燈子Ⅲ
その日、特にスケジュールを埋めていなかった僕は、遅めの昼食のためにパスタを茹でるための湯を沸かしていた。
湯が沸き、風味付けのオリーブオイルと塩を加えようとしたところで、急にある男のイメージが降りてきた。
スーツに、ゴシックな笑み。
(神無月……)
僕は火を止めると、すぐにスニーカーを履いて外に出た。そして公園へと駆けた。
ブランコに琴音はいなかった。それはそうだ。ブランコの上にいつも琴音はいない。
だが、公園の端で様子を窺う一人の男性の姿があった。虫の報せというのはあるのだなと思ったのは、村に来て恐らく二回目だ。
僕はゆっくりと彼に歩み寄り、中立的な笑みを意識して、声をかけた。
「なにか、お困りですか?」
「……ああ、いえ、お構いなく」
虫でも払うような感じだった。
「琴音さんはいませんよ」
神無月は、驚いていた。こういう男の本当に驚いた表情というのは、そう引き出せない。
前回の和夫さんの反応からして、彼は招かれざる客だ。遠慮をすることはない。
「あなたは……?」
「この村のオブザーバーです」
「オブザーバー……。そうですか。まぁ、元々誰にも見られずに済むとは思っていませんでしたが、なるほど」
彼は軽く僕に会釈すると、身を翻した。
「改めて、ご挨拶に伺うようにします。それでは」
相変わらずの綺麗な去り際だった。
考えてみれば前回と言い、今回と言い、僕は彼とほとんど会話をしていない。
にも関わらず憶えているのは不思議だった。
祭祀から一週間ほど経った頃だろうか。僕が夜の散歩をしていると、集会所のあたりから出てくる人影が見えた。何か会合があったのかもしれない。時刻は午前0時を過ぎようかとしていた。
僕はなんとなく、適当な石に腰掛けて、その人の流れを見ていた。十人ほどだったろうと思う。
暗いし遠目だったから人の判別はあまりつかなかったが、しばらくそうしていると、やがて巫女装束の一人の女性と、私服の燈子さんが出てきた。
(綾乃さん……?)
元々燈子さんの内侍の巫女であり、今は千種についている身の回りの世話役。
僕が座っている位置はちょうど彼女の帰路の導線上だった。隠れようかとも思ったが、それもなんだかおかしな気がした。こっちはただの夜の散歩中だ。
僕は驚かさないように消していたLEDのライトを点けて、存在をアピールした。
「結人さん……?」
先を行く燈子さんが僕に気付く。
「こんばんは、燈子さん。何かの会合ですか?遅くまでご苦労様です」
最初驚いた表情をしていた彼女だったが、すぐにいつもの柔和な笑みを浮かべた。ただ、その表情には微かに疲れが見て取れた。
「綾乃ちゃん、今日は結人さんに送ってもらうから、ここまでで大丈夫」
「分かりました。では、今日はここで失礼します。月城さんも、おやすみなさい」
そう言って去っていく彼女の背を見送ると、燈子さんは僕の隣の石に腰を下ろした。以前このあたりで若菜と話した時のことを思い出す。
「……」
燈子さんは少しの間、何も話さなかった。虫の声は秋の色合いを帯び始めていた。
「負ぶっていきましょうか?」
燈子さんから笑いが漏れた。
「いいわ、ありがとう。そんなに疲れて見えた?」
「燈子さんはいつも静かに溌溂とされています。それに比べると、些かですが」
燈子さんが足と手を正面に伸ばし、やがて弛緩した。パンプスと地面のあたる音が、少女の甘い舌打ちのようだった。
「ねぇ、この後、ドライブしない?」
「え……まぁ、予定はないですけど」
あるはずもない。
「大丈夫よ、取って食ったりしないから。千種には遅くなるかもって伝えてるけど、バレないように、こっそりね」
そんな風に言われると、何か悪いことをしている気分になる。
燈子さんの家から、彼女の白いボルボの助手席に乗り、車が走り出す。電動モデル特有のモーター音は慣れなかったが決して不快ではない。
