朧Ⅲ
四度目の世界で迎える、三度目の運命の日。僕が目を覚ますと、既に違和感があった。部屋が暗い。外を見る。
(なんだ、これは)
窓の外には鉄格子があった。そんなものが急に出来るわけがない。だがそれはそこにあった。これでは仮に窓を割っても外には出られないだろう。僕は玄関の方を見に行った。
鎖だ。鎖が幾重にも、縦横無尽に張り巡らされ、扉の端は溶接したかのように金属で隙間を埋められていた。奴の意図なのか、あるいは僕自身の潜在的な恐怖心なのか。なにかが僕をこの部屋から出ることを拒んでいた。僕は深呼吸した。そして、壁に立てかけてある竹刀を握りしめた。
「……」
あり得ないことが起きている。なら突破口もまた想像だにしないところにあるはずだ。だが僕はよく似たシチュエーションを知っている。僕は洗面台まで移動し、鏡の正面に立った。僕は記憶している限り、人生で四度、自分の文章を褒めてもらったことがある。四度目は文乃さんだ。二度目は僕が大学一年目で受けた一般教養の国語の授業の際の大学教員からだ。その時、僕は洗面台の鏡に関する短い文章を書いた。そんなどうでもいいことを、思い出した。大丈夫、僕は冷静だ。
竹刀を構える。といっても中段に構えるほどの空間的な余裕はない。だから刃の代わりに柄の方を向け、正面の鏡を思い切り突いた。ガシャリと呆気ない音を立てたそこには、あるはずの壁がなかった。
穴だ。漆黒の闇を湛えたその穴からは、風が吹いていた。どこかに通じている。風に乗って微かに、腐った果実のような甘い匂いが運ばれてきていた。人が四つん這いになれば、どうにか通れそうなくらいの穴。閉所恐怖症だったかつての友人ならこんなところを通るのは断固拒否しただろう。でも、今の僕にはここを進む必要があった。僕は靴を履くと、竹刀を持ったままその穴へと入っていった。
前も後も分からない穴の中をひたすらに進む。甘い匂いが次第に強くなっていく。穴は脈打ち、胎動のようなものも感じる。闇の中には無数の何かの気配があった。だが、不思議を敵意は感じなかった。やがて少し遠くからくぐもった二つの声が聞こえてきた。一つは若菜だ。もう一つは、恐らく神崎君……いや、奴だろう。
僕は若菜の名前を叫んだ。でも聞こえていないのか、声は返ってこない。僕は必死に前に進みながら何度も彼女の名前を呼んだ。すると、穴の壁面に何かの感触があった。微かに、血の匂いがするそれを僕は知っている。ペティナイフだ。ナイフが刺さっている。
僕はそのハンドルを両手で掴むと体重をかけて壁を裂いた。光が差し込む。僕は転がるようにしてその裂け目から外に出た。地に体を打ち付ける鈍い痛み。目を開けると、そこには若菜と、神崎君と、彼を憑代とする奴がいた。
「結人さん!」
若菜が僕に駆け寄る。僕は彼女の無事な姿にまずは安堵した。それから奴を見る。奴は以前のように椅子に座ってはいなかった。天蓋付きのベッドもなしだ。肩で息をしながら、億劫そうに闇の中に佇んでいる。過去の世界とは決定的に違う。見えないところで、力をつけたヌァルーによって力を削がれていると考えて良いだろう。僕は若菜の前に立つと、竹刀を中段に構えた。最初から心構えで負けるわけにはいかない。この構えは、その意思表明だ。
「月城さん……」
初めて、はっきりとした神崎君の意思を感じた。
「神崎……君……?君なのか……?」
「ふっ……どういうことですか?俺はいつだって俺ですよ」
それはそうだ、彼はかつての世界の彼のことなど知らない。だが彼の口調からは僕に対してというより、彼自身を自嘲するような雰囲気が感じ取れた。
「こんなはずじゃない……こんな……」
あるいは、説得することが出来るのではないか?そんな考えが過る程度に、目の前の彼は疲弊して見えた。それでも、弱気を振り払うかのように、彼はまっすぐに僕を見据える。
「あなたのことは嫌いじゃなかった……もっと違う出会い方をしたかった……」
表情が揺れている。それは、僕の知っている神崎君だった。信念と、エゴと、現実の間で揺れる、誠実な青年だ。
