文乃Ⅲ
琴音との三番勝負を終え、文乃さんの仕事を手伝うようになった。全て、予定通りに。
だが――
『文乃ちゃんのことを助けてあげて欲しいの』
燈子さんのその言葉が、ずっと頭の片隅に残っていた。
一緒に仕事をしている時の文乃さんは、いつもと変わらず知的で、ユーモアがあり、チャーミングで……時折、雨の匂いがした。
でも、僕に何かが出来るとは、到底思えなかった。
そうこうするうち、秋が過ぎ、冬になり、春になり、またあの夏がやって来た。
その日も僕は文乃さんの家にいた。彼女のおかげで徐々に品質が上がって来た僕の書評を、いよいよ本格的に編集者や出版社に紹介するため、ブラッシュアップしたり、段取りを組んだりしていた。
気付けば夕方になり、文乃さんは前祝だと言ってたまには街で外食をしようと提案してくれた。
気後れする僕をよそに、彼女は心当たりの店があるのか、予約の電話を入れてくれた。
「すみません」
僕がそう言うと、文乃さんはキョトンとした顔をしたが、すぐに背筋を伸ばすとわざとらしく咳払いをした。
「ひょっとして、男の自分が予約するべきところなのに、なんて思ってる?」
「ええ。ひょっとして、『ありがとう』ではなく『すみません』だったから、気付かれました?」
彼女は少し意地の悪い笑みを浮かべた。
「あら、分かってるじゃない」
僕はつい下唇を噛んだ。
「悪い癖なのは分かってるんですが、なかなか治らなくて。恥ずかしいです」
「このあたりのお店はわたしの方が詳しいし、そもそもわたしが言い出したことなんだから」
すると、文乃さんは部屋の隅の埃を見るような目をして話し始めた。
「以前、あれはゼミの打ち上げの後か何かだったかしら……個人的な二次会に誘われたことがあったの。相手は、平たく言うと、当時わたしに積極的にアプローチを仕掛けていた人。相手にしてなかったし、気を持たせるのも悪いと思ったんだけど、その日はなんだかむしゃくしゃしていて、誘いに乗ってしまったの」
文乃さんはチラリと僕の方を見た。ご名答だ。僕は少し気が気で無くなってる。
「それでね?店をどこにするか相談しようとしてたら、彼、いい店があるんだって言うから黙って着いて行ったの。そしたら、絶対に何日も前から予約しないと入れなさそうなお店に連れて行かれたわけ。二次会に誘われたのは当日なのによ?」
文乃さんはさもつまらなそうに、ティースプーンで紅茶をかき混ぜていた。こういう所は少し子どもっぽくて可愛いのにな、と僕は失礼なことを考えていた。
「彼は澄ました顔をしていたけど、内心得意げなのが透けて見えたし、わたし一気に冷めちゃって。確かにわたしの好みのお店だったし、お料理も美味しいはずたったんだけど、一緒に食べる相手でこんなに不味くなるんだって……いい勉強になったわ」
それから文乃さんはじっと僕の方を見つめた。
「操作的な振る舞いは、僕も好きになれません。それが自分に有利に働くうちは良いかもしれませんが、必ずしもそうとは限らない」
文乃さんはいつもの笑顔を浮かべた。
「そうね……もちろん、ちょっとしたサプライズは、わたしも素敵だと思うわよ?でも、あれはそういうのじゃなかった。前提となる信頼関係がないと、ダメなのよ」
文乃さんは嫌な記憶を洗い流すかのように、すっと瞼を閉じて紅茶を口にする。僕はその長い睫毛を見つめていた。
「そうした操作的な振る舞いを指向する萌芽が、今回の僕の意識にもあったと?」
文乃さんはカップとソーサーを置くと、小さくかぶりを振った。
「ごめんなさい、そういうつもりはなかったの。ただ、思い出してしまって。……でもそうね、そんな些細ことを気に病んで欲しくなかった。それだけなの。結人さんの気持ちは……嬉しいし」
『嬉しい』、そう口にする際の不思議な間は、僕を少し緊張させた。
「こちらこそすみません、自分で男のホモソーシャルがどうのと言いながら、僕はまだそれに囚われている。ただ、善くはありたい。しかしまた、善意はエゴの隣人でもある」
文乃さんの瞳が僕を捉える。
「それ、誰かの言葉?」