やや車高の高いSUVのテイストがありながら、クーペのような流線形のボディラインは、彼女に似つかわしく感じられた。
紗季と外出する際、大抵は僕が運転した。彼女が運転するような時は外で合流して拾ってもらうようなケースが専らで、助手席が荷物で埋まっていることが多かったから、後部座席に乗ることが多かった。
そんなわけで、女性の運転する車の助手席に座るというのは、なんだか慣れなかった。
「落ち着かない?」
そんな僕を見透かしたように燈子さんが尋ねた。
「いえ、乗り心地はすごく良いです。ただ、助手席に座る機会があまりなかったので、ちょっと緊張してるだけです」
燈子さんは暗い夜道の先を見つめたまま、唇の端を柔らかく持ち上げた。
そういえば、行き先も何も聞いていない。でもドライブというのはそういうものだと、僕は思っていた。重要なのは目的地ではない。その時間そのものだ。
道中、燈子さんは何も話さなかった。
BGMもなく、僕らはただ夜の静寂の底を深海魚みたいに這いまわった。それは、不思議と心地よかった。
でも僕は、ふと思いついた話題を口にしてみた。
「千種さんは、施錠を任されるくらい、図書室が好きなんだそうですね」
燈子さんは正面を見つめたまま、少しだけ頭をこちらに傾げた。薄闇の中で彼女の長い髪がうねる。
「そうなのよ。あの娘、入り浸ってるみたいで。図書室の妖精とか言われてるのを聴いた時は、笑っちゃった」
そう言って微笑む。息遣いで、それがわかった。
「燈子さんも、そうだったんですか?学生の時分は」
彼女が小さくかぶりを振る。
「ううん、私は全然。本は好きだけれど……」
少し、考え込むような間があった。
「そうね……図書室に入り浸ってたのは、文乃ちゃんだったかな」
僕は彼女の横顔を見た。燈子さんの睫毛が、時折木の影から疎らに落ちる月光を浴び、濡れていた。
「閉じこもっていた……と言った方がいいのかも」
思わず開いた僕の口は、しかし虚ろを呑むようにしてまた結ばれた。
「文乃ちゃん、言ってたわ。『言葉に触れている時だけ、息が出来る』って」
ゆらりと、夜の森を何かが泳ぎ去ったような気がした。
暗く狭い山道をぐねぐねと走る事、十五分ほどだろうか。
目の前に二階建てのロッジが現れた。
「到着」
燈子さんは不思議に満足げにそれだけ告げると、車を降り、僕も続いた。
暗闇の中、彼女の土を踏む音と、鍵の擦れ合う音についていくようにしてドアを潜り中に入る。
湿った木と……これはイランイランだろうか?パチュリーやローズウッドのような香りもした。
燈子さんは入って左手のダイニングの間接照明をつけ、僕をテーブルに促すと、冷たい布巾を持ってきてくれた。
「何か飲む?」
「お水をいただければ」
「炭酸水もあるけど」
「いいですね」
彼女は翠のペリエの瓶とグラスを持ってきてくれた。二人分を注ぐと、それでようやく少しリラックスしたように見えた。
「ごめんなさいね、急につき合わせちゃって」
「とんでもないです。ドライブは元々好きですし」
僕はよく夜にドライブをした。ガソリンの無駄だと思いながらも、それでもそうやって独りの時間を作り、頭の中に溜った淀んだ空気を換気することが、僕には必要だった。
燈子さんはテーブルの上に敷いた腕の上に頭を載せ、グラスの中を遊ぶ泡を眺めているようだった。なんとなくその姿は、水族館を想起させた。大きな水槽の前で独り立ち尽くし、ぼんやりと何かを見ている。その水槽の中には巨大な魚がいる。
気づくと目が合った。あの、藤色の気配の瞳だ。美しい女性だと思った。当然だ。彼女は千種の母親で、先代の巫女だ。でもその意味を、僕はまだ十分に知らない。
「ここね、私たちの秘密の隠れ家なの」
私たち。
「私と、すみれの、ね」