「神崎君。なら、まだ諦めるのは早いんじゃないか?」
乾いた笑み。
「もう、手遅れです……」
彼が一歩、僕らに踏み出す。それを見て、若菜が前に出た。
「悠斗……」
いつもの彼女とは違う。焦りが見えた。
「悠斗は、きっとボクのこと、怒ってるんだよね……?」
彼が嗤う。
「怒る?どうして、俺がお前に怒らなきゃならないんだ。……苛立ってるだけだ。お前の物わかりの悪さに。どこまでも無神経さな在り方に」
若菜の唇が震えている。何かを言おうとして、でもその言葉は彼に届く前に、彼女の足下に落ちた。
「だからそのために、分からせてやるために、俺は感性を鍛え上げてきた。そうやって、俺自身を作り変えてきた。お前を惑わす邪魔者を取り払うために」
それは、彼の背から伝うようにして、ぬらぬらとミミズのように不気味な光沢を放ちながら彼の腕に巻き付いていた。
「なに……それ……」
触手だ。最初にこの世界の終焉を見た時に僕の息の根を止めたものと同じ。奴の悪意と、彼の覚悟の具象。
若菜が怯えている。無理もない。
僕が庇うように彼女の傍に立つと、彼女はそんな僕の袖を握り――でもすぐに、びくりと弾かれたように手を離した。その行為が、とても、間違ったことであるかのように。
「なんだ、その目は」
神崎君の声色が、変わった。そんな目?若菜のことだろうか。僕の袖を離したその手は、震え、空を掻いていた。
「まさか……憐れんでるのか?俺を?」
若菜の口が動く。ぱくぱくと。必死に言葉を手繰り寄せようと。でもその言葉たちは、形を成さないまま、ぼとぼとと彼女の目の前に落ちるばかりだった。
「そんな目で俺を見るな!」
その瞬間、彼の背から夥しい数の、太く、長い触手の群れが視界全てを覆わんばかりに伸びた。そしてそれは、ゆっくりと迫ってきた。僕を目掛けて。
以前、イソギンチャクに捕食される小魚の映像を見たことがある。正にこんな感じだった。触手に抱かれた小魚は毒を注がれ、捕食される。
身構えはするが、四方から包むように迫るそれらを、とても捌ける自信がなかった。足が竦む。
「悠斗やめて!悠斗が用があるのはボクでしょ⁉結人さんは関係ない!」
「関係ないワケないだろ!」
若菜の言葉を喰うが如き神崎君の苛烈な声が響く。怒りを感じた。でもそれ以上に彼の声が物語っていたのは、哀しみ、やるせなさ、それに……悔しさ……?
「もういい……終わらせよう……」
絶望。いまの彼を捉えている感情を一言にするなら、それが最も相応しい。
そうして、いよいよ身に迫ろうとする触手を僕は竹刀で払う。触手はそれを、ひらりと躱す。躱す必要なんてないように見えた。だからそれは僕の体力を、心を削り、嘲笑っているかのようだった。お前は無力だと、屈してしまえと言われているようにすら感じた。
だがその時、僕には予感めいたものがあった。これは奴の悪あがきに過ぎない。あともう少し凌ぎさえすれば、ヌァルーがなんとかしてくれる。だからここで僕がどうなるかはもはや重要ではないのだと。僕が彼の注意を引いて若菜さえ逃がすことが出来れば、それでいい。きっと若菜のことはすぐには殺したりしないだろう。そう考えると、僕はふっと気が楽になって、竹刀の先が地を突いた。
「結人さん……?」
これは自己犠牲からくる法悦感というものだろうか。あるいは、かつてあの日々に味わった、ナイフで己が身を裂く際の甘美な痛みと同種のものかもしれない。僕はとても穏やかな気持ちだった。やっとこれで僕の旅は終わるのだと。僕はこの村で散々人の運命に介入してきた。それまでの人生だって、人を傷つけてばかりだ。何らかの報いを受けなければ辻褄が合わない気がする。若菜だって、もっと歳の近い、僕よりふさわしい誰かと自分探しをするべきだ。ちょうどいいじゃないか。彼女からの好意は、久々に温かかった。嬉しかった。身を委ねてしまいたくなった。でも、もう充分だ。僕は充分に、彼女から貰った。この村を、彼女らの未来を繋ぐため、そのようにして僕は僕で自分の人生に価値を認めて終えることができる。美しく、妥当な結末だ。
(……そんなものでいいのか?)
