図書館Ⅵ ~冬の旅~
狐男との会話は僕を消耗させた。凍えた体を熱い飲み物で温めたかったが眠気が勝り、僕はいつものソファで泥のように眠った。
どれくらい眠っただろう。あの少女の声が聴こえたような気がして目が醒めた。でも、怠さの残る体を起こして周りを見渡しても少女はいなかった。あるのは憐れみ、纏わりつくように身に絡む毛布だけだ。僕は毛布を握りしめた。
僕は期待しているのだろうか。狐男がセックスの話なんかしたから、感化されているのかも知れない。
「……くそ」
つい、悪態が口をついて出る。あの男を信用する気はないが、もうひとつの探し物についても考える良い機会かもしれない。
花火だ。自作できるものなのだろうか。そう思って図書館内の蔵書を漁っていると、線香花火であれば、材料さえあれば出来そうなことは分かった。
木炭、松煙、和紙、硝酸カリウム、硫黄。問題はそれをどうやって集めるかだ。
木炭は喫茶スペースにあった薪ストーブを探せば燃え残りがあるかもしれない。松煙は赤松の木を割り、燃やして、煤を取ることで得られるらしい。手間はかかるが、まずは周囲にあるのか探すところからだ。和紙はなんとも言えない。和本はあった気がするが破るのはさすがに気が咎めるし、最終手段だ。まずは図書館の中を改めて探してみよう。だが問題は硝酸カリウムと硫黄だった。このふたつに関しては色々調べてみたがどうしても入手可能な現実的手段が無かった。
(……狐男)
ふと、彼の気配がして振り返るが、彼はいなかった。僕はいま、無意識に彼に頼ろうとした。情けない。
でも、彼は現れた。僕の心を見透かすようにして。
赤松の木を見つけ、採集している時、ふと視線をあげると、そこに彼はいた。
「やぁ、お望みの物を持って来たよ」
彼は雪の上に大きめのリュックサックを投げ出した。中を見ると、スノーウェアに寝袋、コンパス、携帯食料や水が入っていた。
「これは……?」
「現物を貰えると思ったかい?」
ぼやけた顔の奥で彼が嗤っているのが分かった。
「世の中そう甘くはないさ。ここから南東に向かうんだ。そこには大学がある。図書館の前の広場にある木の根元に、お望みのものはあるはずだ。まぁ、正直に言うと俺はその大学には近づけなくてね。自分で行こうにも行けないのさ」
「大学……?よく分からないけど、あなたが近寄れないのに僕は辿り着けるの?」
「大丈夫、君なら辿り着ける。そういう風に、出来ている」
謎めいていた。でも、不思議なことを言い出したらこの雪といいキリがない。なんでもいい。
「どのくらい遠いの?」
「そうだね、黙々と歩き続けて、この雪だしなぁ、片道だけでも四、五日はかかるかもなぁ」
僕は愕然とした。そんな距離をただ歩き続けたことなどない。
「一応テーピングと歩きやすい靴もつけておくよ」
どこまでも果てしなく続く地平線の向こうを見る。雪と闇が融け合っていた。
旅路を想像する。指先が震えているのは、寒さのせいばかりではなかった。
「……怖気づいたかい?」
また今回も望んでいたものが得られなかったとしたら?いつの間にか目的をすり替えられ、お前が決めたことだろと退路を塞がれたとしたら?すり替えられた目的を遂げられなかった咎だけを負い続けることになるとしたら?
