若菜Ⅸ
気づくと、二年目の七月になっていた。
結局僕は、何も目立ったアクションを起こせていなかった。ただ、それには理由があった。
若菜の存在だ。
彼女は明らかに意識して僕を気遣い、声をかけてくれた。千種たちも交えた三人で、時には二人で、小鳥遊邸で文乃さんと共に、一緒に過ごす時間を作ってくれた。進路決定で彼女らも忙しいだろうにだ。
特に文乃さんと三人で過ごす時、なんだか家族みたいだと思った。もちろん、そんなものは家族ごっこだ。鮮烈な少女と、魅惑の女流文筆家と、怪しい男による歪な疑似家族。
それでも、僕はかなり救われた気持ちになった。そんな関係がいつまでも続かないことは分かっていた。根本的な解決にはなっていない。でも幸せだった。
邪神討伐だって、意外と上手くいくんじゃないか?僕は前向きな気持ちになれている。
もし紙一重の差でダメだったら……その時は若菜の言った通り、今度は抗おうと思った。奴を身の内に抱えながら、生きてみようと。
その日、文乃さんのお宅で夕方まで仕事の話を詰めていた僕は、帰り際、ちょうど帰宅しようとしていた若菜と出くわした。
「あ……結人さん、いま帰り?」
「若菜ちゃん、おかえり。うん、ちょうどいま帰るところだよ」
一瞬、若菜の目が僕の肩越しに、背後の文乃さんと合ったような気がした。しかしすぐにまた、彼女は僕を見つめた。
「送ってくよ。ちょうど歩き足りなかったんだよねぇ。……いいよね、お母さん?」
悪い気はしたがまだ日が暮れるまでは時間がある。迷いながらも僕は文乃さんの反応を伺うために振り返った。
「……いいわよ。あんまり遅くならずに、帰ってきなさいね」
僅かな逡巡のあと、文乃さんは少し困ったように微笑みながらそう言った。夕日が彼女の顔に影を落としていた。
「すみません、なるべく早くお返しするので」
僕が文乃さんに謝ると、「どうして結人さんが謝るのよ」と、そう言いながら手を振ってくれた。
そうして文乃邸を後にした僕は、若菜と並んで帰途についた。若菜はいつもよりも多弁かと思えば、急に言葉少なくなったり、どこか落ち着かない様子だった。やがてふと、距離を詰めてきた。
「うりうりー」
唐突に、その豊満な胸を僕の肘あたりに押しつけてくる。少女の甘い香りと合わさり、思わず僕の体が硬直する。
あまり意識しないようにしていたが、彼女の成長は精神的な面に止まらない。血筋の影響なのかもしれない。
「なにをしているんだい?」
僕は迂闊に押し返すこともできず、まずは注意することにしたが、緊張でつい言葉が硬くなった。
「何してると思うー?」
その声は一見いつもの若菜のようでいて、微かに緊張感を孕んでいた。
「ほんとに……そういうセクハラはやめときなよ。若菜ちゃんはその辺の感覚はちょっと特殊なのかもしれないけど、若菜ちゃんがイヤな目に――」
「イヤな目って?」
被せるような前のめりな若菜の言葉に僕は少し面食らった。
「だから、されてイヤなことだよ」
「具体的には?」
彼女が詰め寄る。今日は妙に絡んでくる。どうしたというのだろう。
「こう、なんか、卑猥なこととか」
「されちゃうの?」
「されるかもしれない」
僕は想像力のスイッチを切った。想像力とは電動式なのだ。
「誰に?」
「揶揄った相手!」
完全に揶揄われている。いや、揶揄われているのだろうか?