「いえ、僕の言葉ですが、含蓄のようなものはないですよ。エゴが悪ということを言いたいんじゃないんです。それは逃れ得ぬものです。それがあるから、僕たちは生きていける。でもそれ故に強力無比なものです。ニーチェで言う『力への意志』は、ニュアンスとしてはかなり近い。でも現代では誰が『強者』なのかが複雑になり過ぎている。でもとにかく、僕らはそのエゴとうまく付き合っていくしかない。エゴを否定してしまったら、全てを駆逐するしかなくなってしまう。その一つの究極形は戦争なのかもしれません。だからこそ、自分が善の側に立っていると思っている時ほど、注意が必要なんです。僕はこの村では、琴音さんにそれを戒められたような気持ちでいます」
「『善意はエゴの隣人』……そうね、そこが難しいところよね」
文乃さんは目を細め、もの思いに耽るような表情をした。
「それと……そういう意味では今回のわたしの振る舞いも、褒められたモノではないわね。ごめんなさい」
文乃さんは手を膝の上に揃えると、少し頭を下げた。
「いいんです。まだ短いお付き合いですが、僕はあなたを信頼しています。そのままの文乃さんでいてください」
文乃さんは顔を上げると、少し驚いた顔をしていた。それから今度はどこか意地らしい表情で目を細めた。
「結人さんと話してると、なぜだかイジワルしたくなっちゃうのよ」
僕は少しやり返すことにした。
「好きな男子にちょっかいを掛ける、小学生の女の子みたいに?」
「あら、言うようになったじゃない。随分と自信家になったのね」
文乃さんは眉を少しぴくりとさせたが、すぐに二人見つめ合い、声を上げて笑い合った。
(こんなに楽しいのは、いつぶりだろうな)
その後は文乃さんお勧めのドイツビールの店で二人で食事をした。文乃さんの言うとおり、その店のザワークラウトは絶品だった。その後はカラオケに誘われた。あまり得意ではないというと、文乃さんも普段はあまり付き合わないのだと言った。
「別に盛り上げようなんて思わなくていいのよ。お互いに好きな曲を好きなだけ歌えばいいの!なんなら、ずっとバラードでもいいわよ?」
「さすがにそれは……」
「だってわたし、結人さんの社交性にそこまで興味ないもの。それより好きな歌が知りたいわ」
そこまで言われたら断るに断れない。お酒が入っているせいか、彼女は上機嫌かつアグレッシブだった。店を決めて入室してから気づいたが、狭い密室で二人きりというのは妙に緊張した。彼女はそんな僕の気など知らないような感じで、どんどんナンバーを入力していった。
彼女はDo As Infinityの"柊"と"深い森"を歌った。本当に何でも良さそうだ。
「意外ですね。洋楽とか、R&Bとか、シャンソンとか歌うようなイメージだったので」
「確かにわたしは割と節操なく色々聴くけど、歌うってなったら、ねぇ?でもまぁ、そういうなら~、洋楽ってのとは少し違うけどぉ」
Ilaria Grazianoの"i do"というナンバーをしっとりと歌い上げてくれた。難しい曲だ。文乃さんはいつだって僕の想像の斜め上をいく。
ちなみにその曲は『攻殻機動隊』の挿入歌だ。アニメファンというのは意外な気もしたが、偏見なく様々なメディアを嗜みそうなところは、イメージと違わない。
その後は期待通りと言うか、Alicia Keysの"If I Ain't Got You"やMariah Careyの"We Belong Together"と続いた。圧巻の歌唱力の前に、僕は余計なことを言ってしまったことを後悔した。彼女がイメージ通りの曲を歌ったら人死が出る。実際僕はノックアウト寸前だった。
「結人さんもなにか歌わないの?もちろん、無理強いはしないけどぉ」
いつにも増して攻めてくる彼女の目と声色に僕は観念して、少ないレパートリーから知っている僅かな洋楽とMr.Childrenのナンバーを入れた。洋楽はJames Bluntの"You're Beautiful"とかそういうのだ。これはあまり考えなしに入れたが、歌いながら妙に感情移入してしまった。Mr.Childrenは"少年"とか"HERO"とか、そのあたりだった気がする。お酒が入ってなかったら多分無理だったが、久々に大きな声を出すのは気持ちがよかった。しばらくはコロナ禍でカラオケから遠ざかっていたこともある。姉のように和やかに見守ってくれる文乃さんが僕の緊張を解いてくれたこともあり、段々と僕もノってきた。でも次第に、少しぼんやりとした表情になっていった彼女に僕は声をかけた。
「文乃さん、眠いですか?」