僕は狐男を見上げた。信用のならない存在だ。
(でも……)
彼は純粋な取引を求めているだけな気がした。僕が旅立つのは、彼の為じゃない。僕が、彼女を笑わせるためだ。
「……」
そうか。僕は、彼女に笑って欲しいんだ。きっと、ただそれだけなんだ。
僕は震えていた指をぎゅっと握りしめる。
「……いや……行くよ」
そしてコンパスの指し示す方角をまっすぐに見据えた。
「ただ、地図も何もない状態で、道を外れてしまう気がするんだけど」
「それなら心配ない。目印ならある」
狐男は道なき道の先を指さした。
「うすぼんやりと光っているのが分かるかい?」
雪の向こうに、おぼろげに浮かぶ光があった。温かくて、冷たい、煌々と闇の奥を照らす光。形容し難く、これまで見たどんな種類の光とも違っていた。
「その大学までの道に、あの光は続いている。栓抜きみたいな形をした塔が立っていて、それが光っているのさ」
「栓抜き」
「そう……栓抜き塔さ」
狐男は、噛みしめるようにそう言った。
「最後の栓抜き塔の傍には池がある。そして、そこからは舗装された道が現れるはずだ。それに沿って行けば、大学はもうすぐだ」
狐男と別れ、僕は身支度をすると、喫茶スペースでカモミールを淹れて飲んだ。出立前に彼女の顔が見たかったが、姿はなかった。仕方がない。
これは彼女のためだが、僕が勝手にしていることだ。見返りを求めてはならない。
扉を開け、僕は旅に出た。
「……」
昼も夜もない道筋をひたすらに進むというのは、想像以上に心細かった。足の裏にマメが出来、テーピングをし、ひたすら歩く。
あとどれだけ進めばいい?本当に道は合ってるのだろうか?そもそも帰った時にまだあの少女はいる?
僕は、想像力のスイッチを切った。そうして、ただ足下だけを見て、栓抜き塔の数だけを意識して、前に進んだ。
途中、幻覚のようなものを何度か見た。女性の影が見える。彼女の手が僕の頬を打つ。「分かってるのか?」そう、間に言葉を挟みながら何度も、何度も。頬が、鼓膜が、裂けたのではないかと思った。衝撃に頭が揺すられ、ぼんやりとしてくる。耳鳴りがする。
『お前は最高傑作でなければならない』
僕は頭を振ってそれらを振り払った。
ひとつ、ふたつ、栓抜き塔の数を数えながら歩き、七つ目の塔の傍に、池はあった。それほど大きくない、特に澄んでもいない、なんということのない池だ。そして彼の言った通り、そこからは舗装された道が続いた。何度か橋を渡り、徐々に人工物が見えてくる。宿舎か何かのように見えた。武骨で装飾的なものを一切排した、冷たいコンクリートブロックみたいな建物。そうしてやがて、目の前にガラス張りの建物が現れた。なんとなくそれが図書館のような気がして近づくと、僕は背筋を冷たい手で引っ掻かれたような心地がした。
鼠だ。二階建ての建物くらいはあろうかという巨体の、巨大な鼠が、そのガラス張りの建物の中にいた。そこは恐らく図書館のエントランスになっていて、入り口を塞ぐような形でそれはいた。逃げようかとも思ったが、よく見ると見開かれた目は淀み、赤黒く変色していた。
それは死んでいた。
一切の留保はなく、断定的に、死んでいた。影ですら、もっと生気を感じる。でも、そこには何もなかった。その鼠は、静かに終わっていた。終焉を象徴するかのように。閉塞を物語るかのように。
僕はわけも分からず、しばらく呆然とその場に立ち尽くした。だが、その建物の奥に、木があることに気付いた。葉もないのに、その枝はきらきらと、虹色に輝いている。枝自体が輝いているというよりは、何かの鉱物の破片が纏わりついているように見えた。
そして、その根元に探していたものは、確かにあった。
コアカミゴケ。
だが子器はまだ形成されていないようだった。構わない。
木の皮と周囲の土ごと、コアカミゴケをケースに入れ、大切にリュックの中への仕舞うと、僕はそのままそこに寝袋を広げた。睡魔はすぐにやってきた。
小さなガラスが触れ合うような、澄んだ音で目が覚めた。それはその木の枝から生じているようだった。
僕は眩惑されそうになるのを振り切り、僕らの図書館に帰るべく再び歩きだした。
途中、再びあの巨大な鼠が目に入った。毛並みは薄汚れ、がさがさとしていた。彼に一体何があったのだろうか。なぜ、こんなところで孤独に死んでいるのだろうか。そんなことは、知る由もない。
僕は、手を合わせ、彼に祈りを捧げると、再び想像力のスイッチを切った。
図書館に着いた時、僕はもう色んな感覚が麻痺していた。重い扉を開けようと体を擦りつけるも、力が足りない。
ふと、重力を感じた。体がすとんと、温かい図書館の中に落ちる。
「なにしてるのよ……ねぇ……だいじょうぶ?」
彼女の顔を見てほっとしたせいだろうか、僕の世界は、そこで消灯時間になった。




