図書館Ⅴ ~アトモスフェール~
薄暗く底冷えのする空間に、時折何かを擦るような音が微かに響く。少年は灯りの乏しい図書館の一階の隅で、ランプを点けて本のページを繰っていた。蔵書の少ない一階にも、唯一園芸に関する本だけはあった。
『お花。あと……花火』
彼女が望むもの。僕はそれを手に入れなければならない。でも、そのどちらもがこの凍てついた世界には似つかわしくないものだ。それでも探さなければならない。冬の過酷な環境でも咲く花。だけど、園芸用の本の中をいくら探しても、そんなものは見つからなかった。仮にあったとして、それをどうやって調達するかという問題が立ち塞がるが、そもそも存在しないものはどうしようもない。
(折り紙で花のようなものを作る……?)
何もしないよりはマシかもしれない。いや、マシだろうか?そんなものは僕の自己満足に過ぎず、彼女は眉一つ動かさないかもしれない。僕は散らかした本を棚に戻すと、冷たい梯子を昇った。そして四階に移動した。途中、彼女の姿はどこにも見えなかった。また寝ているのかもしれない。
今度は四階で園芸という枠組みを問わず、あらゆる植物について調べた。過酷な環境で生きられる植物となると、それは苔や地衣類ばかり。それはそれで美しいと言えたが、花というイメージではない。でもそんな沈んだ色調が続く図録の中で、ふと鮮やかな赤が僕の目に留まる。『コアカミゴケ』――苔と名前はついているが、それは地衣類の一種のようだった。赤く花のように見えるものは正確には子器といい、胞子を作るためのものらしかった。よく見るとややグロテスクで、花と呼ぶには苦しい気もした。でも、僕は不思議とその生命力に心を惹かれた。この世界で色を持つということ自体が、奇跡のように思えた。倒木や地上に生育することが多いとのことだから、周囲を探せばもしかしたら見つかるかもしれない。
それから僕は毎日のようにその地衣類を探して外を彷徨った。底冷えのする寒さの前でダッフルコートは心許なく、いつも一時間もしないで戻った。僕には何もなかった。もっと本格的な防寒具があれば、良かったのだが。無力さを痛感する。幸いなのは道を見失うことはなかったことだ。周囲には光源がなく、煌々と闇の中に浮かび上がる図書館だけが灯台のように僕の帰るべき場所を示してくれた。あるのかないのかも分からないモノを探し続ける日々は僕の精神を摩耗させた。今のままでは僕の行動範囲に限界があるのに加え、もしかしたら探している間に少女は図書館を去ってしまうのではないか、そういう不安もあった。そんな風にして気づくと二週間ほどが過ぎた頃だろうか。途方に暮れかけながら、その日も何の収穫もないまま図書館の前に辿り着いた時、それはあった。いや、いた。最初僕はそれが何か分からなかった。何かが地面から生えている。だかよく見るとそれは、外套姿の、恐らくは男。何故か顔が見えない。いや、うまく認識できなかった。思考に朧がかかったかのように。そして三メートルはあろうかという上背がその異様さを際立たせていた。やり過ごそうかと思った時には既に遅く、声をかけられてしまった。
「どうも」
低く、籠った声だった。
「あなたは……誰ですか……?」
あるいはこの図書館の関係者だろうか。だとすれば僕は微妙な立場になってしまう。
「誰……?そうか、確かに。重要なことだ。さすが、まだまだ冴えているね」
男の声を聞いていると、僕の心はざわめいた。彼は不吉な予言が二本足で立っているように見えた。
「そうだね、じゃあ、『狐男』とでも呼んでくれ。僕は……俺は……?私は……狐男だ」
一人称すら忘れてしまったのだろうか。そういえば僕はいつから僕のことを「僕」と呼んでいたんだろう。ダメだ、惑わされてる。
「狐男さんは、何かこの図書館に御用ですか?」
雪が体に積もり始めている。早く会話を切り上げたいが、この得体の知れない存在をできれば僕らの図書館に入れたくなかった。
(僕らの……?)