どこかで、鈴の音が聴こえたような気がした。その音はやがて僕に水を浴びせるかとように降り注ぎ、思考が澄み、引き締められる。そうだ、僕はそうやっていつも自分を矮小化し、己への眼差しに無頓着でいることを正当化しては、それによってまた誰かを傷つけるんじゃなかったのか?脳裏に、僕の傷だらけの手を見て涙を流す紗季の顔が浮かんだ。僕は想像してみた。満身創痍の自分に駆け寄る若菜の姿を。そんなものに悦に浸って、無責任にこの物語を終わらせていいのか?いいはずがない。そうじゃないだろう。自身の介入に罪悪感があるなら見届けるべきだ。若菜の自分探しにも責任を持ってつき合うべきだ。そうだな、ヒロイック・スーサイドとでも名付けようか。その死をもって主人公を美化し乱暴に幕を落とす物語が、僕は嫌いだ。それに、僕の負傷や死が負の感情を呼び込んで今回も奴に打ち勝てなかったら、それこそ僕は自分を許せない。みっともなくとも、最後まで抗うべきだ。
再び竹刀を中段に構え、力一杯、握り込む。迫るものを真っ直ぐに見つめる。我武者羅に竹刀を振り、僕を誘う触手を払う。しかし、しなやかなそれらは一進一退を繰り返し、徐々に、確実に、身に迫ってきた。
緊張で息が苦しい。汗ばんだシャツが背中に張り付いて不快だ。でもそれどころじゃない。耐えろ。耐えろ――
それは人生そのものみたいだった。緩慢な死から逃れる為、醜く足掻く。そこに意味があると信じて。僕にとっての意味。それはなんだろう。
「……」
でも、もう限界だった。奴の触手はもうすぐ目の前だ。
『みんな馬鹿だよね。なんでツラそうな顔しながら働くんだろ。どうせ働くなら笑って楽しんだほうが絶対良いのに』
ふと、先輩の言葉が浮かんだ。少し若菜に似た、いつも僕に彼氏の愚痴ばかり話すあの先輩だ。笑えるくらい楽観的で、ポジティブだ。なんでこんな時に思い出すんだろうか。でも、彼女の言葉だから、僕には説得力があった。一見乱暴な言葉でも、それはこの世に溢れている有象無象のお為ごかしとは違う。SNSで気持ちよくなる為でも、従業員の尻を叩く為でもない。それは、彼女と僕のコンテキストを前提として、彼女が僕にくれた言葉だ。だから温かい。そうした色んな人の色んな言葉と想いによって僕は生かされている。
(そうだ、笑え。僕はその想いを繋いで行きたい、こんなところで終わりたくない……!)
