朧Ⅱ
声が聴こえたような気がして目が覚めた。時計を見ると、時刻は午前八時。今日は祭祀だ。予定より少し寝坊気味だが、大丈夫、今回はまだ間に合う。
身支度をしている最中も、既にあの時に感じた違和感は、今回も健在だった。
辺り一帯に、邪な存在の胞子が舞っているかのような感覚が、身に纏わりつく。
外に出ると、どんよりとした空模様。社の上空に、前回ほどではないが、やはり墨色の雲がうねる様にして在った。
僕は覚悟を決めてアパートの階段を降り、社へと向かうことにした。
途中、前回のような村人の異変は感じなかった。皆、どこか不安げな様子ではあったが、あの人間味を感じない人形のような気配はない。
異変が起きたのは、僕が白木邸の前に差し掛かかろうとした頃だった。悲鳴が聴こえた。
声の出所へと走ると、へたり込んだ老婆と、鍬を構えた老人の姿が目に飛び込んで来た。
(……犬……?)
彼らが相対してるもの。それは一見、やや大型の犬のように見えた。腰高は人間の大人の腰程度、体つきは細くしなやかで胴体が妙に長い。
走り寄り、近くで眺めると、その異様さは更に際立った。
口が大きく、覗く犬歯が異常に発達している。目の色は赤く、瞳孔が縦長でその点は犬というよりは猫科の動物のように見えた。
だが何よりも異様だったのは体のいたるところに散りばめられるように見開かれた人間の「目」のようなものだ。ぎょろぎょろと蠢き、辺りを見回している。
その目は飾りではなく、それにより得られた視覚情報はその犬のような生き物に送られているのだろうか?だとすれば相手が次にどのように動くのか全く予測できない。僕は恐怖した。
そんな時、駆け寄る音がした。
和夫さんだ。木刀を片手に持っている。
「おい!」
彼はその犬のようなものの背後から声で威嚇すると、振り返り飛びかかろうとするそれを下段の構えから喉元を突きあげるようにして体勢を崩した。
犬のようなものは耳をつんざくような悲鳴を上げたが、その声の中には何か人間の悲鳴のような、過呼吸する息遣いのようなものも混じって聴こえ、気味が悪かった。
その後和夫さんは、何度か体に開いた眼のような器官を突き、最後に頭を踏み潰した。
それはしばし痙攣していたが、やがて動かなくなった。
(慣れている)
彼はその存在の動きや、脆弱な部分を把握しているように見えた。
息をつこうとしたのも束の間、屋敷の裏手の方からさらに三匹ほど、同じような犬モドキが駆けてきた。
すると何処からともなく、そう、何処からともなくだ。現れた数人の男性が警棒のようなものでそれらに対処し、和夫さんと同様に頭を潰した。
「イヌガミじゃ」
「イヌガミ?」
和夫さんは男性らの方を見たまま、僕にそう言った。
「一見すると犬じゃが、中身は全くの別モノじゃ。おるはずがないんじゃがの。少なくとも、あの姿では」
「彼らは……?」
ふたつ目の疑問だ。
「影と狼じゃ……村と、巫女の身辺警護を密かに担っておる……世間話しておる暇はない。結人さんも社に向かってくれ。イヌガミは儂らで対処する。憑代がいるはずじゃ。それは恐らく、若菜らや、お前さんに関わりの深い人間のはず」
「何故わかるんですか?」
「経験じゃよ……ほれ」
和夫さんが僕に木刀を手渡してくれた。僕は頷くと、社へと駆けた。
石段を駆けあがる。慣れてきているとはいえ、駆けあがるとなると話は別だ。膝が軋む。胸が苦しい。それでも、事態は一刻を争う。
二の鳥居まで辿り着くと、僕は手水舎の水を犬のように飲んだ。罰当たりだが、構っていられない。
脇腹を押さえながら中庭に入ると、巫女装束の若菜がいた。
「結人さん!」
「みんなは?千種や、琴音は?」
「わかんない、なんか幣殿の奥から変なのが出てきて、そしたらなんか男の人がやっつけてくれたんだけど、でもみんなと逸れちゃって、ボクどうしていいか分かんなくて知らせなきゃって――」
「落ち着いて……今はカゲとロウの人達、たぶん助けてくれた人たちだ、彼らが対処してる。きっと文乃さん達も無事だと思う」
