結人Ⅵ
八月のある日、僕はジョギング中に鏡渕池のほとりで琴音の姿を見かけた。確か今までは千種から琴音に起きたトラブルを聞き、会いに行く流れだった気がするが、今回彼女はそこにいた。
ぼんやりと水面を見つめている彼女に歩み寄ると、振り返り、片方の口の端を歪めた。
「なんだ、結人さんか」
「千種さんだと思った?」
表情からするに、図星のようだった。
「帰ってきてたんだね」
「うん……」
僕は彼女の傍らに立ったまま池へと流れ込む風を感じた。
「何かあった……?」
琴音はそれについてすぐには何も答えず、代わりに手元の草を握りしめていた。
「ちょっと……ね。人って見かけによらないよね」
僕は彼女から人ひとり分くらい距離を離して座った。
「人間っていうのは多面的だ。自分ですら気づいていないような一面があることもある。そういう意味では、僕は常に自分のことを一番警戒しているかもしれない」
「自分を……?」
「そう。昔、塾講師のバイトをしてた時にこれを言ったら中二病扱いされたけど、そうじゃない。僕らは物語の中を生きている。メディアでしか伝え聞けないような遠くのことだけじゃない。リップマンはそれを疑似環境と言ったけど、もっと身近なことだって、想像力で補完しながらその現実は作られてる。それは他人だけじゃなく、自分についても同様だ。自分がどうありたいかということとは別に、ありのままの自分がいる。誰かの、あるいは自分の期待する物語の中で役を演じるだけじゃ、見落とすものも多い」
「相変わらず小難しこと言うね……でも、ちょっと、分かるかも……。自分ですら気づいてない面があるって、なんか怖いね」
近くの木の上から、蝉の声がシャワーみたいに降ってきていた。その声は、僕らの間を埋めてくれているような気がした。
「私さ、先生になろうと思う」
「そう……なの……?」
唐突な告白だった。
「似合わないかな?」
「いや……きっとすごく良い先生になると思う。厳しさと優しさの調和のとれた、寄り添うことのできる、そんな先生に」
琴音が僕の方を見て、変な顔をしていた。
「どうかした?」
「ううん、見たことない顔してたから」
僕はペタペタと自分の顔に手をあててみた。どんな顔をしていたろうか。
「いい顔してた。いつもみたいに、胡散臭くなくて」
いつもは胡散臭いのだろうか。ちょっとショックだった。
琴音は僕の膝を二回、励ますように叩くと、「またね」とそのままどこかへ行ってしまった。
僕はその後もしばらく、池のほとりに留まった。
そして、これまでと、これからのことを考えた。
まずジュと呼ばれる厄神、あるいは邪神についてだ。
琴音の状態を見ても、今回は手ごたえがあった。ヌァルーの言う通り彼女らの成長が鍵になるなら、きっと大丈夫なのではないか。そう思えた。一方で――
「神無月」
言葉にすると、不思議な響きだ。
燈子さんから聞いた村の暗部。それに潜む悪と言うべきものがあるとすれば、それは僕が今立ち向かっているような象徴的なものとは違う、極めて現実的な悪だ。いや、そもそも善悪といった単純な価値判断が意味を成さない、ある種、善悪の彼岸に生じることだ。
ニーチェ曰く「愛よりなされることは、常に善悪の彼岸に生ずる」。元の文脈において、その愛とはキリスト教的な愛を指すのだろう。だが僕らが自分たちのより現代的なコンテキストにおいてその愛を考える際、もはやそれは絶対的なものではない。誰かにとって、その愛はエゴかもしれない。
僕は村のことをもっとよく知り、高度な政治的なやり取りの中で、問題に立ち向かっていく必要がある。たくさんの人を傷つけ、傷つきながら。
それは多分、一生かけて、何か爪痕を残せるかどうかといった次元の問題だ。
「……」
あの神無月という男に対して、僕は正直、嫌悪感を持っている。いや、脅威を覚えていると言ってもいい。
ああいう手合いは想像力が不足しているタイプじゃない。むしろ想像力を発揮し、人を操り、搾取するタイプの人間だ。悪意なく。だからこそ、対峙するには僕の方にも相応の覚悟が求められる。
結論として、彼に纏わる問題は、今の僕の手に余る。もし、立ち向かうとすれば、それは多分あの祭祀の日を越えた先においてだ。そしてそれは、僕がこの先もこの村で生きていくことを指すのかもしれない。
自分のこと……正直、最近はあまり考えられていなかった。文乃さんとの仕事は楽しい。自分が自分でいられる気がする。生計を立てられるかは分からない。文乃さんとも、いつまで一緒に仕事が出来るかも。孤独に生きることになるかもしれない。
(でも……)
生きているふりをするよりは、マシかもしれない。