「……え?あ、ううん。そうじゃないの。聴き入ってた……だけ……」
「そんな良いものじゃないでしょう」
自嘲する僕に対して、彼女は小首をかしげ、いつもの僕を覗き込むような仕草で答えた。
「あなたって、いつも感情を抑えちゃうでしょう?だからかしら……情熱的な声が……なんだか色っぽくて……新鮮だったのかも」
随分と担がれたものだ。ただ確かに僕は歌う時、普段は湖面に浮いてくるのを木の棒で沈めるようにしていた感情を解放し、乗せるところがあった。そういう歌い方をするようになったのは、仕事をするようになって、ストレス発散でたまに独りカラオケをするようになってからだ。最初は羞恥心が邪魔したが、同じ歌うなら全部吐き出したい、そんな気持ちになった。
そしてふと、思った。僕が感情を抑えるようになったことと、笑顔が下手なことは、どちらが卵でどちらが鶏なのだろう、と。くだらない。
「じゃあ、わたしも」
なにが「じゃあ」なのかは分からなかったが、彼女は次のナンバーを入れた。そっと頭の天辺から入って来て、体全体を震わすような彼女の声が、僕を一気に彼女の世界観に引き込んだ。aikoの"恋をしたのは"。
選曲からして気取らない、等身大で、メロウなメロディー。彼女が時折垣間見せるあどけなさにも、その曲はよく似合っていた。時々僕の方をチラと見やる彼女に、僕は最初どぎまぎしたが、段々とリラックスしていった。
(声……好きだな……)
でもその後に彼女はまた意外なナンバーを歌った。25時、ナイトコードで。"余花にみとれて"。
僕はその曲を知らなかった。でも、なぜか無性に胸に締め付けられた。優しく、切なく、どこか懐かしい。孤独な夜に、何も言わず、そっと背中から抱き締められているような気持ちになった。
頬に生温かいものを感じ、自分が涙を流していることに気がつく。文乃さんはそんな僕に少し慌てた表情を浮かべながらも、最後まで歌い上げてくれた。
なぜその曲が僕を揺さぶったのか、きっとそれには、楽曲に込められたストーリーだったり、文乃さんが込めた想いだったり、色んな理由はあったと思う。でも、その理由のうちの一つはテロップを見ていて分かった。その人は今も素敵な詞と曲を作るのだなと、温かい気持ちになった。だからその後、僕も選曲した。keenoの"glow"。ボーカロイド向けに作曲されたその曲は、キーが高い訳ではないものの、その一切の人間的なエゴを排された平板な声にしか出せない切なさがあり、原曲のニュアンスを出すのはほとんど不可能だった。その機械生命の歌声は、ある意味では人間以上に人間らしく感じられた。
『俺は人間性で出来ている』
あの厄神の言葉が、傷口が開くかのように頭の中に木霊した。
『私、人間がいい』
でも、琴音の言葉がそれに重なる。彼女の持つ清らかな水のイメージが、僕の傷口を洗う。
そうして、最後までなんとか歌い切った。そんな僕を、文乃さんはただ穏やかな眼差しで見つめていた。
「同じ方が提供された楽曲だったのね。知ってたの?」
「文乃さんの歌った曲は、知りませんでした。でも、言葉にならないくらい温かかった。だから、気づいたんです。僕は同じ優しさを知っているって」
僕は手を組んで、ひとつ息を吐いた。
「父の訃報を受けた時、その"glow"という曲を車で聴きながら帰省したんです。だから、きっと記憶に残ってたんでしょうね」
「……そう」
文乃さんは、それ以上何も言わなかった。ただ、その華奢で美しい手を、僕と彼女の間の隔たりにそっと添えるように下ろして、僕の沈黙に耳を澄ませていてくれた。それは、とても温かい沈黙だった。
その後も何曲か交互に歌ったが、最後は文乃さんの"天城越え"で締めた。お約束というやつだ。
心地よく流れる時間。でも僕には分かっていた。この関係がこれ以上どこにも行き着かないことに。文乃さんにとってはひとときの戯れであり、僕にとっても、ささやかな癒し。彼女にとっての僕は、気安い年下の、ちょうどいい聴き手。それ以上でも以下でもない。そういう関係性もある。それを見誤れば、色んな人が傷つく。
やがて終わりの時が訪れ、部屋を出ようとした時、文乃さんはなぜかぼんやりとした表情のまま消灯した部屋の真ん中に佇んでいた。
「文乃さん……?」
薄闇の奥に融けてしまうそうなその姿に、頭の奥がじんと痛んだ。