「そんな大切な場所に、お邪魔してもよかったんですか?」
「あなたならきっと、すみれも許してくれるわ。村民会議の件、すごく喜んでた」
僕は思わず、小さく息を吐いた。
「よかったです。空回りしてるんじゃないかって、不安だったので」
燈子さんがかぶりを振った。そして背筋を伸ばし、姿勢を正した。
「ありがとう」
そんな風に言われることに、違和感があった。僕は散々失敗してきた。そういう後めたさがあるのかもしれない。でもそんなのは彼女が知る由もないことだ。
ただそれを抜きにしても、大したことは出来ていない。いい歳をして定職にも就いていない、怪しい男が暇に任せてジタバタしているに過ぎない。
「……」
卑屈になり過ぎるのも良くない。
「そういう風に言っていただけると、少しほっとします」
そう、返した。それからなんとなく間がもたなくなり、ペリエを口に運んだ。
「結人さんは……私たちのことについて、何か聞いてる?」
また、「私たち」だ。
「私たちっていうのは、私や、すみれや……文乃ちゃん。和夫さんや誰かから、何か聞いてるのかしら」
そう言われてみると、何も聞いていない。聞くべき何かがあると思ったこともなかった。
「いえ、特には。千種さんから、燈子さんが先代の巫女を務めてらしたとは聞いていたので、すみれさんと文乃さんも同様に、先代の巫女だとは認識していますが」
「そう……」
その「そう」には重みがあった。綺麗に布で包まれてはいるが、中には何かが蠢いている。そんな感じだ。
それからたっぷり十秒ほど、彼女は何も話さなかった。
「だったら、いいの」
なにが「いい」のだろうか。多分本当は僕に何かを相談したかったのではないかと思った。村の部外者である、僕に。踏み込むべきか、僕は迷った。だが、僕は自分の方でも彼女に尋ねたいことがあるのを、思い出した。
「神無月という男性を、ご存じですか?」
瞬間、彼女の瞳に暗い火が灯るのが見えた。敵意や殺意と言った単純なものではない。それは藤色の気配と混ざり、闇夜のドレスのように、彼女の身に纏われた。
「結人さんは、どこでその名前を?」
「公園で、琴音さんを探しているようでした。和夫さんには報告したんですが、彼からは何も教えてもらえなかったので」
この村の決裁者は和夫さんだ。だが、キーマンが一人とは限らない。彼を裏切るつもりはないが、僕は僕で気になることをそのままにしておくことに、段々と限界を感じていた。
「だから私から聞き出そうって……?ワルイヒトね」
彼女は珍しくシニカルに笑った。今日は初めての表情をよく見る。
「でも……そうよね、不公平よね。都合の良いときにばかりあなたを使って、それはあなたへの配慮でもあるのでしょうけど、本当は誰のためなのかしら」
その言葉は、ほとんど謎かけだった。
彼女の爪がテーブルを掻く音が、鼓膜を削る。栗鼠が胡桃を齧るみたいに。
風に、窓の震える音がした。
「この村はね、とある筋から多額の寄付を受けているの」
急に話がきな臭くなってきた。
「その中で、今後中核的な立場になると目されている最有力株が、彼。神無月玲央」
玲央。彼は四十前後に見えた。当時としては少し尖った名前だったかもしれない。
「企業のエグゼクティブとして若くして成功したらしくてね、政治家とも太いパイプを持ってるって噂……というか、たぶん事実。お金にも、女性にも、事欠かないんでしょうね」
燈子さんも、彼を好意的に見ていないであろうことは、その口ぶりから容易に察せられた。
「すみれが、彼らの接待をしてるの」
グラスの中の炭酸水はかつての勢いを失い、時折魚群からはぐれた魚のように、ぽつぽつと泡が昇るのみだった。
「もちろん強制じゃない。すみれが自分の意思でやってることよ。それがあるから寄付をいただいてるわけでもない。接待はあくまでも、付加価値」
