うまくイメージできないのだろう。それはそうだ。僕だって未だによく分かってないのだ。
「幼い頃は、別にそれ自体を何か苦に思ったりしたことはなかったよ。でも、今思うと、それは母親の成長を妨げていた気がする」
父が吸う煙草の煙のイメージが、脳裏に浮かぶ。やがてその煙は、焼香の煙へと変わっていった。
「俺が二十代半ばの時に父が亡くなった。年齢と不摂生を考えれば、早すぎるということはなかった。でも、俺が彼のことを知るには、あまりに早かった。父は基本的にいつも書斎に籠ってカタカタやっていて、食事時にも中々出て来なくて、母はそれに不満を募らせてもいたみたいだった。食事以外で外に出てくるのは、犬に餌をやるか、盆栽に水をやるか、応接室で音楽を聴くか、居間で映画を見る時くらいだった。物心ついた時には既に定年退職していてずっと家にいたけど、まともに話した記憶がない。もちろん俺は俺で思春期だったから、素直になれないところもあったり、大学進学してからは、目の前のことで手一杯だった。死因は脳卒中で、連絡を受けた時には意識障害で既に会話できる状態じゃなかった。約一ヶ月の間、死の淵を彷徨った後、彼は旅立った。その一ヶ月にしても、俺は取り乱す母の対応に気を取られて、とても病室で父に語り掛けるような気分にはならなかった。もっと、色んなことを話したかった。でも、叶わなかった。俺は、彼が倒れる前に、最後に何を話したかすら憶えてないんだ。きっと、学生生活についての、何てことのない話題だったんだと思う。憶えているのは、玄関で俺を見送る、小さな佇まいだけだ。かつては道路まで見送りに出てくれていた彼も、食が細くなり、その頃はもう玄関までだった。素っ気ないものだった。何度か頷くようにして、いつもと何も変わらず、軽く手を上げただけだ。だから、俺は未だに父がどんな人間だったか、自分にとってどんな存在だったか、よく分からない。その意味は、ずっと宙に浮いたままなんだ。でも少なくとも感情的な母とは違う、基本的に知的で、冷静で、温和な人だった。母と揃って俺を詰ることもないではなかったけど、母にスプレー缶や化粧品を投げつけられるのからは、庇ってくれた」
気づくと握りしめられていた僕の手に、若菜が何も言わずに手を添えてくれていた。
僕は、自分に驚いていた。父のことを、こんなにも話すつもりなんてなかった。
どうしてだろう。
嗚呼。たぶん、若菜の引力だ。
若菜が傍にいてくれるから、僕は――
あるいは、父を持たない彼女にこんな話は無神経だったろうか。
僕が慌てて顔を上げると、そこには目を細め、悼むような、若菜の表情があった。まるで、遠い異国の地を望むような。
「ありがとう……ごめん、話が逸れた。父の葬儀の場で母は言っていた。彼は夫であり、師であり、父でもあったと。それを俺は、どこか歪んでいると思ってしまった」
「歪み」
若菜がその言葉を反芻する。
「心当たりはあった。母の俺に対する愛情の中に、何か純粋じゃない、強迫観念のようなものを感じることがあったんだ。母が育てなければならなかった息子というのは、単に夫の子というだけでなく、恩師の子であり、父の子だった。たぶん、そこに失敗は許されなかったんだ。彼女の中で」
ぐつぐつと、鍋の煮える音が僕の鼓膜をかき鳴らす。
「そんな彼女の強迫観念には他にも理由はあったんだけど……それは今は置いておくよ。でも多分そんなこともあって、思春期の俺は常に愛情に飢えていたし、それは恋愛観にも影響したと思う」
そんな僕のことを母は「何をそんなに焦っているんだ」と冷ややかな目で見ていたのを今でも覚えている。
「パートナーを、自分なしではいられなくしようとして、溺愛して……今気づいたけど、俺は負の再生産をしかけていたのかもしれないな」
「奥さんのことも、溺愛した?」