若菜が取り乱している。そんな姿を見たことがなかった。
「神崎君を見た?」
「悠斗?見てないけど……」
その時、誰かの視線を感じた。若菜の背後。幣殿の奥。彼だ。
「神崎君!」
彼はすっと、奥に姿を消してしまった。僕は見失うまいと彼の後を追った。
「ね、結人さん、一人にしないで!」
そんな僕の後を若菜がついてくる。
「若菜ちゃんはみんなに合流した方がいい!何が起きるか分からない」
「そんなのどこにいたって同じだよ!」
それもそうかもしれない。もはや。
幣殿の奥は、僕が立ち入ったことのある新しい幣殿とはまるで雰囲気が違った。薄暗く、古い木の匂いがした。そして、徐々にあの饐えた臭いがし始める。
内部は入り組んでいて自分がどこにいるのか把握できなかった。そんな僕を誘うように、彼は曲がり角に立ち、姿を消すことを繰り返した。
(誘い込まれている……罠というやつだろうか……とはいえ――)
彼と話さなければ何も始まらない気がした。
気付くとそこは行き止まりだった。湿った空気。洞窟の中をくり抜いて作ったかのような部屋だった。
椅子があった。どこかで見たことがあるような気がした。肘掛があり、背もたれの高い、装飾的なアンティーク調の椅子。
僕は吸い寄せられるようにしてその椅子に座った。
(僕は今なぜ椅子に座ったんだろう)
僕はすぐに立ち上がろうとした。だが、体が動かなかった。
「まぁ、そう焦るなよ」
声のする方を向くと、人影があった。同じように椅子に座っているが、暗くて姿は良く見えない。
(神崎君……?)
「なぁ、結人、お前このままでいいのか?」
不躾で挑発的な口調。耳を傾けてはいけない、本能的にそう思った。僕はその顔があると思しき場所を睨みつけた。
「……」
相手の、どこか侮蔑的な気配を感じ取った。
「お前は利用されたんだぞ。あの老獪な村長や、女ども、そしてあの善人面をした神性に」
「認識の問題だな。利用と言いたければ言えばいい。僕は僕で己の成長のために自分で決めてやってきたことだ」
わざとらしく息を吐くような音が聴こえた。
「人生はな、慈善事業じゃねーんだぞ?お前、もっと目線を上げろ、前のめりになれよ。でないと、すり減らされるだけだぞ?お前に今、何が残ってる?このままじゃ、いいように使われて終わりだ」
嫌な言い方だ。だがそういう言い草を僕はよく知っていた。相手の論理に乗る必要なんてない。
「あなたにはあなたの論理があるんだろうが、それは僕の信条に合わない。論理的であることと適切であることは別だ」
相手が嗤ったのが分かった。
「分かってないな。お前はもっとやれるんだよ、下らない信条さえ捨てればな。俺はお前に期待してる。お前には資格がある。お前は村のやつらに信用されてるんだ。それを活かさない手はないだろ?」
ガラガラとした、不快な声だ。黙らせる方法はないだろうか。
「神崎悠斗を使ったやり方は性急すぎた。今度はもっとじっくりやろう。贄を一人、作ってくれればいいんだよ。ほら、あの娘だ。仕込みがいがあると思ってたんだろ?生温いものを求めるなよ。お前の言うことなら何でも聞くように仕上げろ。そうすれば、それが種になる。やがて人間どもの情動を吸い上げて大きく花開けば、あとは俺たちの欲望のままだ。小さく収まるな。圧倒しろ」
「……」
僕は彼に倣い、聞こえるようにわざと大きく溜息をついた。それから鼻で笑ってみせた。
「あなた……いや、お前自身に人格のようなものはないんだろうね。お前はただの純粋な搾取の象徴であり概念だ。依り代がなければ何もできない。夏の影に潜む脆弱な虫のようなものだ。だから僕はお前の個人的な背景に想像力を巡らせて配慮する必要もない。そして僕はそういう搾取の醜さと、ままならなさを知ってるつもりだ。すぐにどうこうできるわけじゃないが、せめて耐性があって良かったよ」