僕は直感的に、ペティナイフを抜いた。そして、胸元を裂く。血が滴る。
刹那、その血の雫が形を成す。膨らみ、ふたつに分かれ、無数の枝を伸ばす。眩い白い光を放つ。
次の瞬間、純白の滑らかな手が、黒ずんだ触手を払っていた。
「よく踏みとどまったね、結人。良いインスピレーションだ。その波長、実に美味だ」
ヌァルーの姿がそこにはあった。神の顕現――いつも出会う表象世界と現実世界の境界が曖昧になっている。
「ナルちゃん!」
若菜がヌァルーを呼ぶ声に思わず気が抜けそうになって僕は失笑した。慣れないものだ。だがそれは僕を適度にリラックスさせてくれた。
「『求めよ、さらば与えられん』と言うでしょ?日本人のおおらかさを発揮する時だ」
ヌァルーが微かに笑う。相変わらず感情らしきものは希薄だったが、その笑みからは自信を感じた。そんなヌァルーに睨め付けられ、さっきまで僕に覆いかぶさろうとしていた触手は、萎縮し、怯えているように見える。
「尋ねよ、さらば見出さん」
禍々しい具象となって迫りくる悪意を、声と共に、白く美しいヌァルーの触手が薙ぐ。僕はいま神話的光景のただ中にいる。その触手は一体何の象徴だろう。僕は改めてそれを問う。善意?意思の力?エゴ?わからない。奴の触手とヌァルーのそれは、どちらも同じくグロテスクで、残酷で、ふとしたきっかけで反転しかねないように見えた。だが、その白と黒のコントラストは、僕に光と絵具を想起させた。光は集い重なり合うことで白くなる。しかしそれは染め合わない。離れれば、またそれぞれの色を成す。尊重し合っている。何もないところに闇は生まれる。一方、絵の具は混ざると黒くなる。白は最も脆弱で移ろいやすく、一度混ざった色は基本的に元には戻せない。不可逆だ。
「叩けよ、さらば開かれん」
照らす神性と塗りつぶす神性。そんなイメージが僕の中に生まれた。そして両者は不可分でもある。光があってはじめて絵具の色がわかる。光もまたその波の元を正せばそこにあるのは絵具の如き澱みかもしれない。最終的には僕ら観測者がどう捉えるかだ。善意と悪意、精神と肉体、愛と性、聖と俗、伝統と革新、そして共生と搾取。それらは循環している。どちらか一方を完全に否定することはできないし、乱暴に否定したとすれば歪みが生まれる。反動が来る。報いを受ける。だが、不可逆なものにはより慎重に接する必要がある。抑制的に接すべきだ。だから墨汁の如き存在に、好き勝手暴れられると困ってしまう。
「……眼差せよ、さらば救われん」
そのヌァルーの声が合図だった。最後は僕らの手で。彼を、神崎君を救いたいなら、僕らが彼を眼差す必要がある。それが僕らがいま信じている神性の意思らしい。搾取に抗う、共生の神性の意思だ。
「若菜!」
僕は彼女に呼びかけ、神崎君に向かって駆けだした。振り返ると意図を察した若菜も後についてくる。幾重にも重なるように、拒絶するかのように、触手が僕らに立ち塞がった。そのほとんどは、ヌァルーの力によるものだろう、蕾が花開くように四方に裂かれ散っていった。だが神崎君が笑っている。一本の触手が他の触手とは異なる素早い動きで僕らに迫る。その真っ直ぐさは彼の、神崎君の想いの象徴のように思われた。彼にはきっと顔真卿が合う。でも――
(琴音の方が速かった)
それを僕は竹刀で捌いた。ただ重い。軌道をずらすので精一杯だ。もう一本、二本と、続く悪意をどうにか捌く。僕は特別な力なんてなにも持たないただのアラサー男子だ。曖昧で表象的な世界の中とはいえ、こんな少年誌的なアクションシーンは不向きなんだ。それでもどうにかここまで来た。琴音との三番勝負をしておいて良かった。弱くとも意地はある。積み重ねが僕をここまで運んできた。
触手が僕の竹刀を絡めとる。竹刀ごと体を持っていかれる前に僕はそれを手放し、若菜の手を引いてひたすらに彼の元へ急ぐ。彼の表情に苛立ちが見える。もう一本、おかわりがきた。眼前に迫った肉の槍をベルトに挿しておいたナイフの刃で受け止め、裂く。そのまま体ごと刃を押し当てるようにして触手を押し返し若菜に先に行くように促した。粘液に塗れ、もはや切れ味を失ったナイフは、これ以上動かない。だが、僕は高揚していた。
