村Ⅴ(前編)
羽衣石さんと並んで改めて和夫さんと向かい合う。肩が隣り合う形となった羽衣石さんからは仄かに甘い匂いがして、僕は拳ひとつ分ばかり身を離した。
房枝さんが僕らの前に湯呑みを置き、急須で熱い玉露を淹れてくれた。
「……ありがとうございます」
いつもの僕ならつい、『すみません』と口をついて出るところだ。悪い癖だ。だが今その言葉が出なかったのには、別の理由もある気がした。
「ありがとうございます」
羽衣石さんの方は自然で淀みがない。小さな村社会で育ってきた彼女の方が、僕などよりよほどコミュニケーションには長けているのかもしれない。あるいは馴染んでいる。この状況に。
「さて、まずは結人さんに礼を言わねばならん」
和夫さんは正面から僕を見つめている。その表情からは意図が読み取れない。
「礼……ですか?」
意外な言葉だった。
「左様。そこな千種の身を案じ、あのそそっかしい起一をよくぞ止めてくださった」
(なるほど、そのことか)
羽衣石さんは困惑した表情で和夫さんと僕を交互に見ていた。無理もない、彼女はその時、その場にいなかったのだから。
「そしてまた、謝罪もせねばならん。あの時、儂は自ら出ていかんことによって、ある種あなたを試していたとも言えよう」
そこまで言うと、和夫さんは両手を膝の上につき、頭を下げた。
「ありがとう、そして失礼なことをして申し訳ない」
「よしてください……大袈裟ですよ」
村の長に頭を下げられる状況というのは、居たたまれない。僕はそんな彼をどう制したものか分からず、腰を上げ、半ば立ち上がりかけた。だが、すぐまた元の姿勢に戻った。どこまで本心なのか、分からない。
「虫の知らせのようなものを感じただけで、そもそも僕の杞憂に過ぎないことだったかもしれませんし」
そうだ。止めないことで、起一さんはあれを飲んだ。因習の当事者になった。それは、正しかったのか……?分かるはずもない。
「あの……」
それまで黙っていた羽衣石さんが口を開く。
「村長さん。どういうことか、説明していただけますか?」
羽衣石さんの良く通る声が、場を整えようとしていた。嫋やかさの中にも、毅然とした強さを感じる。僕は一瞬、宴会の場での彼女と目の前の彼女が同一人物に思えなくなった。
和夫さんは顔を上げ、ゆっくりと語り始める。
「千種ちゃんが台所へ向かった後、起一は良心の呵責にかられ、お前さんを止めに行こうとしたんじゃよ」
そう、あれはあくまで羽衣石さんを思っての善意の行動だった。
「しかし結人さんは、今行くのは危うい、千種ちゃんを信じて待とうと、そう起一を制してくださった」
羽衣石さんの瞳が僕を捉える。どんな顔をしていいか、分からなかった。
「そうだったんですね……あの、わたしからもお礼を言わせてください」
やや改まった声色でそう言うと、羽衣石さんまでもが僕の方に頭を下げた。
「ありがとうございます」
二人して次々に頭を下げるものだから、僕としては堪ったものではない。身に余るということもある。でもそれだけじゃない。僕は、何かに絡めとられようとしていないか?そんな、居心地の悪さがあった。
「あの、どうか頭を上げてください。そんな風にされると、僕の方が恐縮してしまいます」
どうにか体裁を保ち、それだけを口にした。すると、羽衣石さんが頭を上げ、ほんのりと頬を紅潮させながら話し始める。
「わたしあの時、大きな虫が出てきて、すごい格好のまま取り乱してたんです。だから、もしその時に起一さんが来てたら、恥ずかしいところ見られてたかもしれなくて……」
彼女は無意識なのか襟元を握りしめていた。その仕草が妙に艶めかしく、僕を揺さぶった。強い、喉の渇きを覚える。
(彼女は……どっちだ……?いや……)
「似たようなことは昔もよくあったんじゃよ」
和夫さんの声に僕と羽衣石さんは共に彼の方を見た。
「起一の場合は少なくとも自覚的な好奇心などはなく、純粋に千種を案じてのことだったんじゃろうが、結果的にトラブルになる惧れはあった」