「じゃあ結人さんがボクにするの?」
「いや、僕はしないけど――」
するわけがない。
「なんで?」
僕はだんだん頭痛がして、下唇を噛み、目を強く瞑って天を仰いだ。僕は何か彼女の機嫌を損ねるようなことをしただろうか。
「ちゃんとした大人だから」
「ふーん」
さもどうでも良いといった風だ。定職についていない時点でちゃんとはしていないが、せめてそこの線引きをハッキリさせないと本当にただのならず者になってしまう。
「ちゃんとした大人は、挑発に乗って一回り以上も年下の女の子に性的な目を向けたりしない」
これは重要なことだ。僕はあと二回追加で心の中で唱えた。
「ほんとに?」
覗き込んでくる若菜と目を合わせないようにした。
「ほんとに」
すると、急に若菜の気配が薄くなる。振り返ると、夕暮れを背にして佇んでいる若菜の姿があった。生ぬるい風に吹かれ、軽やかなボブカットが所在なさげに揺れていた。
「ボク、魅力ないかな……」
虫の声が妙にうるさい。形而上的な飛行機が甲高い音を響かせながら上空を横切っていった。
「……若菜ちゃんは、魅力的な女の子だと思うよ」
若菜も、琴音も、千種も、この村で僕が出会ってきた少女はみなそれぞれに魅力的だ。客観的に見て。
「なんで……そんな、他人行儀なのさ」
「そういう面では、他人みたいなものだよ」
僕は敢えて少し突き放すように言った。胸の奥に小さな棘が刺さったように痛んだ。
「それがオトナってこと?」
「そう」
真正面から見つめてくる若菜に対して、僕は少し視線を逸らした。
「ボクだってオトナなんですけど?」
やや強い口調だ。
「法的にはそうだね」
いまや十八歳は大人なのだ。そして今、若菜は十九。
「中身はお子様だと」
どこか冷ややかな、そして心細げなその口調に、これはきちんと説明しなければならないなと、僕は腹を決めた。
「若菜ちゃんは、歳相応というよりは、ずっと成熟した考え方をしてると思うよ。でも、それは理由にならない」
僕は断定的に告げた。そういうのは僕としては珍しいことだ。だいたい「~と思う」とか、「~かもしれない」という風に言う。それは相手に反論の余地を与えるためだ。相手がいつだって強気とは限らない。相手の心理的安全を確保するのが、本来あるべき姿だ。
「一回り以上も年下の女の子に手を出すような男は碌なもんじゃない。覚えておいた方がいい。大人は同じくらいの人生経験を積んだ大人同士で、支え合うべきなんだ」
自分の声が、自分のものでないような気がした。
「それがジョーシキだよね」
つまらない常識だ、と言いたいのだろう。なぜ僕はこんなに追い詰められてるんだ。なぜこうなった?何かがおかしい。さっきから若菜はずっとこちらを真っすぐに見つめたままだ。それに対して自分はどうだ、しばしば視線を逸らしている。「オトナ」なのに。
「そう、常識であり、モラルだ」
「つまんないね」
側溝に小石を投げ込むように彼女は言った。
「……そうかもしれない」
「自分のこと、守りたいだけなんでしょ」
若菜の鋭利な言葉が刺さる。黒板を爪で引っ搔いたような、イヤな感触に僕は身じろぎした。
「世間体とか、もしそれでいつかボクを傷つけた時のことを考えて、予防線を張りたいんだよね?」
とっさに違うと返すことができなかった。大人になるというのは良いことばかりではない。彼女にとっては無価値で格好が悪い自衛も世間体も、有象無象の大人にとっては無視できないものなのだ。
「若菜ちゃん、僕は君とレスバするつもりはない」
僕はどうにか彼女と目を合わせる。
「レスバしてるつもりなんかないよ。結人さんがボクのこと真っすぐ見てくれないから、怒ってるだけ」
若菜は怒っているのだ。無理もないのかもしれない。いま僕は無意識に論点をすり替えようとした。
「ボクみたいなお子様には興味ありませんって、それならちゃんと言ってよ」
彼女の言い分は正しいのかもしれない。僕と彼女とでは年齢的に考えても対等とは言えないだろう。でも、それで彼女の気持ちを軽んじて大人を気取るのは果たして正しいことなのか?誠実さとは一体なんだ?それでも、そんなこととは関係なく、そもそも僕は彼女を受け止めるには分不相応だ。こうしている今も、彼女の誘いに乗ることを正当化できないかと心のどこかで期待している自分がいるようにも感じる。そんな狡猾で意地汚い人間なのだ、自分は。ともかくも、それを伝えよう。僕が彼女をどう想っているかは関係ないのだと。それが今の自分に成しうる誠実さのはずだった。