(お前が墨なら僕は筆になるだけだ……僕の好きな楊峴の波磔というのはな……こうやるんだ)
触手がナイフもろとも僕を巻き取ろうとするのを身を翻して避けながら、体ごとナイフを捻じるように回し、払う。その刹那、全ての音が、流れが、停止した。
そこには、一人の少年がいた。
暗闇の中で、彼は独り、俯き、膝を抱えていた。
「悠斗……くん……?」
面影があった。
「素晴らしいよ、月城結人。見違えたよ」
そんな彼からは、黒い影が伸びていた。
「僕を憑代にしようとしても無駄だ」
見え透いたことだ。
「感情で話すな。今俺を封じたところでどうなる?また緩慢な日常の中で、やすりの隙間を這うようにして己を擦り減らして死んでいくだけだぞ?今のお前となら対等にやれる。仲間になれる。なあ?」
「僕とお前とでは求めているものが違う。僕は人の弱さ故の想像力と連帯の力を信じている」
「本気か?ネットの海を見てみろ?弱者共が醜く足を引っ張り合ってるだろう。人は低きに流れるんだよ」
さも軽蔑したように奴は言った。
「僕はそんなに傲慢じゃない」
「なに?」
「『人は低きに流れる』そんなことを言ってる夢想家の英雄がいたな。僕が手助けできるのはせいぜい三人の少女と、多く見積もってもこの村の住民程度だ。それが限界だ。それしかできない。でもまずはそこからだ」
「そもそも弱者の想像力とはなんだ?そんなものに何の意味がある?」
論点をすり替えようとしている。よくやる手口だ。文脈を無視して相手の脆弱性を突こうとする。
「知りたければ教えてやる。想像力には限界がある。過剰な想像力を相手に要求するのもまた想像力不足だ。実際に傷つけ、傷つけられて初めて分かることも多い。そういう機会自体は実は活動的な強者の方が豊富に得られるかもしれない。でも重みが違う。打たれることに慣れたボクサーと、素人では、打たれることの意味が違う。麻痺により得られる強さは、感受性の喪失とトレードオフだ。弱者の感じやすさを馬鹿にしない方がいい。痛みを知るから、そこに意味を見出すからこそ手を差し伸べられる。そうだろう、悠斗?」
少年の肩が揺らぐ。
「手の届かない存在への憧憬、敬愛することしかできない苦しさ、それは僕にもよく分かる。誰もが経験することのように見えて、その感情は君だけのものだ。君は君を救ってくれた者達への感謝を忘れていない。だから教員になろうとした。それは素晴らしいことだ。僕には出来なかったことだ。だから負けないで欲しい」
「俺を惑わすな」
「お前にもうひとつ言っておいてやる」
奴はもう何も答えない。追い詰められている。
「脆弱性は人の本質だ。ひび割れ、砕かれることで、新しい色を、光を得て輝く。そう、蛍石のように。重要なのはバランスだ。だがそれを否定した先にあるのは、より動物的な営みだ。ただの交尾だ。思いやることでしか得られない幸福がある。おまえ……本当は感じないんだろ?」
世界が奴の怒りで染まった瞬間、停滞していた流れが動き出す。ナイフの刃はまだ奴の触手を裂ききれていない。力が拮抗する。腕が千切れそうになる。肩が外れそうだ。でも先に限界を迎えたステンレス製の刃が側面からの圧力により砕かれた。かまわない、僕にはもう必要のないものだ。
「悠斗!」
そして若菜が彼まで届く。彼女が僕らの刃だ。若菜が神崎君を強く抱擁する。でも――
「……!」
血の管が浮いた彼の太い腕が、若菜の首を締めあげていた。彼女の、華奢な体が宙に浮く。肺が悲鳴を上げる音がする。
僕は咄嗟に駆け寄ろうとした。でも、彼女の表情が、そんな僕を制す。
若菜は、笑っていた。苦しいだろうに、必死に、神崎君に微笑みかけていた。
若菜の涙が頬を伝い、彼の手を濡らす。彼の目が見開かれる。
そして、僕の知らない記憶が、流れ込んできた。
さっきの少年が、軒下で膝を抱え、震えていた。
そんな彼に、つかつかと歩み寄る影がひとつ。
若菜だ。
すぐに分かった。
幼い若菜が、少年の頭を乱暴に撫でる。振り払う。
若菜は彼の隣に、彼と同じように腰を下ろす。じっとしている。