和夫さんの眼には、どこか遠くを見ているような趣きがあった。それが僕をかき乱した。
池の傍で出会った時、僕は彼に善性を感じた。父の影を見さえした。だが今の彼は、為政者の顔をしてもいる。
僕は一度混乱を鎮めるため、その時の行動を改めて振り返ってみた。
「僕は……」
今度は僕が、二人の視線を感じる。
「もしそれが羽衣石さんでなければ、同じような行動を取れていたのか自信がありません。そのくらい微妙でした」
羽衣石さんが小さく声を上げた。言葉の意味を計りかねたのだろう、長い睫毛で飾られた彼女の眼が、僕を捉えていた。ただそこには、僕が危惧していたような不快の芽はなかった。
「羽衣石さんがもつ亡き妻の面影が、僕にそうさせたのかもしれません。守らなければ、いけないと」
羽衣石さんの表情が緩む。しかし再び不安の色が差したことで、僕は自分がいつの間にか眉間にしわを寄せていることに気づいた。表情を整え、そして和夫さんに向き直る。
「和夫さんは、池でお会いした時に、想像力についてのお話をしてくださいましたよね?」
「もちろん、覚えておるよ」
「今回は、それが役立ったのかもしれません。小さなことかもしれませんが、それは僕に想像力を積み重ねていくことの大切さを再認識させてくれました。しかし、そこには想いがなければならないんです」
自分でそう語りながら、頭の中で小さなピースが嵌るような音がした。
「想いのないところに、想像力は働きません。実際、仕事では僕の想像力はからっきしでした。それを動かしたのは妻への想いもありますが、今日僕を受け入れ、もてなして下さった和夫さんや羽衣石さん、村の皆さんだと感じます」
僕は、玉露に手を伸ばして口をつけた。湯呑みから手のひらに伝わる熱が、僕の中の小さな熱と混じり合う。
「一方で、想像力はしばしば判断を鈍らせます。冷徹な判断が必要な場合には、足枷となることも……」
それまで身動きひとつしなかった和夫さんの目が、僅かに細められた気がした。
「好きな創作で、『可能性に殺される』というフレーズが出てくるんですが、その可能性という言葉は想像力に置き換えても同じく意味を成します。それでも、想像力を諦めて何かを踏みつけて生きていくことを、僕はしたくない」
話が脱線しかかっていることを自覚し、僕は結論に向かうべく、頭で話を整理する。
「ごめんなさい、話が長くなりましたが、つまり何が言いたいかと言えばこういうことです。想像力が機能するには前提として然るべき環境が必要ですし、仮に働いたとして、良い結果をもたらすかは運みたいなところがあります。だから、そんな風に頭を下げていただくことは、僕には分不相応だと」
リー、リーと、庭の虫の声がその場の静寂を雄弁に語る。僕は急に恥ずかしくなってきた。勢い、自分語りのようなことまでしてしまった。羽衣石さんなどは呆気にとられている気がする。
和夫さんは『ふむ』とひとつ相槌をうつと、庭の外、月に照らされた遠くの山を眺めながら言葉を続けた。
「結人さん、やはりあなたは儂が思い描いていた通りのお人のようじゃ。これからも、その心の声を大切にしてくだされ」
柔和な笑みを浮かべる和夫さんに、僕もつい表情が緩む。疑うのは、後からでも出来るはずだ。
「……」
いや、本当にそうか?これは僕の脆弱性かもしれない。僕は自分の意思に基づいて動いた気でいる。そして彼に認められ、気分が良くなっている。彼の手の平の上で踊っているだけかもしれないのに。そういう搾取的な構造の中に、僕はかつて身を置いていた。冷静になるべきだ。
「そして千種、お前さんにも同じように感謝と……あとはちょいと小言じゃ」
『小言』の部分が強調され、隣の羽衣石さんの背筋が伸びたのが分かった。彼女の蟀谷を伝った汗は、暑さのせいばかりではないかもしれない。
「まずは、起一のことを思いやり、恥ずかしかったろうに一肌脱いでくれたことには、村を代表して感謝を述べさせてもらおう」
「お、大袈裟です、そんな……」
しかし言葉とは裏腹に、羽衣石さんの口元は僅かに緩み、膝の上で手をもじもじと揉んでいた。
