霞Ⅲ
次に僕の意識が闇に波を立てた時、目の前には既にヌァルーがいた。正確にはヌァルーの顔があった。
ひやりとして、柔らかな感触。僕の頭はヌァルーの膝の上に横たえられていた。
いけない。不敬だ。全身が酷くだるく、そのままの姿勢でいたい誘惑に駆られたが、なんとか体を起こして立ち上がった。
表象的な世界でも、だるさは感じるらしい。繋がっている。
「ごめんね、わたしの力不足で」
「いや、僕の問題だ。奴が言った通り、きっと僕が中途半端なせいなんだ。千種や若菜、琴音は十分に強さを得ていたのに」
その紅い双眸が、僕を捉える。
「今回、君は自死を選んだ。それが邪な存在に囚われないための勇敢な選択なのか、邪な心との闘いからの逃避なのか、それは難しいところだ。でも、少なくともわたしに君を責めるようなつもりはない」
どこか心細げな、童女のようなその佇まいに、僕はヌァルーを抱きしめてやりたい衝動に駆られた。もちろん、不敬な気がするのでそんなことはしない。若菜好みの儚く憂いを帯びた少女の見た目に騙されて、ついそんな気分になっただけだ。
「いいよ、そのまま来てよ」
「え?」
ヌァルーの瞳が僕を捉える。途端、脳が痺れるような感覚に襲われる。僕はこの神に抗えない。そこには何の強制力もないはずだったが、そんな風に感じた。
「その情動はわたしの好物だ。この姿に惑わされるかもしれないけど、わたしは君たちの倫理観が咎めるようなものじゃない」
僕はヌァルーに誘われるまま、その華奢な体をそっと抱擁した。ヌァルーは腕をだらりと下げ、為されるがままにしていた。
「いいね、好きだよ、これ」
少ししてから僕は大きく息を吸い込むと、そっとヌァルーから離れた。
「ありがとう」
ヌァルーがほんの微かに笑ったような気がした。ただ僕の方は寿命が縮まった心地だ。
「その葛藤や自制心含め、美味だ」
「悪趣味だな」
「神ってのはそういうモノだと相場が決まっている」
やれやれ。
「そして結人、今度は君が誰かに抱きしめてもらう番だよ。ただの憐憫からではなく、君を求め、欲する。そんな抱擁を」
(僕が、誰かに……?)
「そうは言っても……それにそんなことが許されるのかな……」
僕は正直に言って途方に暮れていた。
「君が素直に求めることさえできれば、話は早いんだけどね。でも、それが君だ。結人、君たちの社会で大切なのはコンテキストでしょ?」
僕はヌァルーの意図を掴み切れずに、その顔のようなものを見つめた。
「といっても、今は君ひとりがコンテキストを積み上げている状態だ。こんなにがんばってるのにね。がんばれば、がんばるほど、君は孤独になる。あいつが復活するまでの猶予は限られてる。でも、いまの君の慎重さでは時間が足りないだろう」
ヌァルーはそこで一度言葉を切った。
「誰かが、君の心を解きほぐす必要がある。今のわたしなら、もう少しだけ力を与えることができる。このくらいは許されるだろう」
そしていつものように、僕に質問の猶予は与えられず、意識は再び闇の中に落ちていった。