彼女は冷静に振舞っていたが、それまで溜めていたものを吐き出すかのように語った。テーブルの上に折り重なるように言葉が降り注ぐ。
「彼は特に、すみれに執着してるみたいなの。彼がなぜ琴音ちゃんを探していたのかは分からない。でも、どうせ碌なことじゃないわ」
彼女に似合わない、毒づいた言葉。いや、理想化が過ぎる。
「すいません、お耳に入れるべきではなかったかもしれませんね」
「そんなことないわ。むしろ……秘密を共有する誰かが、欲しかったのかもしれない……そう……たぶんそう……」
「大丈夫です、誰にも口外しません」
火が、風に揺れている。
「……ありがとう」
誰かが傍にいるべきだといけないと思った。火守りが要る。
「燈子さんは、大丈夫なんですか?」
「私には、すみれがいるから。私たちは、お互いに支え合っていける……二階、見てみる?」
突然の提案に僕は戸惑いつつ、話の雰囲気を変えたかったのかもしれない、そう思って彼女について行った。
軋む階段を上っていくと、そこには寝室があった。クイーンサイズの、清潔な白いシーツの敷かれたベッドが鎮座している。アンティーク調の調度品に囲まれたそこは、燈子さんのアトリエにも通じる雰囲気があった。窓からは月がよく見えそうだ。
「素敵なお部屋ですね。とても、親密な雰囲気があります」
「すみれの接待の後、いつも二人でここで落ち合うの。私のデザインする服はね、いつもすみれをモデルにイメージしてるの。そしてそれを、一番最初に彼女にプレゼントするの。もちろん、全部してたらキリがないから、私やすみれが本当に気に入ったものを、大切に」
二人の繊細な世界がこの場所を創っている。象徴としてのドレス、あるいはランジェリー。
「どうして私、あなたにこんなことを打ち明けてるのかしら」
「……僕が弱り果てていて、無害だからじゃないでしょうか」
燈子さんの眼が僅かに見開かれる。
「若菜ちゃんに、そう言われたんです。そしてそれは、僕もその通りだと思いました」
その時、彼女は僕を見ていなかったような気がする。僕の背後……周囲?
僕は振り返ったが、そこには何もなかった。再度正面から燈子さんを見つめる。
「ねぇ、結人さん」
「はい」
「さっき言った通り、私とすみれは互いに支え合うことができる。……でも――」
彼女は一度言葉を呑み込んだが、改めてそれを真珠のように零した。
「文乃ちゃんはそうじゃない。結人さん、あなたにもしその気があるなら、彼女を、文乃ちゃんのことを助けてあげて欲しいの」
文乃さんを、助ける?
「燈子さん、それは――」
「詳しいことは私の口からは言えない。ごめんなさい、どうするのが誠実なのか分からなくて。でも、お願い、もちろん無理にじゃなくていいから……私じゃ、ダメなのよ……」
「どうして、僕なんですか……?」
それが、まず出てきた疑問だった。
何か小さな粒が、窓を叩く音がした。外を見ると、雨が降り始めていた。それは急激に強くなった。豪雨だ。二十五時のゲリラ豪雨。
「わかるのよ。ただ、わかるの」
あまりにも、詩的すぎる。彼女に見えている何かは、僕如きの想像力では到底及びもつかないものらしかった。なら尚更、そんな僕にそれは務まるのか?
「ひとつ、言えるとするなら……」
続きがあった。燈子さんが、僕になにかを伝えようとしている。
「弱っているひとというのは、時に危険よ。それでも、あなたは、そこで歯を食いしばっているように見える。すべてを諦めたような顔をしながら、誰かを理解することを捨てきれない。でもなによりも、誰かを傷つけることを厭っている。そして、渇いてもいる。温かい火の灯る家の前で立ち尽くす、雨に濡れた子どもみたいに。だから、私は――」
その後、雨脚が弱まるのを待って、僕らは隠れ家を後にした。