そうだ、ここはもう僕らの為の図書館だ。なぜだか僕はそんな風に思った。すると狐男は少し寂しげに言った。
「誤解しないで欲しい。私は君たちに危害を加えたいわけじゃない。本当だ。むしろ行き詰まってる君を助けに来たんだ」
怪しい。どう考えたって危険だ。
「君は探し物をしているんだろう?大事な人のために」
どうして知っているんだろう。僕は恐怖するべきなのだろう。でも――
「少し違う。それは……僕のためだ」
「でもプレゼントなんだろう?それでも君の為なのかい?ヒロイズムだねぇ」
馬鹿にされたような気がした。でも、別に好きに思えば良い。
「悪気はないんだ。そんな顔をしないで。君が凍える前に手短に言うよ。君が望むモノを私が代わりに探してきてあげるよ。もちろん、タダじゃない。痛みを伴わないものをもらうだけだ。むしろ、色んなことが痛くなくなるものを貰う。君はまだ飲めないだろうけど、アルコールのように」
彼が何を言っているのか、僕には理解が追いつかなかった。男の節くれだった指がゆっくりと僕の眉間に向けて伸びる。
「想像力だ」
一瞬何の話なのか分からなかった。
「想像力をもらう」
「それを取られると……どうなるの……?」
「不安になることはない。大人になれば多くの人間が失っていくものだ。中には想像力が仕事の種の人間もいるけどね、ほとんどの者にとってはそんなものあったところで苦しいだけだ。余計なことばかり考え、明日の苦しみを思って、辛くなる。だから、奴隷の想像力に置き換えていくんだ。そうするうちに、本来の君のための想像力はすり減らされ、消えていくんだ」
「奴隷の想像力って?」
「誰かから何かを搾取する機械を、より効率的に動かすためにはどうすれば良いか、それだけを考える為の想像力さ」
僕には抽象的過ぎてうまくイメージできなかった。
「君はセックスしたいと思うかい?」
唐突なその問いに、僕はどう返していいか分からなかった。そんなのはしたいに決まってる。でも、相手の意図が分からなかった。文脈が分からない。
「したいと思うなら、どんな風にしたいと思う?」
雪空の下、冷え切った体が熱く火照る。
「想いを通わせた相手と、気持ちを伝えながら、どうすれば相手が気持ちいいか考えながら……とか……」
ここには茶化すような者は誰もいない。それは僕の素直な気持ちだった。
「それは何のため?」
「……僕と、相手の、幸福のため……」
「素晴らしい。それは人間が勝ち得たロマンチシズムだ」
ロマンティックなこと、なのだろうか。僕にはやはりよく分からなかった。
「君はその心も、カラダも、愛も、自分と愛する者の為のモノだと思っている」
続くであろう否定の言葉に、僕は身構えた。
「だがカラダも、愛も、心も、誰かの為に差し出さなければならないこともある。自分の『幸福』のために」
僕は、自分が息をしていることを確かめるのでやっとだった。
「あの女はそれをよく知ってるはずだ。だから君にもそういうものを要求したっていい」
冷たさが痛みに変わり、そして感覚を奪い始める。でも僕はそのことに不思議とほっとしていた。
「でも需要と供給のバランスの問題でね。それじゃ割に合わないんだ。だから君には、想像力を差し出してもらう」
僕には到底想像できないことばかりだった。だから、僕は言った。
「僕には大人のことはよく分からないけど、でも想像力なんて、とうにそんなものは殺してきたよ。ほんの数年前まで、僕の予定は一年以上先まで、一時間単位で決まってた。想像力のスイッチを切って過ごしてきた。だから、そんなものはいくらでもあげるよ」
男はゆらりと、その細長い指で僕の眉間に触れた。
「安心しなよ。まだまだたっぷり想像力は詰まっているようだ」
指を離すと、彼は僕を睨め付けた。顔を認識できなくても、気配でそれが分かった。彼もまた何かに傷ついているのだろうか。
「想像力不足で人を傷つけ、その罪悪感で言葉を失い、愛する人に愛も語れないくらいになって、ようやくだ。想像力なんて要らない?よく言える。……いや、俺は矛盾したことを言ってるな。僕は君から想像力を貰おうって言うのに、お笑い種だ」
僕は少し怖くなった。僕はその罪悪感から逃れたくて彼女へのプレゼントを探し始めたのではなかったろうか。
(……でも)
今や僕の気持ちは変わっていた。僕のことなんてどうだっていい。彼女のために何かしたい。これまでだって未来のために想像力を殺してきたんだ。そして今度は想像力不足で未来において困るなんて言われても、ならどうしたらいいというんだ。何も信用ならない。なら、僕は今助けたい誰かのためにそれを使いたい。何の役にも立たない想像力を。
「……罪悪感が手に負えなくなれば、今度は感性を奪ってやる。そうすれば、傷つくこともない。そうさ……そろそろ中に入った方が良い。想像力すら凍りつく前に」
僕が図書館の中に戻った後、外を振り返ると、彼は遠くに歩き始めていた。どこに行くのだろう。そもそもどこから来たのだろう。でも、その背中はなんだか傷ましく映った。僕に、彼に同情するような義理もない。世界が軋みを上げる。僕に振り返っている余裕なんてない。




