霞Ⅱ
『やっぱり……結人さんが特別だったよ……』
それは違う。
僕はアパートに戻って、洗濯物にアイコンをかけながら、琴音の言葉を反芻していた。
琴音を傷つけたその彼と、琴音の間に、これまでどのようなニュアンスのやり取りがあったのか、僕には分からない。でももし、僕が彼の立場だったとして、絶対に彼女を同じように傷つけなかったかと言われたら、正直、断言する自信はなかった。
彼女より先輩ということだから、二十歳前後だろう。その頃の僕の想像力や人生経験で、同じ失敗を絶対にしないとは、到底言えない。
アイロンのスチームの音が、僕の頭の空気が抜けているような錯覚を呼び込む。
「……」
溜息が出た。
このままじゃダメだ。まだ足りない。そう思った。
多分今回は、彼女にとっての初めてが彼ではなく僕になっただけなのだ。この人だけは違う、この人なら大丈夫、その対象が僕になっただけだ。
かつての世界では、今回よりも彼女は不安定だっただろうし、その人物とのディスコミュニケーションが原因でより傷つく結果になった。理想論に過ぎないかもしれないが、その認知の歪みを改善しないと根本的な解決にはならないのかもしれない。
完全な善者もいなければ、完全な悪者もいない……多分。図書室で千種に伝えたことだ。
その不完全さを受け止めていかなければならない。でなければサバイバーとなったとしても彼女は断罪者になり、分断を生む側になるだけだ。それは彼女にとっても幸福ではないはずだ。そんなの悲しすぎる。
窓の外を見る。蝉が鳴いている。あの祭祀の日がやってくる。
――結論から言えば、その祭祀の日は何も起きなかった。
祭祀の日から数日たったその日の朝、僕は夢を見た。夢の中で目覚め、布団から上体を起こすと、足元に千種が座っていた。手折られた白木蓮のようだった。彼女は巫女装束だったが、はだけた白い肩が月明りに照らされていた。
彼女は目を細め、湛えられた瞳は藤色に蕩けている。そして見たことのない艶美な笑みを浮かべ、衣擦れの音とともに、這うようにして僕の方へ近づいてきた。甘い、月下香の匂いがした。
覚えているのはそれだけだ。でも、現実世界で目が覚めた時、なんともいえない罪悪感に苛まれた。
外で竹刀を振ってもモヤモヤとした気持ちは晴れなかった。そもそも、自分で設定した今後の方針を定める期限を過ぎているのだ。根本的に焦っているのかもしれない。
ヌァルーからの頼みについても、僕自身の事についても、すべてが中途半端だった。現実はそんなものかもしれない。でも、釈然としないものがある。僕の足はいつしか、社へと向かっていた。
なんとなく人目を避けたくて、茂みを越え、神社の敷地の端の崖の淵に座り、これまでのことを振り返る。
今回、若菜は巫女の伝統を継がなかった。それは僕が千種と琴音に介入し過ぎたからだ。若菜が彼女らを支援しようとするきっかけを、僕自ら失わせてしまった。
若菜の成長の機会や彼女らが友情を育む機会、更には若菜が推し進めていったかもしれない村の伝統の現代化まで、色んな可能性を奪ってしまった。
琴音に関しても、事件の後の彼女は前回よりは状態が良いのは確かだったが、反動として僕や千種、すみれさんに対して依存的になってしまったようにも見えた。
もちろん、塞翁が馬という考え方もある。何が最善かなど、わからない。立場によっても変わるし、全てが終わってみないとなんとも言えない。
実際、恐らくは若菜が巫女にならないことで、神崎君が厄神につけいられ憑代となることは避けられた。祭祀の日に二人は衝突するようなことはなく、後日僕が彼と話すこともなかった。ただ、穏やかに日々が過ぎた。
若菜は今年の祭祀の日、神崎君と一緒に祭りに遊びに来ていた。短期的に見れば悪い結果ではないし、神崎君にとってはむしろ幸福な結末なのかもしれない。ただ、そう都合よく考えることは、些か無責任にも感じた。正解などないことは分かっていても。
「後悔してるのかい?結人」
気づくと、隣にヌァルーが座っていた。これは僕にだけ見える幻影のようなものだろうか。その神性には実在感がなかった。またしても、夢と現実の境界が曖昧になっている。
「君の考えている通り、何が正解かなんてわからない。確かに、一番波長の合っていた若菜がいなくなってしまったことは痛手だけど、仕方がない。結人は結人のことだけ考えて、人間らしくエゴイスティックに生きていいんだ。ここまで巻き込んでおいてなんだけどね」
「……」
僕はなんて返していいか分からなかった。ヌァルーは一人で続ける。
「みんな君のことは慕ってる。適当に誰かとくっついて、このまま村でポスト白木和夫を担うのも悪くないんじゃない?」
確かに今後、和夫さんがいなくなった後のことは心配ではある。でも誰かと?うまく想像できなかった。
(……千種)
今朝夢で見たせいか、千種の顔が浮かんだ。妻の面影を纏った少女。でも妻とは全然違う女性。今回、図書室での一件ではヒヤヒヤした。もし何かの流れでまたアプローチをかけられたとして、少しずつ大人になりつつある彼女を僕は拒みきれるだろうか。
いや、自惚が過ぎる。村で巫女の勤めに従事しつつ、通信講座や燈子さんの手伝いで服飾関係のキャリアを積み始めた彼女に、今のところ新しい男の影がないことは、話していてなんとなく分かっていた。
優しく、柔らかく、まだまだ無垢で、でも性的好奇心の強い少女。
(……染め甲斐がありそうだ)
僕から働きかければ、恐らく靡くだろう。彼女は渇き、潤っている。心の隙間に熱い湯を注いであげれば蕩け、悦ぶはずだ。自分好みに仕込めば、アブノーマルなことでも受け入れるんじゃないか?愉しそうだ。それに彼女の巫女としての収入があれば、僕の職業選択の自由は大きく拡がるだろう。それこそポスト白木和夫を目指したっていいし、文乃さんの指導は得られないが、文筆業に邁進してもいい。僕が手に入れたチャンスだ、誰にも文句は言わせない。みんなそうやって生きている。人生はビジネスだ。どんなお為ごかしを弄じようと、相手の脆弱性に付け込んで己の利益を最大化するのが新自由主義の世界を生き抜くための最適解だ。
(……僕はいま、何を考えていた?)
そういうのは僕が一番嫌がっていたんじゃないのか?
遠くで、鐘の音が聴こえる。
何者かが僕という歪な器を傾け、上澄みを排水口に流しているような音がした。
そして、どろりとして糸を引く澱だけが残る。
やめてくれ、もう僕はこれ以上自分に失望したくないし、誰も傷つけたくない。
いや、そうだ、だからこそ僕は相応しい結末を求めていたんじゃなかったのか?
鈴の音がする。どこかで、何かが打ち付けられている。饐えた、臭いがする――
耳鳴りがして、僕は思わず立ち上がった。
「結人……?」
世界が揺らいでいる。輪郭がぼやけ、フラフラとして体の軸が定まらない。
「まずいな。今の精神状態で社の近くに来るべきじゃなかったんだ。早くここを離れて――」
ヌァルーが何か訴えていたが、僕が一歩踏み出した先に、足場はなかった。
浮遊感。
途中、何度か崖に体を打ちつけて、肉が抉れた。
熱い。
――あ
誰かが舌打ちした気がした。