「目を逸らすな。俺はお前の疑似世界が作り出した存在である以上、お前の中から湧いて出たものだ」
「わかってるさ。自分の醜悪さくらい。僕は何度もそれに打ちのめされている。善意だと思っていたものの奥にある悪意の芽に。幸い、開き直ってそれを育てるほどの力は僕には無かったし、己を呪うだけで済んだ。今更そんなことくらいで、お前みたいな三下に揺さぶられたりしない」
そいつは舌打ちした。
「神崎悠斗がどうなってもいいのか?」
そうだよな、お前たちはそういうやり口だよな。僕は彼だって救いたい。彼は本来、将来有望な教員志望の優しい青年なんだ。それを知ってる。だから皆が彼を責めたとしても、僕は彼を諦めたくない。
「あの神性の力は俺を封じきるにはまだ不十分だった。それはお前が中途半端なせいだ。お前の中の絶望の残滓が、孤独が、俺の糧になる。だからまだ、小僧の命一つ持っていくくらいのことは訳ないんだぜ?そうだ、全部お前の責任だ……いいね、いま揺らいだな?」
見透かされている。
「ああ、それからもう一つ。お前はあの娘のことを、亡き妻との違いにおいて別人として区別しながら、その近似性において庇護対象として捉えていたろう?まったく器用なことだ。でもよく考えてもみろ。それはお前の理想そのものじゃないか?知っているんだぞ。お前は妻が性的に受け身だったことに不満を募らせていたはずだ。妊娠を契機にいずれセックスレスになるだろうってな。つらいよなぁ?一方通行なのは。お前は渇いてるんだよ。見て見ぬふりをしているその渇きが、いずれ皆を不幸にする」
「彼女は彼女だ。守るべき十九の少女だ。紗季とは違う。そもそもそんなのは些末なことだ。紗季は理想的なパートナーだった。話はお終いだ」
「いいのか?あの娘は渇いてるぞ?きっと甘えた声で何度もお前の名前を呼び、好意を伝え、どこが気持ち良いのか口にしながらヨガるぞ?お前が望んでいた通りに。熱いものを注いでやれよ」
「やめろ」
そんなことは望んでいない。望んでいいはずがない。どうやらまだ足りなかったようだ。何かのピースが足りない。僕はそれからゆっくりと瞼を閉じ、再び開く。
「結人さん……大丈夫?」
いつからか傍にいた若菜がこちらを心配そうに見ている。彼女の存在が、僕を繋ぎ止めてくれたのかもしれない。どれくらいの時間、僕は意識を向こう側に持っていかれていたんだろうか。
ふと、手の中に何か冷たい感触があることに気がついた。
ペティナイフだ。
それはいつの間にか、そこにあった。まるで、僕の身の内から湧いて出たかのように。
滑らかな流線形のステンレスハンドル。手の平に乗るそれは、驚くほど軽いはずなのに、指に沈み込むような重い痺れをもたらした。そして僕は、そのナイフをよく知っていた。
それはかつて己を切り刻んだ、罪悪感と弱さの象徴だ。命に関わるような箇所は避け、手の甲や、腕、腹、それらを何度も切りつけた。その痛みは僕の罪悪感を和らげてくれた。
愚かなことだ。真似をしてはいけないよ。でも止められなかった。
当時、僕は思っていた。こんなのただのポーズだと。薄汚い自己憐憫に過ぎないと。世の中にはもっとずっと過酷なことがいくらでもあるのに、どうして自分はこんなことで身を切り裂いているのだと。いや、だからきっと大したことじゃない、こんな風に自分を傷つけるくらい、ありふれたことだ。なら、好きなだけ刻めばいいじゃないか――そんな、堂々巡りだった。
だが今なら分かる。いくら罪悪感があろうと、そんな行動に出るのは異常だ。今なら怖くてそんなことできない。だって痛いじゃないか。
つらかったんだな。なのにそれ以上自分を追い詰めることなんてなかったんだ。
「……ありがとう、若菜」
僕はそれを首元に当てた。
「結人さん⁉」
頸動脈というのがどこかはよく把握してなかったが、それらしい箇所を思い切りつけると、勢いよく血が吹き出した。僕は心の中でヌァルーに介錯を乞うた。次の瞬間、風を切るような音がしたのが最期だった。




