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若菜Ⅹ

 その日僕は、若菜のアトリエにいた。以前見た雨のインスタレーションアートとはまた違う、さらに奥の部屋をつかった新作の構想の手伝いをしていた。

 懐かしい匂いがした。独特の香料。墨だ。

 テーマは「光と影の書」。プロジェクションマッピングの多面投影により壁や床、天井に書の文字が現れ、流れ、降り注ぐ。

 字体に合わせてその動きは変わる。()()は降り積もる雪のように、行書は激しく打ち付ける雨のように、草書は木枯らしのように、楷書は河の流れのように――

「うーん」

「何に悩んでるの?」

「いやさー、こう、見えない筆が文字を書いていくようなアニメーションを投影したいんだけど、しっくりくる書体で迷っててさー」

 若菜の前には、臨書と呼ばれる書写用の古典の本が散らばっていた。僕はそのひとつを手に取った。

「懐かしいな……」

「あれ……結人さん、経験ある系?」

「まぁ、一応ね。腐れ縁みたいなもんだけど」

 僕は小学生くらいの頃、書の教室に通っていた。それは二階建ての建物の一階部分にあり、僕は二階の絵画教室に通っていた。僕を待つ間に母がその書の教室に通い始め、今度は逆に絵画教室の後に母を待つ間、僕も一緒に書くようになったのがきっかけだ。

 つまり、ついでだ。僕は絵の方が好きだった。でも中学受験をきっかけに辞めてしまうと、絵の方は受験後に再開する気にならなかった。好きだったからこそ、水を開けられた気がしたからだ。

 更に言えば中学には美術部はなかったが、書道部はあった。だから惰性で書道だけは続けた。やがて高校進学後に美術部が設立されるとなった際、美術の授業で目をつけられていた僕は入部を誘われ兼部することになったが、いつしか書の方に熱が入っている自分に気がついた。書道部の部長をしながら美術部を兼部し、そして剣道部の幽霊部員。よく考えると滅茶苦茶だ。結局、書については大学に入ってもサークルに属した。

「北魏書は?」

「さすが詳しいじゃん……でもそれはもう目をつけてるんだよね」

 北魏書というのは石窟に彫られた「造像記」といわれる文字の写しで、石に彫られたものだから他の書体にはない鋭く男性的な趣がある。

「もうちょっと柔らかい書体で、にゅるっと……でも溜めがあって、こう、ゔーん、ぬんっ!みたいな」

 僕は失笑してしまったが、確かにこういうニュアンスは言語化が難しい。僕は記憶を漁る。ひとつ、あった。

「なら、楊峴なんてどうだろう」

「ヨーケン?」

「隷書で著名な書家の筆なんだけどね、もしかすると波磔(はたく)がそのニュアンスに合ってるかもしれない」

 僕はスマートフォンで検索し、画像を見せた。若菜はしばらくそれに見入っていたが――

「イイ……良いよ!ねぇ、これって書けたりする?」

 無茶を言う。

「久々だから上手く書けるか分からないよ?でもまぁ、ニュアンスの参考にはなるか……」

 書もまた他の芸術同様、日々の積み重ねがものを言う。神は細部に宿る、だ。

 僕は観念して用意されていた半紙と毛氈(もうせん)のところまで移動した。転がっていた7号の筆を手に取り、四つん這いになる。目を瞑り、深く、息をする。硯に筆をつけ、余分な墨汁を落とす。

 そっと、画仙紙の上に筆先を置く。懐かしい感覚だった。その瞬間、なぜか初めてこの村を訪れた時の記憶が蘇る。

 そうだ。バスのステップから足を踏み出し、地に足を着けた時、まっさらな画仙紙と毛筆のイメージが降りてきた。本当に、懐かしい。

 肩から腕全体を意識し、線を引く。その感触はどこか官能的で、親密な営みを思わせた。僕は、上手くやれるだろうか。

 幾度となく画仙紙と向き合った記憶が頭の奥深くから流れ出し、腕へと伝う。息づく。

 夏の合宿の風景。河内長野の山中で、夜遅くまで、皆で黙々と書いたものだ。

 そういう僕も、確かにいた。適応障害を機に一度は僕の中で断絶したと思われていた連続性が、微かに息を吹き返す。

 僕は隷書が好きだった。恐らく、隷書に出会わなかったら高校までで書は辞めていただろう。剣道と同じに。

 隷書にはどこか絵画的なニュアンスがある。だからだろうか。しっくりときた。

 波磔というのは、いわば払いの部分だ。特に楊峴(ようけん)波磔(はたく)は他のものに比べて太く、生々しいうねりを特徴とする。運筆についてはその人の個性が出るが、時には筆をぐるりと捻じり、円を描くようにして波の山を作り、すっと抜くように払う。