彼女の瞳が僕を映す。それはもっともな質問だった。
「妻のことは愛していたけど、それまでのような溺愛はしなかったよ。というのも、彼女は俺とある面では似たタイプだったから」
僕はコーヒーで乾き始めていた喉の状態を整えた。大人になるとコーヒーが旨く感じる。それはコーヒーの苦みや酸味に共感できる様になるからだろうか。コーヒーの方が寄り添ってくれるかのような気分になるからかもしれない。
「俺は強迫的にパートナーを溺愛しながら、そのことに自分自身、かなり疲れてたんだよ。相手を依存させておきながら、依存されることに疲れてた」
自縄自縛。自業自得。言い方は色々ある。
「そして妻も当時付き合っていた男性と似たような関係性を築いていた。そんな俺たちが惹かれ合ったのは、必然だったのかもしれない」
紗季との初めての夜を、僕は想い返していた。彼女の狭いアパートのぎしぎしと軋む簡易ベッドの上で、僕たちは重なり合った。
「お互いに当時のパートナーと別れて、俺たちは付き合い始めた」
それが始まりだ。
「でも俺は酷く弱くてね……依存させた相手に自ら別れを告げたことへの罪悪感や、そんな風に形作られた自分の根っこにある母への怒りだったり、怒りを覚える自分への嫌悪感、ない交ぜになった色んな感情に圧し潰されて、けっこう気持ちが落ち込む時期が続いた……身勝手なものだよね」
僕は自嘲的に笑った。
「でもそんな俺でも、妻は支えてくれた……かけがえのない、存在だったんだ」
ふと、若菜が僕に手を伸ばす。いつの間にか溢れ出していた涙を優しく払い、包み込むように頭を抱き寄せてくれた。
「若菜ちゃん、俺はそんな風にやさしくされる資格のある人間じゃあない」
こんな下らないことをいつまでも気にしているつまらない人間に、彼女の存在は余りある。
「ボクが誰に優しくするかは、ボクが決めるよ。結人さんは、誰かに抱きしめてもらうべきだよ」
若菜の優しさと、柔らかさと、十代の少女特有の甘い匂いが、僕の昂った気持ちを鎮めてくれた。しかしすぐまた違う感情が湧き起こり、やんわりと彼女を押しやった。
「ありがとう、落ち着いたよ」
若菜はどこか釈然としない様子だったが、諦めたように居住まいを正した。
「結人さんってさー」
「うん」
僕は身構えた。この後にはだいたい辛辣な言葉がくるのだ。
「オジサンだよね」
「……」
ほら、案の定だ。しかし、いささか堪えた。
「いやっ、ちがくてー」
見えない暗雲を両手で押しやるようなジェスチャーをしながら若菜は何かを釈明しようとしているようだった。
「三十二……いや三か。そのくらいの男の人って、みんなそんな風に考えてるものなの?」
正直わからなかった。わからないからこそ、苦しいとも言えた。
「さぁ。俺はそういう込み入った話の出来る友達がいないから、わかんないよ」
「そっかぁ……」
その憐れむような表情を僕は受け流すことにした。
「でもね、一つだけ思ったんだけど……」
再び話し始めた若菜の方を僕は見やった。
「結人さんは結人さんだからそういう表現はしなかったけど、自分のことを『女々しい』って思ってるんじゃない?」
僕は唖然とした。それは正しく僕の感情を言い当てている気がした。
「きっとね、そういう表現のラベルを剥がしただけで、内面化された眼差し自体は結人さんの中に今でも残ってるんだよ。しつこいカビみたいに。そんな細かいつまらないことで悩んだり傷ついたりするなんて、情けないことだって」
ふと、若菜に文乃さんの面影が重なった。
「でも違うじゃん?そういう繊細さがあるから、きっと結人さんは、ボクに寄り添ってくれた。知ってるでしょ。ボクにとっては、女々しいも雄々しいもないんだよ。……ただ、温かかった。だから、いいんだよ」
彼女の微笑みに、窓から差し込む夕日の眩しさが重なって見えた。