少年の爪が、畳まれた二の腕に食い込む。
鼻をすする音がする。
頬を、一筋の涙が伝った。
幕切れは静かなものだった。神崎君は膝をつき、放心していた。彼に癒合し肉体の一部を形作っていた禍々しい色の肉は黒い煙を上げて崩壊し始め、爛れた痛々しい肌が露出していた。ここは曖昧な世界だ。それでも、現実の彼にも損壊が生じているのかも知れなかった。そして同時に、奴が作り出していたと思しき世界がひび割れ、霧散し、気づくと僕らは幣殿の中庭にいた。こんな神話的な場面であっても、ツクツクホウシはマイペースに鳴き続けている。それが僕らをあるべき現実へと引き戻した。神崎君に歩み寄ろうとした僕を、若菜が視線で制す。ここは自分に任せて欲しい、ということなのだろう。若菜は神崎君から体を一度離し、彼を見つめた。
「悠斗……」
彼の足元に小さいミミズのような生き物が見えた。直感的に理解した。これが邪神の本来の姿なのだと。若菜は数秒の間、それを無感情に眺めていた。そして若菜はそれを草履の底で毒虫にするように踏みつけ、ぐりぐりと念入りにすり潰した。そして体をかがめ、彼に視線を合わせる。だがもはや彼の目の焦点はどこにも合っていない。
「悠斗は……本当にバカだよ」
その声にいつもの軽やかさはなかった。それでも、冷たさもなかった。やってはいけない事をした子を叱る親のような、穏やかで、真摯で、温かな声だった。
「でもボクたち、よく似てるのかも。うん、今はもう、似てた、かな」
彼の体がピクリと反応する。
「自分とごく身近な人以外の色んなことに、あまりに無関心だったのかも……痛みに囚われて、最初から分からないって決めつけて、知ろうともしなかった」
少しずつ、彼の顔が若菜の方を向き始める。
「でも、みんなだってそうでしょ?って。ボクはみんなのこと、分かってあげられない。でも、みんなもボクのことも分かんないんだよね?って。なら、いいじゃん、好きに生きようよって。お互い、傷つけ合うだけ損だよって。そうやってきたけど……」
彼の瞳に徐々に色が差す。
「『僕たちはいつだって想像力が足りない。それによって、誰かを傷つけたり、勝手に自分が傷ついたりする。だから知ろうと手を伸ばすんだ』って、ボクの好きな人が言ってたの」
彼の目は完全に若菜を捉えていた。
「ボクは、悠斗のこと許せないよ。でも、ボクも悪かった。君の気持ちに気づけなくて……ごめん。ボクはまだ悠斗のこと全然知らない。だから……ちゃんと教えてよ。元気になって帰ってきて、そしたらもう一回、ちゃんと友達になろうよ?」
若菜は彼の額に自分の額をそっと当てる。
「待ってるから……」
誰かが災害待機でもさせていたのだろうか、バラバラというドクターヘリの騒々しいプロペラ音が聞こえる。
「わかな……おまえは……いつだって……そうだ……」
そこから先、神崎君の言葉は続かなかった。しかし最後、その口元には小さな笑みが浮かんでいたような気がした。自嘲するような、愛おしむような、悔恨するような、でもどこか安らかな、そんな複雑な笑みの真相は、まだ僕らの想像力の向こう側にあった。
周囲が騒然とする中、ぼんやりと立ち尽くしていた僕は地面に鈍く光るものを見つけた。歩み寄って拾い上げてみる。それは使い古され、もはや役目を終えた刃だった。
「世話になったな……」
僕はついそんな風に独り言ちていた。
「壊れちゃった……?」
若菜が寄ってきて、僕の手の中にあるほぼハンドルだけになったナイフを見つめる。
「いいんだ、これはなんていうか、俺のみっともない罪の象徴だ。十字架なんて格好の良いものじゃない。もっとこう……バケツみたいなものだ。いまどきそんなことをしている学校はないだろうけど、フィクションで見たことない?水の入ったバケツを持って廊下に立たされるアレだ。いい大人の男がやってるのは格好悪いでしょ?」
若菜は笑わなかった。その代わり、僕に身を寄せて、肘で軽く僕の脇腹を小突いた。
「下手な冗談言っちゃって……今度、新しいの買ってあげるよ」
神崎君はその後、一命を取り止めた。しかし、意識が戻ることはなかった。今後意識が戻るかどうかも、分からなかった。