「じゃが……」
弛緩していた彼女の唇が硬く結ばれ、ゆっくりと和夫さんと目が合う。今僕の前で説教が始まろうとしている。こういう時、ある種の共感性の反応なのか、こちらまで緊張してくる。
「些か、無防備にすぎるの」
羽衣石さんが瞼を閉じ、小さく深呼吸したのが分かった。一方で僕は、惑っていた。和夫さんの言葉からは父性を感じる。彼もまた自分と同じく、彼女を案じている……そう思って安堵したい気持ちもある。だが――
「以前から何度か言うとるがの?千種ちゃんはもう少し自分の魅力を自覚すべきじゃ」
彼女の方を見ると、眉が下がり、その瞳はやや虚ろだった。和夫さんの言葉は届いていないように見える。
「どうじゃ、結人さん?」
「えっ」
意識外から話を振られ、間の抜けた声が出た。
「若いあなたから見て、千種ちゃんは魅力的じゃとは思わんか?」
なんとも答えにくい問いだ。曲者だとは思っていたが、やはり油断ならない。舌の根も乾かぬうちにまた僕を試そうとしているのではないか。
「村長さん、月城さん困ってるじゃないですか!」
彼女は和夫さんに抗議しながらも、僕の反応を視界の端で気にしているようだった。そんな反応をされては、僕としても無碍には出来ない。
さて、と僕は考えてみた。僕と彼女の年齢差は十四。特に彼女の若さを考えれば、過小評価できない差だ。和夫さんからすれば僕は『若い』だろうが、羽衣石さんからすれば『オジサン』に近い部類だと思う。かといって、僕から彼女への評価が絶対に性的なニュアンスを持ち得ないかと言えば、それは無自覚に過ぎる。社会通念上持つべきではないが、そんな通念がある意味を考えれば、実態が異なるのは自明の理だ。つまり、セクハラになりかねない。
僕としても和夫さんと同様、彼女には自衛のためにも自信はつけて欲しい。僕は慎重に言葉を選びつつ、それが方便に映らないようなバランスをなんとか探ってみた。
「客観的に見て、羽衣石さんは素敵な女性だと思います」
彼女の方を見やると、恥ずかしいのか俯いていた。
「そもそもこの村には、今日出会っただけでも、素敵な女性が多いと感じました」
僕の頭に三人の少女達の姿が思い起こされる。
「でも、羽衣石さんには、他の方にはない魅力を感じます。無意識かもしれませんが、人の感情の機微に敏感で、それでいて押しつけがましくない、包容力があります。そこにいるだけで場の空気が柔らかくなる。これは得ようとして得られるものではありません。才能と言ってもいいかもしれません。今日お会いしたばかりの僕の浅見ですが、逆に言えば短い期間でも強い印象を受けました。……面接では有利かもしれませんね」
言っていて恥ずかしくなり、最後は少し茶化してしまった。再び羽衣石さんの方を見ると、耳まで赤くしていた。
「夕方に見たワンピースも、今の和装も、とてもよく似合っていると思います」
一言余計かとも思ったが、彼女の口元が緩む。お洒落が好きなのだろう。ポチャン、と庭の池に何かが飛び込んだような音がした。
「ありがとう、結人さん。話を振っておいてなんじゃが、これ以上は千種ちゃんが耐えられんじゃろうから、そのくらいで」
和夫さんは満足そうに頷きながら、老獪な笑みを浮かべていた。ほぼ初対面の相手に一方的な評価を押し付けるというのは全く僕の主義ではなかったが、和夫さんに担がれて調子に乗ってしまったかもしれない。とはいえここで謝ってしまえば、これまでの言葉が世辞か嘘のように映りかねない。僕は喉元までせり上がってきていたモヤモヤとした塊を呑み込んだ。それで腹を壊すことはないだろうが、既に胃が痛い。今はもう羽衣石さんの顔を見る勇気がない。
「さて、ここからは千種ちゃんの今後に関わる少々真面目な話じゃ。結人さんにも同席してもらうが、構わんかの?」
生温い風が広間を通り抜ける。
「はい……大丈夫です」
羽衣石さんは姿勢を正し、こちらを見ると微笑んだ。僕はややドキリとしながらも、微笑み返した。僕は、和夫さんが僕を『利用する』といった意味をなんとなく理解し始めていた。