 僕にとっての書は、ただの腐れ縁だった。絵を描くことの、代償行為。でも積み重ねてきたから、いまこうして、少しは彼女の役に立てるのだろう。僕にとっては、その意味だけで、お釣りがくる。無駄じゃなかった。

『千種さん……無駄なことなんてひとつもないんだ』

 千種に偉そうなことを言っておいて、僕がこの様だ。

「ふぅ」

 何枚か書いたが、徐々に勘を取り戻してきた。久々にしてはこんなものだろう、と思う程度には書けた。

「ニュアンスだけでも伝わったらいいんだけど」

 振り向くと若菜はぼんやりと僕のことを見ていた。

「……やるじゃん」

 ご期待には沿えたようだ。

「今度キャプチャーするから、練習しといて」

「マジかよ……」

 

 ひと仕事終えた僕らは給湯室でティータイムにした。水出しされ緑茶に、生き返る心地がした。

「そういえば、そろそろ公募に出してた作品の結果が出るんじゃなかったっけ?」

「うーん……あぁ、そういえばそうだね」

 若菜は壁の染みでも見つめるような様子で答えた。

「ま、気を揉んでも仕方ないか」

「そそ、だからどんどん新しい作品に着手して、考えないようにするんだよ」

 なるほど。

「確かに、何かにドキドキしてる時って、ドキドキしなくなるよね」

「……はい?」

 我ながらナンセンスなことを言ってしまったろうか。

「え、なに、なんかそういうこと言う政治家の人いたよね……なんて言ったっけ」

「いや、ごめん。言葉が足らなかった。言いたかったのはつまり、何かに夢中でドキドキしてる時って、不安とかそういうネガティブな感情が上書きされて、どこかにいっちゃうよなぁって。だから、若菜ちゃんはいつも活き活きしてるのかもなって……そう思ったんだよ」

 若菜は古代文明の象形文字を眺めるような顔で僕を見ていた。

「結人さんって、いつも回りくどいけど……無理しなくていいからね?なんか、ごめんね?ボクがいつも揶揄(からか)うからちょっと壊れちゃったんだよね……」

 呆れや憐れみを通り越して心配されている。

 

「そういえば……もうすぐ祭祀だね」

 僕はついにその話題を出した。

「……うん」

 部屋の高い位置にある窓から差した陽光が、彼女の横顔を照らす。普段あまり見ることのない、神妙な表情だ。若菜の方でも、思うところはあるのだろう。神崎君と向き合うことになるだろうから。

「結局、神崎君について何か思い当たることはない……んだよね?」

「うーん。そう……だ……ね――」

 天蚕糸(てぐす)がぴんと張りつめ、そこにカタチが生まれる。意味を成す。そんなニュアンスがあった。そしてごくりと、何かを呑み込むような音がした。

「けほっ」

「だ、だいじょうぶ?」

 若菜が(むせ)ていた。

「ごめ……だいじょうぶ……んん……」

 何か、あったのだろうか。僕は彼女の言葉を待った。

「……」

 若菜はじっと一点を見つめていた。どこか遥か遠くを。そして、(こぶし)を眉間に押し当てて俯いた。

「……たぶん、分かった」

「そうなの?」

 自然、脈が速くなる。若菜がまた、唇を嚙みしめている。いや、歯を食いしばってすらいる。

「ボクは……馬鹿だ……ボンツクってレベルじゃない……想像力の欠片もない……結人さんの口癖だったのに……」

 若菜の中で、一体何があったんだろうか。僕は彼女にどう声をかけていいか瞬時に判断できなかった。それくらい、若菜は動揺していた。

「いまなら、いまなら分かるんだよ、結人さん……」

 そんな、彼女の縋るような表情を、僕は初めて見た。この村で何度も感じた感覚だ。人は、こんなにも多彩な表情を隠し持っている。僕は崩れ落ちそうな彼女の傍らに立膝をつくと、(こうべ)を垂れる彼女の頭を肩で支えた。

 やがて若菜が落ち着きを取り戻した頃、彼女は言った。僕の方をまっすぐに見つめるその瞳には、やはり見たことのない光が宿っていた。

「結人さん、悠斗のことは、ボクがなんとかする。それはきっと、ボクにしかできない事なんだよ」

 僕は、彼女の手を握ってやった。儚い、童女のような、その手の平を。

「わかった。でもその時、俺は必ず隣にいる。約束する」

 

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