そうして僕は改めて彼女を正面から見つめ、言葉を紡ごうとした。しかし、まるで金縛りにあったように声が出なくなった。
「……」
毅然としてこちらを見据える若菜のその目の端には、微かに光るものが見えた。僕は、彼女のそんな表情を見たことがなかった。
動悸が速くなるのを感じる。血が勢いよく体の末端まで駆け巡り、体中の血管が開くような気がした。ゆっくりと若菜がこちらに歩み寄る。
風が強い。僕は動けない。みるみるうちに距離は詰まり、彼女の両手が、そっと僕の頬を包んだ。
「ボクのこと、ちゃんと見て」
彼女の呼吸が近い。息が苦しい。視野が狭窄する。
「ダメだ……!」
彼女の肩をできるだけ乱暴にならないように掴むと、どうにか二人の間に正しい距離を作る。
「そもそもどうして、僕なんだ?僕は君に想ってもらえるようなものなんて、何も持ち合わせてない」
僕はほとんど叫んでいた。
「そんなのボクだってわかんないよ!」
若菜の声は震えていた。僕は完全に、彼女の強烈な感情の渦に巻き込まれていた。
「もっともらしい理由をつけることはできるよ?ボクたちのために奔走してくれたこととか、いつも何か痛みに耐えているような顔が可愛くて、愛おしくて、放っておけないとか!色々あるけど!でも、そのどれもが決定的じゃなくて……」
僕は目を見開いた。自分は若菜からそんな風に見えていたのか?思ってもみなかった。僕は何も成長していない。自分に対する眼差しに対して、無頓着なままだ。そしていつだって自分を矮小化して、そのことを正当化している。そうしてまた誰かを傷つける。
「だから、知りたいんだよ……この気持ちがなんなのか……ボクにとっての、初めての気持ちの正体が知りたい」
彼女の切ない声が茜色の空に染み渡る。向こうの畦道で、子供たちが心配そうにこちらを見ているのを、大人が手を引いて去っていった。
「ボクの、自分探しに、つきあってくれませんか?」
俯き、不安そうに手を揉みながら耳を赤くする若菜は、せまる夕闇に消え入りそうな儚さを帯びていた。
儚さ――初めて出会った時に微かに感じたそれは、今目の前で無防備な人の姿をして立っていた。今日この瞬間だけで、色んな若菜の表情を見たな、と急に醒めた思考が頭を巡る。不意に見せた、若菜の年相応の姿が、僕を冷静にしたのかもしれない。若菜はこういったことについては、歳相応どころか、むしろ随分幼い。いや、幼いというのは侮蔑的かもしれない。在り方の違いなのだ。不慣れなだけだ。少し見守ってやる気持ちで今まで通り接すればいいのではないか?今の自分に気にすべき世間体なんてものはない。大事なのは彼女の気持ちだ。それは他ならぬ僕が彼女に伝えたことじゃないか。その彼女の気持ちに真摯に向き合えばいい。その中で僕をもっと開示していけば、自然と化けの皮は剝がれるだろう。
「……」
今度は僕が、俯く彼女の頬にそっと触れた。ぴくりと身を震わせ、やがてこちらを見上げた若菜は、目に涙を溜め、鼻を赤くしていた。演技だとしたら大したものだ。
若菜がゆっくりと目を閉じる。恋愛ごとに興味がなくともそういう作法は知っているのだろうか。あるいは、ここまでお膳立てした上で「やーい引っかかった」と笑いだしても全く不思議はなかった。僕は――
(ぷに)
「⁉」
僕が指で押した鼻を押さえながら、若菜は信じられないようなものを見る目でこちらを呆然と見ていた。
「いつもの仕返しだよ」
「な゙っ……」
若菜はどんな表情をしていいのか分からないようだった。
「……自分探しに、付き合うだけだよ」
(それなら、いいよな……?)
これから僕は絶えず自問自答を続けなければならないだろう。
「それじゃあ……」
空には微かにぼんやりと星が瞬き始めていた。
「ちゃんと俺の化けの皮を剥いでくれ」
若菜にようやく、いつもの笑顔が戻る。
「望むところじゃん!」
彼女には笑顔が似合う。仮にそこに涙が滲んでいたとしても。それを曇らすのは、僕の本意ではない。そうして、僕らは互いに握った拳をつき合わせた。




